第百十九話目~ホットチョコレートと帰り道~
吹奏楽の演奏から数時間後。ディシディアたちはまだステージの前に立って出し物を眺めていた。
演目はダンス、大道芸、はたまた楽器演奏などと多岐に及ぶ。やはりこの舞台に合わせて調整してきたのだろう。どれもこれも素晴らしい出来栄えだった。
日も暮れてすっかり真っ暗になっているというのに、人々の勢いは衰えることがない。むしろ、どんどんボルテージが上がっていっているようで、特にステージの方には大勢の人が集まってきていた。
一方ディシディアはというと……眠そうにうつらうつらと舟を漕いでいた。すでに瞼は閉じかかっており、時折耳はしゅんと垂れる。
少々はしゃぎ過ぎたのだろう。彼女がこんな状態になるのは初めてだ。
「ディシディアさん。大丈夫ですか?」
周りの迷惑にならないよう、彼女を庇うようにしながら問う。と、彼女はうっすらと目を開け、とろんと潤んだ瞳で良二の目を覗き込んだ。
「むぅ……すまない。ちょっと限界が来たみたいだ……」
「謝らなくていいですよ。じゃあ、ちょっと早いですけど帰りましょうか」
彼女の手を握り、人ごみを抜ける。だが、ディシディアの足取りはおぼつかないものでほぼ良二に引かれるままとなっている。このままでは人に押されて怪我をしてしまうかもしれない。
良二は一旦足を止め、彼女の方に歩み寄るなりそっと背を向けてしゃがみ込んだ。
「乗ってください。歩くのも辛いでしょう?」
「むぅ……ありがとう、リョージ」
ディシディアは目を擦りながら彼の背におぶさる。良二は確かな重みを感じながら立ち上がり、一歩を踏み出した。
よほど眠いのだろう。ディシディアの体はほんのりと温かく口からは微かな呻きが漏れていた。その有様に、良二はわずかに口角を吊り上げる。
最初の方は彼女もまだ気を張っている部分があったが、今はだいぶ打ち解けた間柄になっていると思っている。事実、彼女は最初よりも色んな表情を見せてくれるようになった。
いつも見せる大人びた表情。たまに見せる子どもっぽい無邪気な顔。そして今見せているような無防備な表情。そのどれも、良二は大好きだった。
良二はてくてくと歩きながら辺りに視線を巡らせる。すでに屋台などは閉店作業をしており、良二たちのゼミ生たちも帰り支度を始めていた。
流石に、このまま挨拶なしで帰るのは忍びない。良二はディシディアを落とさないよう細心の注意を払いながら、屋台の方へと向かった。
すると、こちらに気づいたらしき誰かが手を振ってくる。暗闇の中でも妖しく輝く綺麗な緑色の瞳を見て、良二は口元を緩めた。
「一乗寺さん。もうバイト終わったんだ」
「は、はい。ご迷惑をおかけしてすいません」
良二の眼前に立つ波打つ黒髪を持つ少女――一乗寺玲子は頭を下げる。彼女はそこでようやく彼の背におぶさっているディシディアの姿に気づいたらしく、ひょこっと彼女の顔を覗き込んだ。
「あ、あれ? ディシディアちゃん……」
「あぁ。ちょっと疲れて眠ってしまったらしいんだ。だから、俺はこのまま帰るけど……準備の方は手伝わなくてもいいかな?」
と、屋台の方を見たが、そちらではゼミ生たちがまたしてもシッシッと手で追い払うジェスチャーをしていた。わかりにくい優しさに感謝しながら、良二は彼らに一礼。
「ありがとう。じゃあ、頼んだよ」
「は、はい。お疲れ様でした……ッ!」
「うん。また明日」
良二は深々と頭を下げてくる玲子に小さく頷き校門の方へと向かっていく。その間にも、屋台からは呼び込みの声が響いていた。売れ残るとすべて処分しなくてはならないのか、半額以下の値段で売り払っているところもある。もしディシディアがいれば、きっと片っ端から制覇していたところだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、
「くちゅっ!」
耳元で、可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。見るまでもなく、その発信源はディシディアである。良二はわずかに首を捻り、彼女の顔を見やる。
「大丈夫ですか?」
「あぁ。ちょっと、寒くてね……」
「なら、俺の上着着ます?」
しかし返されるのは否定。彼女は力なくフルフルと首を振り、大きな欠伸と共に答えた。
「いや、大丈夫だよ。そうしたら、今度は君が寒い思いをしてしまうだろう?」
「いいんですよ。遠慮しなくて」
そう告げたが、彼女は小さく首を振る。だがその代わりと言わんばかりにギュッと力強く抱きついてきた。
「ほら、これなら温かいだろう?」
耳元で聞こえてくるのは甘く艶っぽい声。一瞬だけドキリとしてしまったが、良二はそれでも歩を進めていく。正直、自分の心臓の音が彼女に聞こえないか不安だった――が、ディシディアはすでに夢見心地だ。ほぼ意識はないようなものである。
「それにしても……確かに寒いなぁ」
もう吹き荒ぶ風は冬を告げている。ひんやりとした風が頬を撫でる度、良二は身震いした。結構厚着をしてきたつもりだったが、それでも足りなかったらしい。
(とにかく、早く家に帰ろう)
そう心の中で呟き、大きく一歩を踏み出そうとした――が、視界の端で見えたものを見て、ピタリと足を止める。
その視線の先にあったのは閉店間際の屋台。そこの厨房からはもうもうと湯気が上がっており、かつ甘い香りが漂ってきている。空きっ腹にはずいぶん応える匂いだ。
「んぅ……」
微かな呻きを漏らしたのち、ディシディアもそちらを見て嬉しそうに頬を緩める。
「買うのかい?」
言われて、良二は店のポップを見やる。どうやらここではホットチョコレートを売っているようだ。この寒い夜には非常に嬉しいものである。
もはや、選択肢は一つ。良二はそちらへ歩み寄り、ポケットから小銭を取り出した。
「すいません。ホットチョコレート一つ」
「はい。かしこまりました」
代金を渡し、待つこと数十秒。紙コップになみなみと注がれたホットチョコレートが差し出される。が、良二は受け取ろうとして顔を歪めた。
「えと……」
今、両手はふさがっている。もし片手を離せば、ディシディアの体はずり落ちてしまうだろう。それだけは避けなければならない。
(ど、どうしよう……)
額に汗を浮かべながら困惑する良二だったが、そんな彼の考えを読んだかのようにすぅっと白い手が紙コップの方へと伸びる。見れば、眠そうな目をしたディシディアがこちらに目配せをしてきているところだった。
「ありがとう……いただきます」
彼女は紙コップを受け取るなり、ホットチョコレートをこくこくと喉を鳴らして飲む。そうして体をだらんと弛緩させた後、良二の口元へ紙コップを寄越してくれた。
「温まるよ。飲みなさい」
「えぇ、ありがとうございます。いただきます」
紙コップに口をつけ徐々に顎を上げる。それにつれてディシディアが微妙な調整を咥えつつ紙コップを操り、ホットチョコを飲ませてくれた。
ミルクの風味と濃厚な風味が溶けあったホットチョコレートは体の芯から温まるようだ。浮かんでいるマシュマロはふかふかとしており、噛むと独特の酸味を醸し出してくれる。
良二はそれでのどを潤してからそっと口を離し、ディシディアに笑いかける。
「ありがとうございます。じゃあ、次はディシディアさんどうぞ」
「うん。ありがとう」
ディシディアは静かにホットチョコレートを飲んでいる。これで少しは暖が取れたのだろう。彼女の頬は軽く上気しており、体の震えも止んだようだった。
だからと言って、このまま寒空の下にいるわけにもいかない。良二は駅へと向かいながら、ぼんやりと空を見上げる。
「ねぇ、ディシディアさん。今日、どうでした?」
「楽しかったよ、すごく……」
すでにホットチョコを飲み終えた彼女は再び大きな欠伸をしていた。温かいものを食べて落ち着いたらしい。また瞼が落ちかけ、体の力が抜けていく。
良二はしっかりと彼女をホールドしつつ、ぽつぽつと語り始める。
「ディシディアさんが楽しんでくれたなら、何よりです。明日もありますし、そっちも満喫しましょう。それに、文化祭は来年もありますからその時はまた一緒に……」
そこまで言って、良二はガクッとつんのめった。ディシディアはすっかり眠りこけており、口からは心地よさ気な寝息が聞こえてきている。
「……まぁ、今日はこれくらいにしておきましょうか」
背中に感じる確かな温度と重さを感じながら、良二は先へと進んでいく。
気のせいか、疲れているはずなのになぜか足取りは軽かった。