第百十二話目~アルゼンチンのミラネササンド!~
ピロシキを食べた後、二人はプラプラと会場を散策していた。やはり人は多く、一瞬でも気を抜けばぶつかってしまいそうなほどだ。
が、ディシディアにとってはそんなことよりも辺りにある見慣れぬ品々の方が重要らしく、目をキラキラとさせながら屋台を物色している。
「すごいな……私の知らないものがいっぱいだ。それに、変わった匂いがあちらこちらからする」
「たぶん、香草とかスパイスでしょうね。日本では使われないものが多いですから、結構新鮮な感じがしますね」
あたりからは様々な香りが漂ってくる。スパイシーなもの、まったりと濃厚なもの、甘く蕩けるようなもの。そのどれもが強烈に食欲を刺激し、二人はごくりと喉を鳴らした。
「して、次はどれにしようか?」
「うぅん……さっきは俺が選びましたから、次はディシディアさんが選んでみませんか?」
「ふむ。それもそうだね。しかし……選ぶのは難しそうだな」
ここには大体中の国々の屋台が並んでいる。タイ、トルコ、中国、はたまたロシアやアルゼンチンなど。そのどれもが各々の特色を生かしており、見ているだけでも楽しめるものだ……が、ディシディアは顎に手を置いて考え込む。
正直なところ、見知らぬ料理を買うのは楽しいのだが、割とリスキーだ。それに関する知識がないからハズレを引けば損をすることになる。まぁ、良二がいるので一人で苦手な料理を食べることにはならないが、それでも責任は重大だ。
彼女は難しい表情をしたまま歩き出そうとする――が、トントンと肩を叩かれる感覚。
何事か、と振り向けば良二が穏やかな笑みを浮かべつつひらひらと手を振っていた。
「そう気負わなくていいですよ。何か気になるものがあったら、それを買いましょう」
「うん。それもそうだね。じゃあ、一つ、いいかな?」
「もちろん! どれですか?」
「あれなのだが……」
彼女が指さす先にあったのはアルゼンチン料理の屋台。どうやら彼女はそこに興味を持ったらしく、チラチラと視線を送っていた。
当然ながら、彼女の意思を無下にはできない。良二は人にぶつからないよう細心の注意を払いながら彼女とその屋台へと足を向けた。
「あ、いらっしゃい」
「いらっしゃいませ!」
店先にいたのは優しそうな女性だ。その後ろには彼の子どもと思われる少年が控えている。まだ幼く、小学生くらいのように思えた。
見たところ、母親の方は外国の人らしく、肌の色や顔の彫などが日本人のものとは違う。少年もハーフなのか、母親の面影を受け継いでいた。
母親の方はニコリと微笑みながら、ぺこりと一礼する。
「どれにしますか?」
「どれにしますか!?」
母親の言うことを真似て、少年が声を上げる。女性はそんな彼を軽く叱りつけるが、その子はペロッと舌を出して頭を掻く。
その微笑ましい様に、二人は思わず頬を緩ませた。
が、後ろにはまだ人が控えている。このままずっとここにいるわけにもいかないだろう。
ディシディアはチラ、とテントにぶら下げられたメニュー表を指さした。
「この……ミラネサ? というのを、頼む」
「はい! 一つでいいですか?」
それを受け、ディシディアは視線で良二に問う。と、彼はポッコリと膨らんだ腹を撫で、
「ディシディアさんの分だけでいいですよ。正直、ちょっとお腹がパンパンなので」
「そうか……では、一つ頼む」
「はい、ありがとうございます」
「ありがと~!」
子どもは元気よく挨拶し、ディシディアからお金を受け取る。その間に母親の方が店先に置いてあった皿の上にあったサンドを手に取った。
白いバゲットのようなものに、たっぷりのカツレツとレタスが詰められている。どうやら、ミラネサ――牛カツを用いたサンドのようだ。
冷静にディシディアがそれを観察していると、女性がコホンと咳払いをした。
「これ、かけますか?」
彼女が指さすのはテーブルの上にちょこんと置かれている綺麗なガラス瓶。そこにはトマトや玉ねぎなどが澄んだ液に浸されている。見たところ、何かの調味料だろう。しかし、どのようなものかはわからない。
「すまない。これはどのようなものかな?」
「これ? サルサって言うんですよ」
女性は静かにそう返す。が、この世界の知識がまだ不十分なディシディアには『サルサ』が何かはわからない。彼女はきょとん、と首を傾げたが、助け舟を出すように子どもがピョコッと母親の影から顔を出す。
「すっごくおいしいんだよ! これをかけると!」
「……なら、是非かけてもらおうかな」
少年が浮かべていた笑顔があまりに無邪気なものだったから、そう答えてしまう。少年は自分の言ったことが受け入れられたのが嬉しかったのか、ニコニコと笑っていた。その様に、またしてもディシディアは目を細める。
「じゃあ、かけますね」
母親はスプーンを使ってサルサをサンドにかける。ほんのりと酸味のある香りが漂ってきて、ディシディアはつい頬を綻ばせた。もうこの段階で、すでに美味そうである。
「さぁさ、どうぞ」
「どうぞ~!」
「あぁ、ありがとう。頂くよ」
ラップにくるまれたサンドを受け取る。ずっしりと重く、つい落としそうになってしまうほどだ。
「さて、では私たちはお暇するとしよう。失礼した」
「ありがとうございました」
「また来てね、お姉ちゃん!」
「あぁ。バイバイ」
ディシディアは慈母のような微笑みを讃えてそっと手を振り返す。その時見た彼女の横顔があまりにも優しげで、良二はついドキリとしてしまう。これまでに見たことがないほど慈愛に満ちた表情。それは非常に魅力的だった。
けれど、当のディシディアは横を歩く良二がどぎまぎしていることになど気が付かず、近くにあるベンチに腰掛けた。良二も隣に腰掛け、ほっと一息つく。
ステージの方では有志によるダンスが行われており、今はちょうどラテンのダンスを披露しているところだ。まるで炎を表現しているかのような激しく荒ぶるダンス。深紅のドレスがひらひらと舞う様は幻想的で、思わず目を奪われてしまう。
「ふむ。たまにはこういった芸能を見るのもいいな」
この祭りに来て以降、ディシディアの中で芸能への関心は深まってきているようだ。彼女は例のミラネササンドを食べるのも忘れて、それを見やっていた。
相当の熟練者なのだろう。ステップによどみがなく、かつ楽しんでいるのが見てとれる。やはり、芸能を行うものは何よりもまず自分が楽しむことで始まるのだ。
本人が笑いながら踊ることでそれが伝播していき、いつしか大きな笑いとなっていく。それによってダンサーのボルテージも上がり、ますますパフォーマンスの質が向上するのだ。
気づけば、ディシディアはすっかりそれに見入っていた。前傾姿勢になり、瞬きする間も惜しい、と言わんばかりに注視している。それだけの魅力があるダンスだった。
やがて演技は佳境に入り、ステップが一層激しくなる。それにつれて音楽もアップテンポになっていき、観客たちの勢いも増していく。
この空間を一言で表すならば――熱狂。まさしくそれだ。
観客とダンサーが一体になり、場を盛り上げる。これぞ、エンターテインメントの極致。
このようなものが見れると思っていなかったのだろう。ディシディアは目をギラギラと輝かせ、かつて賢者時代に持っていたようなある種の貪欲さを垣間見せる。
彼女は好奇心旺盛だが、それは貪欲さの裏返しとも言える。彼女は久々に不敵な笑みを浮かべていた。
それからも徐々に熱は上がっていき、やがて会場中を包みこむ。ダンサーの一挙手一投足に人々の注目が注がれ、ダンサーは客たちの顔を見て演技にアレンジを加えていき――やがて凛とした所作で、舞いを終えた。
それから数拍置いて――人々は思い出したように、割れんばかりの喝采と拍手を送る。その中にはディシディアと良二の姿もあった。
ダンサーは肩で息をしながらも、それでもきちんと礼をしてステージを下りる。ディシディアは彼女の背を見送り、深いため息をついた。
「この世界の芸能も、中々だな。あのような踊りがあるとは、驚いた」
彼女は感心しているようだったが、そこでようやくミラネササンドの存在を思い出したのか目を丸くする。
「おっと。忘れるところだった。いただきます」
そっと手を合わせ、ミラネササンドを口のところまで持っていく。かなりの厚さがあり、とてもじゃないが一口では食べられそうにもない。
ディシディアは小さな口を目いっぱい開けて、がぶりとミラネササンドにかぶりついた。
「おぉ……ッ!?」
驚きに目を見開くディシディア。サルサのキリッとした酸味が舌を貫く感覚に、思わず体を震わせる。
しかし、それは決して嫌なものではない。むしろ、後を引くものだ。
サルサ、としか言われていなかったが、どうやらこれは『サルサ・クルダ』と呼ばれているものに近い発想らしい。
そもそも、サルサとは元来『ソース』を意味する言葉。ワインビネガーをベースにしたと思わしきソースの中には角切りにされたトマトと玉ねぎがたっぷりと入っている。
これのおかげで、牛カツの脂っぽさが見事に消え、むしろより高次元のものに昇華されているのだ。
しかも、この牛カツは薄切り肉をカツレツにしたものである。ただし、味のインパクトが弱いわけでは断じてない。しっかりとした風味があり、それが何重にもパンの中に入れられている。
そこに瑞々しいレタスが加わり、味のグラデーションが完成されている。
しかも、食感も相当複雑だ。
ややしっとりとした牛カツ、シャキシャキのレタス、表面を炙られパリパリになったパン――この多層的な味わいが癖になるのだ。
何より、サルサが一番の引き立て役。これがあるのとないのでは、味が数段違うことになるだろう。サルサがあることによって味が引き締まり、さらに奥深く繊細な味わいになっているのだ。
あの少年が推していた意味が今ならよくわかる。確かに、これがなければこのサンドは味気なく、脂っこいものになっていたことだろう。
「リョージ。どうだい? 食べてみないかい?」
「いいんですか?」
「もちろん。美味しいものは一緒に食べた方が美味しいからね」
ニパッと花の咲くような笑みを浮かべてくるディシディア。良二はそんな彼女に笑いかけながら、カプッとサンドにかぶりつく。
そうして、先ほどのディシディアと同じようなリアクションをして、グッとサムズアップをしてくる。
「これ、すごく美味しいですね。お腹いっぱいだったのに、食べられますよ」
「あぁ。カツが入っているが案外あっさりしているな」
考察を入れながら、ディシディアはバクバクとサンドにかじりつく。
そうして、今一度良二にサンドを渡そうとしたその時だった。
視界の端で、座る場所を探している親子連れの姿が目に入ったのは。男性は赤ちゃんをおんぶしており、母親の方はベビーカーを引いている。彼らの足元には小学生くらいの子どもがいて、疲れた顔つきをしていた。
「……すまない、リョージ」
ディシディアは良二にサンドを押しつけながらそっと席を立ち、父親と思しき男性に向かって声をかける。
「もし。よかったら、ここに座ったらどうだい?」
「え? でも……」
父親は良二とディシディアを交互に見渡し、眉を潜める。けれど、反論を受ける前にディシディアはニッと口元を歪め、
「気にしないでくれ。私には、ここがあるから」
と言って、良二の膝の上に座る。当然ながら予想外の行動に良二は慌てるが、すぐに調子を整えて、父親の方に目を向ける。
「……と、言うわけですから、どうぞ」
「はは……どうも、ありがとう」
「ありがとうございます」
「ありがと、お姉ちゃん」
三者三様の礼を言いながら、席に腰掛ける家族たち。ディシディアは彼らを一瞥した後で、やや申し訳なさそうに頬を掻き、良二に頭を下げた。
「すまないね、急に座ってしまって」
「いいえ。ちゃんと理由があったんですから、構いませんよ」
彼は穏やかにそう答えたが、その途中でディシディアは意地の悪そうな笑みを浮かべて顔をズイッと近づけてくる。
「ほほぅ……なら、ちゃんとした事情がある時はいつでも君の膝に座らせてもらおうかな」
「……まぁ、いいですけど」
良二とて、彼女とこうやってスキンシップを取るのは好きだ。その言葉に確かな首肯を返し、サンドを彼女に渡す。
ディシディアはニマニマと笑いながら、大口を開けてサンドを平らげるのだった。