第百十八話目~吹奏楽とアイス天~
屋台を後にしてからしばらく後。ディシディアたちはパンフレットを片手に探索を行っていた。
ここでは建物の中でも催しが行われており、しかもその建物は敷地内にいくつも備えられている。移動は大変だが、ディシディアにとってはどうでもいいらしい。彼女は辺りに見えてくる見たこともない催し物たちに目を輝かせている。
「素晴らしいな。若さとはすばらしいものだ」
ディシディアはすでに二百歳近い高齢である。自然と年寄りじみたことを呟いてしまう彼女に、良二は小さく首を振って否定を返した。
「まだまだディシディアさんだって若いですよ。その……心が」
「嬉しいことを言ってくれるね。そう。体が老いても心の若さは保たなければならない。これは私の師匠の言葉だがね」
ディシディアは講釈を垂れる教授のように人差し指を天に掲げながら先へと進んでいく。もちろん、その間教室に目を配ることも忘れない。
どうやら屋内では文化部が展示などを行っているらしい。また、良二たちのゼミは飲食店を営んでいたが、文化祭を研究発表の場にしているところもあるらしく、教授らしき人物が学生たちに語りかけているのもちらほらと見えた。
「ところで、ディシディアさん。今日は何時くらいに帰る予定ですか?」
「そうだね……できれば、七時ころには帰っておきたいな。明日もあるし、何も今日無理して全部回る必要はないだろう」
その判断は妥当だ。とてもじゃないが、文化祭を一日で満喫することなどできはしない。仮にできたとしても、徐々に疲れが溜まっていくのは目に見えている。
なら、今日はある程度セーブしておいて明日本気を出す方がいいだろう。その提案に、良二も大きく頷く。正直なところ、彼も今日は準備などで疲弊していた。
「そうだ。リョージは何時ごろに帰れるんだい?」
「俺もディシディアさんと同じくらいに帰りますよ。きっと、他のみんなも許してくれると思うんで」
「そうか。君は友人に恵まれているな」
脳裏に浮かぶのはあの愉快なゼミ生たち。ついつい思い出し笑いを浮かべながら、ディシディアは橋らの影に身を寄せてパンフレットを開いた。そこにはいくつか赤ペンで記入がなされている。
それは、彼女がこの文化祭において是非行ってみたい場所を示すマークである。
今のところ候補に挙がっているのは文化部のステージ、お化け屋敷、そして何より屋台が集まる中庭だ。
「ふむ。次はどこに行こうか?」
「じゃあ、一旦建物から出ませんか? その後で決めましょう」
「それもそうだね」
パタンとパンフレットを閉じ、階段の方へと向かっていく。来客が来るとわかっているためか、床はピカピカに磨かれている。元々建築から日が浅いのかもしれないが、全体的に清潔感に満ちた大学だ。
「君の大学は色々と面白そうな場所があるね。また機会があれば是非来たいよ」
「えぇ、案内しますよ。あ、そうそう。ウチの学食ってまだ食べたことないですよね? 奢りますよ」
「ふふ、楽しみにしておくよ。だが、それよりも私は君がどのような授業を受けているのか気になるな」
「って、授業参観じゃないんですから……」
ディシディアが授業に参加すればどうなるかは見なくてもわかる。きっと彼女は自分よりも熱心に授業に取り組むことだろう。それだけは確かなことだ。
彼女の知識欲には良二も一目置いている。正直、それも彼女の才能だろう。無知を恐れず、何事にも真摯に取り組む。中々できることではない。普通は余計なプライドなどが足を引っ張るものだが、彼女にはそれがない。
「やっぱり、ディシディアさんは研究職とかが合っていると思うんですよね」
「おや、そう思うかい?」
ディシディアは少しだけ意外そうな顔をする。それが良二には少し不思議だったが、そのまま続けた。
「えぇ。だって、色んなことに手を出しているじゃないですか。で、一度興味が出たら徹底的にそれを調べるってかなり学者とか教職者向きだと思ったんですけど」
「そうか……ふふ。そう言われたのは初めてだ。だが、言われてみればあちらでは弟子も取っていたから、あながちその分析は間違いではないと思うよ」
「お弟子さんがいたんですか?」
「? 言ってなかったかな?」
良二は曖昧な笑みを浮かべる。言われたような気もするが……イマイチ確証がない。
対するディシディアは顎に手を置き、何か考え込んでいるようだったがやがてパンッと手を打ちあわせる。
「そうか。なら、それも今度話すとしようか」
「お願いします。言われてみれば、俺はディシディアさんのことをまだ全然知らないんですよね」
「それはそうさ。私は君の十倍以上生きているんだ。全てを話していたら、キリがないさ」
ディシディアはひょいと肩を竦めながらそう答え、階段をピョンッと飛び降りる。彼女は着地すると同時くるっと綺麗にターンして、良二の方に満面の笑みを浮かべたまま向きなおってきた。
「……だが、私は君になら話してもいいと思っているよ。私の全てを。聞いてくれるかい?」
「ええ、もちろん。聞かせてください。あ、でも、今日じゃないですよ? 明日も……やめておいた方がよさそうですね」
「そうだね。まぁ、今度酒を飲みながらでも話をしよう。素面では言い辛いこともあるからね」
「それって、何かの失敗談みたいなものですか?」
「まぁ、そんなところだ」
図星だったのだろう。ディシディアは頬を紅潮させながら、ブスッと唇を尖らせる。正直、とても気になるところだったが今は文化祭の真っ最中。今はこちらを楽しむことの方が最優先だ。
やがて一階に到着して外に歩み出るなり、ディシディアは肺いっぱいに息を吸い込んだ。これまでずっと森で暮らしていたせいか、彼女は長時間室内にこもっているのは苦手らしい。
猫のように目を細めながらぐ~っと背伸びをする彼女に笑いかけつつ、良二はきょろきょろと辺りを見渡した。すでに時刻は十二時間近。お昼時ということもあり、人の流れは最高潮だ。特に中庭には大勢の人が集まっているのが見てとれる。
「まだお腹は大丈夫ですか?」
「あぁ、焼き鳥を食べたからね。あれは美味だった……肉はどうやって仕入れたのかな?」
「これは秘密ですけど……実は大将に相談したんです。文化祭で屋台をやるって。そしたら、大将がいつも業者さんやらを紹介してくれて……って感じです」
「なるほど。そういうことか。横のつながりとは大事なものだね」
「えぇ。俺も最近それをよく実感しますよ」
などと話しながら二人が向かったのはグラウンドの近くに備え付けられた特設ステージ。そこではすでに軽音楽部による演奏が行われていた。
流れてくるのは聞き覚えのないメロディー。だが、美しい旋律は二人の心をがっしりと掴む。
女性ヴォーカルの声は伸びやかで、それでいて透明感がある。
ギターのソロは滑らかでサウンドに広がりを持たせており、ベースの刻みは地味だがそれによって音に重厚感がプラスされていた。
もちろん、リズムを刻むドラムも忘れてはならない。時に優しく、時に激しく場を盛り上げる。
当然ながら、ディシディアにとって軽音楽は馴染みのないものだ。演奏されている曲も全く知らない。しかし、その演奏がいいかどうかはわかる。
学生らしく拙さはある。けれどそこには気持ちが込められており、何より参加者全員が楽しそうにしている。人を楽しませてこそ、芸能だ。上手い下手は二の次である。
やがてヴォーカルがマイクを天に掲げたところで音楽がピタリと止み、代わりに拍手喝采が辺りを満たす。ディシディアたちも拍手を送りながら、ステージへと足を進めた。
そうして一番前にやってくると、ちょうどスタッフたちが片付けを開始しているのが目に入った。どうやら、次の演奏者たちのために場を整えてあげているらしい。
マイクスタンドなどが脇に寄せられ、その代わりに今度はパイプ椅子が数脚ステージの中央に半円を描くようにして置かれる。
「リョージ。次は何が始まるんだい?」
「えと……次は吹奏楽部の演奏らしいですね」
「吹奏楽?」
「え? 吹奏楽って聞いたことありませんか?」
良二の問いにディシディアはフルフルと首を振る。彼はしばし腕組みをしたかと思うと、たどたどしく告げる。
「吹奏楽っていうのはですね……管楽器がメインの音楽ですよ」
素人なりにわかりやすく伝えたつもりだが、ディシディアは首を捻るのみ。もしかしたら、管楽器というのがイメージできていないのかもしれない。
「とりあえず、見ればわかりますよ。ほら、もう来てますし」
「ん? って、何だ、あれは!?」
何気なくステージの方を見たディシディアは驚嘆の声を上げる。
だが、それも無理はないだろう。
彼女の視線の先にいたのは四人の男女。彼らが手に持っているのは見たこともない楽器ばかり。大砲のような形をしたものもあれば、巻貝のような形をしたものまである。全くもって、未知の領域だ。
唖然とするディシディアをよそに、壇上の四人は丁寧に頭を下げ、着席。そうして、ピッと背筋を伸ばして楽器を構えた。その所作は非常に洗練されたものであり、さながら刀を構える侍のようであった。
その様に、観客たちも思わず息を呑む。そうして、一瞬の静寂が辺りを包みこんだかと思った直後、四人が持っている楽器の中で一番小さなもの――トランペットがその大きさに見合わぬ痛烈な音を放った。
それはその場にいる全員の心を射抜くような鋭い音色。しかし、音が割れているわけではない。丁寧なブレスとアンブシュアによって緻密にコントロールされたものだ。
続けて、大砲のような楽器――チューバがボンッボンッと毬が跳ねるかのごとき軽快さで刻みをいれる。それは重くなく、軽やかだ。とてもじゃないが、あの無骨な楽器から出ている音とは思えない。
それにメロディーを加えるのは巻貝のような楽器――ホルンと伸縮する管を持つ楽器――トロンボーンだ。ホルンの甘い旋律はメロディーに色気を加えてくれる。それにより、演奏に厚みが増した。
トロンボーンはスライドをせわしなく動かしながら、裏のリズムを刻む。かと思えば、服旋律を奏でたりと、かなり重要な役割を担っているようだ。
演奏されているのは子どもたちにもとっつきやすいと思われるアニメの曲。どうやらメドレーらしく、コロコロと旋律が切り替わっていく。
盛り上がり具合は先ほどの軽音部に負けていない。演奏者たちは観客たちの反応を見て曲にアレンジを加えていっている。おそらく、これは完全なアドリブなのだろう。実際、トロンボーン奏者の男性がソロの時に立ちあがってわざとスタッカート気味に拭いて見せた時は他の奏者たちも目を見開いていた。
が、この状況を誰もが楽しんでいることは明白。もちろん、ディシディアもだ。
彼女は言葉を発さない。ただ無言で演奏に魅入られている。
トランペットの勢いのあるソロも、トロンボーンの流麗なスライド捌きも、ホルンの丸みがある柔らかな音色も、チューバの全身が震えたつような重低音も、全てが心地よい。
まるで、体全体が音楽で包まれているような感覚。雑味がなく、それぞれの楽器たちが違ったやり方で己を表現している。しかしそれでいて、曲の意図は外していない。だから、ここまでの演奏ができているのだ。
やがて曲は佳境に入り、テンポが速くなっていく。しかし、音は滑っておらず一音一音丁寧に当てており、心が込められている。彼らがどんな思いを抱いてここにやってきたのか、それが伝わってくるようだった。
「――ッ!」
あっという間だった。おそらく数分ほどの演奏だったが、それでも数時間以上聴いていたと錯覚してしまうほどの密度。ディシディアは掌がじっとりと汗ばんでいることに気づいた。
演奏者たちもぜぇぜぇと荒い息をついている。だが、それでもなお笑みを浮かべたまま丁寧なお辞儀を観客へと送り、ステージを後にする。
そこでようやく、観客たちは思い出したかのように拍手喝采を送った。本当にいい演奏を聞いた時は、賛辞を送るよりも先に呑まれてしまう。今回はまさにそれだったのだろう。
「圧巻だったな……いや、とてつもないものを目の当たりにしたよ」
ディシディアはまだ体の芯が熱く火照っているのを感じた。それだけの熱量と気迫が伝わってきたのだ。それは良二も同じらしく、顔を赤くして目を少年のようにキラキラとさせていた。
「すごかったですね、ディシディアさん。その……上手く言えないんですけど……」
「わかるよ。私も同感だ」
良二は言葉を失っている状態だったが、感動しているということだけは伝わってきた。ディシディアはそんな彼を宥めつつ、ちらとステージ上を見やる。
見たところ、午前の講演は今のが最後だったらしい。トリにふさわしい演奏だ、と今さらながら思ってしまう。
「さて、ではちょっと小腹でも塞ぐか」
「ですね。何か美味しいものが売ってればいいんですけど」
と、二人が視線を彷徨わせたその時だった。ふと、視界の端に食べ物屋らしきテントが映りこんできたのは。
見れば、ステージ近辺にもいくつかの食べ物を販売している屋台がある。どれもこれも軽食ばかりで、立ち見中に食べてもらうことを想定しているのだろう。二人は同時に頷き合い、一番目を引いた屋台に足を向ける。
その屋台に掲げられているポップにはデカデカと『アイス天』と書かれている。呼び込みたちの言葉を聞くに、文字通りアイスの天ぷらであるようだ。
体のほてりを冷ますにはもってこいの料理。自然と二人の喉が鳴った。
「あ、いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは小柄な男性だ。やや童顔気味の彼はニコリと笑いながら、手前のお品書きを指さす。
「ご注文は何になさいますか?」
「えっと、アイス天のチョコを一つお願いします」
「なら、私はミルクだ」
「はい、少々お待ちください! お代は二つ合わせて四百円です!」
「はい、お願いします」
良二が代金を支払う中、ディシディアは屋台の中を見やっていた。どうやら、本当にアイスを揚げているらしく音は聞こえる。ただ、どうやっているのかは仕切りがあってわからない。
彼女は少しだけ残念そうに唇を尖らせたが、やがてこちらに差し出されてきたアイス天を見るなりパァッと顔を輝かせた。
紙袋に包まれているそれはまだアツアツだ。ディシディアは落とさないよう細心の注意を払いながら、その中を見やる。
コロコロとしたフォルムで、表面はこんがりとキツネ色に揚げられている。パッと見た感じはシュークリームが一番近いだろう。
しかし、重量感がまるで違う。中にはギッシリとアイスが詰まっていることがこの段階でも十分わかった。
「じゃあ、食べましょうか」
「そうだね。いただきます」
やはり、こういった場所での食事は鮮度が命。ディシディアたちはそう呟くなり、勢いよくむしゃぶりついた。
案の定衣は熱く、つい口を離してしまいそうになる。だが、衣を破れば中からトロトロになった冷たいアイスが顔を出してきた。それによってうまく口の中の温度が整えられ、言いようのない多幸感が訪れる。
表面の衣はしっかりとした歯ごたえはあるけれど、中は甘く柔らかい。
最初は衣の香ばしさが際立つが、歯を入れた瞬間にミルクの濃厚な風味が鼻孔を貫く。
温度も食感も、何もかもが正反対なはずなのに驚くほど見事に調和している。
何より、冷たいアイスは火照った体を優しく癒してくれるのだ。それでいて味も満点以上なのだから、これほど嬉しいことはない。
「リョージ。そちらもよかったら食べさせてくれないかい?」
「いいですよ。じゃあ、ディシディアさんのも一口いいですか?」
「もちろん。ほら」
ディシディアは良二の方に自分のアイス天を差し出しつつ、こちらへ向けられたアイス天を頬張る。良二が頼んだのはチョコだったが、こちらも中々にイケる。
まろやかなチョコの風味が得も言われず、中に入っているチョコチップもいいアクセントだ。しかもちょっと柔らかくなっていたり、また逆に硬さを保っていたりと食べていて驚かされることばかりだ。
「ミルクも美味しいですね。天ぷらなのにあっさりと食べられますよ」
「チョコもいいな。香ばしさとの相性はミルク以上かもしれない」
互いに感想を述べ合いながら、再び自分のものにかぶりつき頬を緩ませる。
ミルクもチョコも素晴らしい出来栄えだ。食べ進むにつれ、力が沸いてくる。
『さて、皆様。そろそろ午後の部を開始いたします。よろしければ、ステージ付近までお立ち寄りください』
そんな折、アナウンスがスピーカー越しに聞こえてくる。それを聞くや否や、ディシディアはゴクリと口の中のものを嚥下し、ステージの方を指さしながらぴょこぴょこと耳を上下させる。
「リョージ! 早く行こう! 次の演目が楽しみだ!」
祭りでテンションが上がっているのだろう。いつもより若干子どもっぽい様相を見せる彼女を微笑ましく思いながら、良二は最後のアイス天を口に放り込むのだった。