第百二話目~ネギトロ丼と一日バイト~
心地よい日差しが降り注ぐ午後。ディシディアはプラプラと散歩をしていた。
一度通った道でも時間が違ったり季節が違えばまるで違う様相を見せてくれる。
彼女は買ったばかりのブーツの履き心地を確かめるようにトントンと地面をつま先でノックしつつ、近くの木を見上げる。
つい先日まで青々とした葉を実らせていたと思ったのに、今はすっかり枯れてしまっていてせいぜい数枚程度の枯葉がくっついている程度だ。
「ふむ……この世界にも四季があるのは嬉しいな。それだけで退屈しない」
彼女の故郷、アルテラにももちろん四季はあった。長いエルフの生において、季節の移り変わりを確かめることは退屈を紛らわせるいい手段だ。
特に彼女は自然を愛する師匠の元にいたということもあり、花や木などを愛でることが好きだった。それらを肴に祝い酒を飲むのは退屈な軟禁生活での楽しみだったのである。
彼女は地面に落ちているモミジの葉を見て口元を緩めつつ先へと歩いていく。
「さて……そろそろどこかで昼食を取るか」
特に今日は予定を設けていない。だから、お腹が空けばどこかに入って昼食を取る予定だ。
ちなみに今日、良二はいない。なんでも、学園祭が近くなってきたおかげでゼミの方の活動が忙しくなってきているのだ。それは玲子も同様らしく、以前会った時にそう告げられていた。
「学園祭か……私は学校というものに通ったことがないからわからないが、楽しそうではあるな」
もちろんアルテラにも学校のような施設はある。初等、中等、高等教育を一環で受けられて基礎知識を蓄えられるところもあれば、武具や魔導書の生成を専門に学ぶ機関もあった。実際、あちらの世界にいるものはほとんどそこに通っている。
けれども、残念ながら彼女の集落にそのようなものはなかった。ディシディアが賢者になれたのは村の書物庫に入り浸って知識を蓄えていたからであり、ほとんど独学である。
だから、学校に通うということに彼女はある種の憧れを抱いていた。以前賢者時代に旅をした時、とある町に立ち寄ったのだがそこで行われていた学生主催の祭は中々に面白いものだった。
確かにプロには劣るかもしれないが、学生たちの創意工夫が凝らされた品は物珍しく、ついつい羽目を外してしまったのはよく覚えている。
「ふふ、確かあの時はみんなから心配されたか……」
まだ集落を出て間もなく未熟だったということもあり、彼女はそこで仲間たちとはぐれてしまったのだ。他の仲間たちは相当心配していたが彼女の方は暢気に祭りを満喫しており、見つかった時は両手いっぱいに出店の景品や料理を掲げていた。
過去の記憶に思いを馳せていると、口元が自然に緩んでしまう。あの時のことは一生涯忘れ得ぬものだろう。
「……思い出したらお腹が空いてきたな……」
すでに腹の虫はけたたましく泣き喚いている。彼女は腹を撫でさすりつつ、とりあえずは入れそうな店を探し――お、と手を打ちあわせる。
彼女の眼前にあるのは行きつけの料理屋――珠江たちの店だ。少なくとも、あそこならハズレはない。それに、たまには大将の顔を見たいと思っていたところだ。
「よし、今日はあそこにしようか」
彼女はがま口財布を握りしめ、店の方へと向かっていく。すでに暖簾は上がっており、中からは味噌汁のいい匂いが漂ってきていた。
「やぁ、やっているかい?」
彼女は扉を開けつつ、ひょこっと顔を覗かせる。と、ちょうど厨房に立って包丁を操っている大将とバッチリ目が合った。
「よぅ! 久々じゃねえか。今日は良二は一緒じゃねえのか?」
「あぁ。学園祭の準備が忙しいらしくてね。席、空いてるかい?」
「おう。座ってくんな」
彼女はいつもの特等席へと腰かける。今日はかなり繁盛しており、席はわずかしか空いていなかった。
その上、今日は珠江も育児休暇でいない。大将は額に汗を流しながら厨房をせわしなく歩き回っていた。
「やっぱり、大変みたいだね」
「まぁな。でも、これくらいこなせなきゃ家族を養えるかってんだ」
大将はニカッと笑いながら包丁をクルリと回す。その手慣れた仕草に、ディシディアはふっと唇を歪めた。
「ほら、かけつけ一杯……まぁ、味噌汁だけどな」
「おぉ、ありがとう」
トン、とカウンターに置かれた椀を自分の方に引き寄せて中を見やる。
今日の味噌汁は大根の味噌汁だ。綺麗な短冊切りにされており、上にはネギが散らされている。味噌は白味噌。出汁はいりこという至ってベーシックなものだが、だからこそ飾り気がなく美味そうに見える。
何より、近頃はめっきり寒くなってきた。そんな季節にはこの温かい味噌汁が嬉しくなる。
「では、いただきます」
割り箸を割り、味噌汁を持ち上げてゆっくりと啜る。
いりこを使っているとたまにエグみが出ることがあるが、キチンとした処理がなされているのかそれはない。雑味がこれっぽっちもなく、いりこの豊かな風味が繊細に感じられる。
味噌汁の味のほとんどは出汁の取り方で決まると言っても過言ではない。その点で言えば、この味噌汁は完璧に近いものだった。
もちろん、具材の方も抜群の味。大根には味噌の旨みがこれでもかとしみ込んでおり、噛むとそれが一気に溢れてくる。
全体的に優しい味に仕立て上げられており、飲んでいるとホッとする。
「……ふぅ。相変わらず美味しいね」
「そうだろ? 今回も自信作だ」
大将は相当自信があるらしく、誇らしげに胸を張っていた。ディシディアはそんな彼を横目で見ながら味噌汁をゆっくりと飲んでいく。
熱い味噌汁が冷え切った体にじんわりと染みこんでいく。いつしか彼女は上着を脱ぎつつあった。
「それにしても、この味噌汁は美味いな。なんだか、体の奥からポカポカしてくるようだ」
「お、わかるか? 隠し味にすりおろしたしょうがを入れてあるんだ」
「ほぅ、生姜か」
確かに飲むと微かに生姜の風味がする。しかし、感じるか感じないかギリギリのライン。味噌汁のバランスを崩すことなく、裏からアクセントを加えているいい品だ。
「ほら、次はこれも食べな」
そう言って大将が出してきたのは――ネギトロ丼だ。トロのピンク色とネギの緑色、そしてご飯の白。この対比が目にも美しい。
「さて、こちらはどんな味だろうか……」
すでに味噌汁によって体は温まっている。彼女は卓上にあった醤油をひとまわし丼にかけ、ご飯と共にネギトロを口へと放った。
マグロはやや粗めに叩かれており、ねっとりとしつつも身の食感も残っている。それがネギのシャキシャキ感と合わさり、実に心地よい。
米も一粒一粒がしっかりと立っており、ネギトロに負けていない。また、ネギトロとご飯の間には刻み海苔が敷かれており、より味に奥深さが増していた。
「どうだい? 美味いか?」
「あぁ。これは美味い。やはり、この店の丼は美味いな」
彼女はニコニコと笑いながらご飯を頬張る。それを見て、大将は満足げに笑った。
彼女はすぐに表情に感情を表してくれる。だから、お世辞を言っているかどうかがすぐにわかるのだ。
そして、今の彼女の表情は満面の笑み。よほど満足しているのか、耳がピコピコと動いているほどだ。
「大将! 注文いいかな?」
「おう! 今いくぜ!」
別の客からの注文を受け、大将はその場を後にする。一方のディシディアは味噌汁と交互にネギトロ丼を食べ進んでいた。
ネギトロ丼は濃厚だが、刻み海苔や酢飯に混ぜ込まれているゴマのおかげで比較的あっさりとした後味になっている。だから、どれだけ食べてもくどさはないのだ。
「……ふむ。ネギトロ丼か。これは初めてだが、イケるな」
たたきにしていることで切り身の時とはまた違った味わいになっている。ねっとりとした舌触りにも最初は戸惑ったものの、慣れれば癖になる。しかもこれがご飯によく絡んでくれるのだ。
気づけばディシディアはふんふんと興奮気味に鼻を鳴らしながら椀を傾けてネギトロ丼を煽る。彼女はハムスターのように頬を膨らませつつ口の中のものをしっかりと咀嚼して嚥下し――ほっと息を吐いた。
やはり、とてつもない満足感だ。近頃は肉などがメインで、生の魚を食べる機会はなかったから新鮮でもあったし、何より大将の腕によってかなりのものに仕上がっていた。
「にしても……」
彼女は冷たい麦茶を煽りながら店内を見渡す。ますます人は増えてきており、大将はてんてこ舞いのようで右往左往していた。
だからこそ、彼女はちょいと厨房の方に身を乗り出しながら、
「……よければ、手伝おうか?」
その言葉に大将は微笑んだが、キッパリと首を振った。
「いや! ここは男の意地ってもんが……」
「その意地を張って体を壊したらどうする? 珠江が心配するんじゃないかい?」
その言葉に、彼はグッと言葉に詰まる。
確かに彼女の言う通りだ。近頃は一人で何事もこなそうとしていたが、体の方にはそれなりにガタがきている。
彼はしばし思案しているようだったが、ゆっくりと首肯した。
「わりぃ。じゃあ、ちょっと手伝ってもらえるか?」
「あぁ。注文とお茶くみくらいはできるから任せてくれ。困ったときは、お互い様だ」
ディシディアはぴょんっと椅子から飛び降り、彼から渡された伝票を持って客の注文を取りに行く。
その時の彼女の顔は、非常に活き活きしたものだった。