第百十四話目~インドネシア料理! ガドガド!?~
松原団地を発つこと数十分。ディシディアたちは梅島駅へと降りたっていた。
ここも初めて訪れる場所だ。見慣れぬ景色に、意図せず胸が高鳴る。
ディシディアは胸いっぱいに息を吸い込み、ニッと口角を吊り上げる。
「さて、では次の目的地へと急ごう。もう始まっているのだろう?」
「えぇ。でも、急ぎ過ぎて怪我をしたらもったいないですから、ゆっくり行きましょう」
「ふむ……それもその通りだね。景色を眺めながら、ゆるりと参ろうか」
彼女は柔らかな笑みを湛えながら、てくてくと歩いていく。この街はどこか下町風な雰囲気を醸し出しており、なんとも心地よい場所である。
良二もそれを眺めながら、手元のスマホを見やる。以前のように、迷ってしまっては元も子もない。何より、今回は時間制限があるのだ。祭りが終わるまでに到着しなければ、きっとディシディアは落胆するだろう。
しかし、そんな彼の心配をよそに、あっという間に目的地は見えてきた。駅からしばらく歩くと人が流れていくのが見え、そちらに視線をやるとずらりと並ぶテントが視界に映りこんできたのだ。
「どうやらあそこが祭りの会場のようだね。少し、予想とは違ったかな」
その言葉に邪気は含まれていない。単なる感想として彼女は言ったまでだろう。
二人は人の流れに沿って道を歩いていき、数分もしないうちに目的地へと到着。そこにあったのは非常にこぢんまりとした公園だった。
そこには所狭しと屋台が設けられ、さらには大勢の親子連れで賑わっていた。草加の祭りに比べると規模では負けているが、熱気では負けていない。いや、むしろ小規模だからこその賑わいがあった。
その迫力にはディシディアも圧倒されているようである。彼女は良二に身を寄せ、キュッと彼の手を握りこんだ。それを受け、彼は優しく彼女の手を包みこむ。
「気をつけてくださいね。人が多いですから」
「あぁ。まずは、ぷらぷらと屋台を見てみないかい?」
賛成の意を示す良二。ディシディアは彼に頷きを返して公園内を歩き回る。
どうやら、ここには草加の祭りよりも多くの異国料理が揃っているらしい。
パッと見ただけでもインド、ペルシャ、タイやペルーなど、メジャーどころもマイナーどころも揃っている。店先に並ぶ料理はどれもこれも物珍しく、ディシディアは食い入るように眺めていた。
ここは草加の祭りとは違って食券を買う必要はないらしい。ただでさえ、人ですし詰め状態なのだ。こんなところでそのような場所を作れば、ますます混雑を極めるのは明白。英断、とも言えるだろう。
「ほう。ここでもステージをやっているのか」
ディシディアの視線の先にあったのは特設ステージ。そこでは何名もの踊り子たちが舞っている。しかし椅子などは備え付けられていないため、ほとんどの人が公園に元々あるベンチや、あるいは地面に座っており、後は立ち見するしか方法はない。
流石に、ここまでずっと歩き通しだった二人にはそれはきつい。顔を見合わせた二人は同時に肩を竦め、
「今回は、食べることだけに集中しようか」
「そうですね……流石にこれは厳しいです」
「よし。そうと決まれば、早速作戦を決めよう。まずは何を食べようか?」
すっかり気持ちを切り替えて、手元のパンフレットを見やる。やはり食べ物関係は充実しており、ついつい目移りしてしまう。
「……難しいな」
彼女は顔をしかめながら唇を尖らせる。本当に悩んでいるらしく、口からは小さな呻き声が漏れていた。
「まぁ、端から見ていきませんか?」
すかさず良二が助け舟を出す。と、ディシディアの眉間に浮かび上がっていたしわがふっと消え去り、彼女の顔に笑顔が戻った。
「その案でいこう。では、まずはこちらから見ていくか」
と、彼女が指さしたのはインドネシア料理の屋台。そこには手作りのポップが飾られていたり、葉を模した装飾がなされていたりと雰囲気づくりに関しては一番である。そこにディシディアも興味を引かれたのだろう。
彼女は鼻息も荒くそこにできている行列を見つめている。比較的列は短く、並べばすぐ買えそうだ。
ならば、並ばない理由はない。ディシディアはピョンッとスキップ気味に跳んで列の後ろに陣取る。良二もすぐに横に並び、店の様子を再び伺う。
店先ではソーセージが焼かれており、実に香ばしい匂いを放っている。が、あいにく二人はこれまでにいくつかの品を食べてきている。ハーブの香りが混じるソーセージの匂いは強烈だが、空腹ならまだしも今の段階では重く感じてしまう。
「いくら私でも、あれは無理かな」
心情を察したように、ディシディアが呟く。彼女はぽこっと膨れたお腹を撫でながら、ポリポリと頬を掻いてみせる。食欲の権化ともいえる彼女でも、インターバルを挟んだ後に重いものは食べられないらしい。
「じゃあ……何を頼みましょうか?」
「あの『ガドガド』とは、どういう料理なんだい?」
良二が考え込んでいると、ディシディアがお品書きに書かれていた文字を読み上げた。良二もそれを確認するが、ややあって首を傾げる。
「えっと……俺にもわからないですね。食べたことがないです」
「なるほど。なら、せっかくだ。あれを買ってみるのはいかがだろうか?」
「いいですよ。二人で分けっこしましょう」
などと話している間にも、順番はやってきた。受付の若い女性は、二人へとにこやかな挨拶を送る。
「こんにちは。どれにしますか?」
「えと、ガドガド? というのをお願いします」
「はい、かしこまりました! 二百円です!」
女性は良二から代金を受け取るなり、テーブルの上に置いてあったプラスチックのパックを手に取る。その中にはぎっしりと野菜が詰め込まれており、見るからにヘルシーそうだった。
冷静に観察する二人をよそに、女性はラップに包まれた茶色いソースと割り箸を二つ手に、パックと共に渡してくる。
「はい、どうぞ」
「うむ、ありがとう」
受け取ったディシディアはパックの中身を注視する。
入っているのはいんげん豆、もやし、キャベツしょうが、そして厚揚げだ。野菜はどうやら茹でられているらしいことが伺える。これまでそれなりに味が濃いものばかりが続いていてから、ちょうどよい。
ディシディアたちは公園の隅へと歩み寄り、そこで立ち止まる。ほとんどのベンチは埋まっているので、こうやって食べるしか方法がないのだ。
一人なら大変だっただろうが、二人ならば何とでもなる。良二は一旦パックを彼女へと手渡し、付属のソースを掲げてみせた。
厳重にラップで封をされているが、液状のソースは軽く振るだけでちゃぷちゃぷと揺れる。これは下手に扱えば、こぼれてしまうだろう。
良二は慎重な手つきで封を切り、それに合わせてディシディアもパックを開ける。彼は彼女に軽く一礼しながら、ソースを温野菜の上にかけた。
と同時、ピーナッツのような香ばしい匂いがソースからふわっと漂ってくる。嗅覚へやってきた予想外のアプローチに戸惑いながらも、ディシディアはぺろりと唇を舐めた。
彼女は丁寧な所作で割り箸を割り、
「いただきます」
と言って、まずは味見役を買って出る。おそるおそる温野菜へと箸を伸ばし、たっぷりとソースを絡めてから口へと運ぶ。
彼女は目を閉じ、味覚へと感覚を集中させているようだ。初めて見る品がどのようなものだったのか興味があるのだろう。良二もその様を息を呑んで見守っていた――が、ディシディアは口の中のものをゴクリと嚥下するなり、カッと目を見開いてみせる。
「リョージ……これは食べた方がいい。絶対にだ」
「そ、そんなにですか?」
返されるのは無言の首肯。それだけで彼女が何を言いたいのかがわかった。
良二も箸を割り、野菜を一つまみ口へと運ぶ。
次の瞬間、口の中いっぱいに野菜の甘さとピーナッツソースのコクが広がった。
「あ、これ、確かに美味しいですね!」
「だろう? これまで脂っぽいものが多かったから、こういう箸休め的なものはすごく助かるよ」
などと言いつつも箸を止めない辺りは流石である。ディシディアはぱくぱくとガドガド――温野菜のサラダを口へと運んでいた。
最初こそどんなものかと思っていたが、食べてみると中々に美味い。
味付けがピーナッツソースだけだからこそ、野菜の甘みが活かされている。もちろんソースの方も丁寧に作りこまれており、ピーナッツの風味を活かしつつあっさりとした後口に仕上げられている。
野菜たちはどれもこれもシャキシャキとしていて瑞々しく、厚揚げはピーナッツソースを絡めることで肉に負けないほどのインパクトを発揮する。
「お、もしかして、生姜も入っているのかな?」
舌をピリリと痺れさせる刺激はまちがいなく生姜のものだ。それによってまろやかさの中にキリッとした旨みが形成されている。味に変化がつけられているから飽きることもなく、驚くほどスムーズに箸が伸びていくのだ。
気づけば、あっという間にパックは空になっており、良二たちは目を見開く。
正直なところ、朝から食べ歩きをしてきて入らないかと思っていたのだが、これに関しては異常なまでに食べられたのだ。まるで、体がこれを欲していたかのように。
しかも驚くべきことに、これを食べた瞬間から食欲がモリモリと沸いてきたのだ。
ディシディアは喉をゴクリと鳴らし、上目づかいで良二を見やる。と、どうやら彼も同じ心持ちのようだった。
「じゃあ、次の料理を食べに行きますか」
「あぁ。そうこなくてはな」
彼女の言葉に合いの手を入れるかのように鳴り響く腹の虫。その発信源はディシディア――と、良二だ。二人は同時にハッとお腹を押さえ、しかし顔を見合わせて笑い合う。
すでに次の料理を食べに行く準備は万端のようだった。