第一話目~カップ焼きそば~
暗く静かな森の中にある小さな祠。その中の祭壇にローブを身に纏った少女が鎮座している。おそらく、今この光景を見れば誰もが彼女を天の使いか何かだと思うだろう。それほどまでの美しさと神々しさを、彼女は有していた。
肌は新雪のように白く、また同時に瑞々しさに満ちている。目はパッチリとしており、その緑色の瞳はエメラルドを埋め込んだのではないかと思われるほどだ。白い髪をボブにしておさげにしており、毛先には民族風のリボンが巻きついている。そのリボンに施されている装飾はローブと同じものだった。
「はぁ……全く」
まだ体つきも顔つきも幼いが、ある種の風格を讃えている。だが、それも当然だろう。
彼女はエルフ族の中でも屈指の力を持つ大賢者なのだから。
今はこの祠の中で暮らしており、付き人たちによって何不自由な衣生活を送らせてもらっている。だというのに、当の彼女は酷く不機嫌そうだった。
彼女はおさげの先を指で弄りながら、またしても大きなため息を漏らした。
「また同じような食事じゃないか。そろそろ私も飽きてきたよ」
彼女の眼前にあるのは、質素な食事だ。ライ麦パン、申し訳程度の野菜が浮かんだ茶色いスープ、そしていくつかのカットフルーツだった。彼女はスプーンを取り、スープを口に運ぶ。が、すぐにその顔が歪んだ。
スープにはほんのわずかに塩味が付いているくらいだ。彼女は口直しにライ麦パンを口に含むが、彼女の眉がピクリと動く。パンはかなり固く、噛み切るには相当の力がいる。スープと一緒に食べれば多少柔らかくなるが、そのスープも相当ひどい味だ。彼女はやや水っぽいフルーツを口に放り込みながら、瞑目した。
「なぁ、ライノス。私もね、贅沢は言わない。でも、この食事はあんまりだと思うんだ」
「そんなことを言わないでください。質素倹約。これが賢者たるエルフ族が遵守するべきものじゃないですか」
答えたのは、少女の前にいる青年だ。背は高く、体つきもがっしりしていて精悍そうな顔つきをしている。だが、少女は怯むことなく青年――ライノスを見据えた。
「ライノス。師匠の命令だよ。もっと美味しいご飯を頼む」
「ダメ、です! 大賢者たるディシディア様が規範を破ったら下の者たちに示しがつかないではないですか!」
その言葉に少女――ディシディアはぷくっと頬を膨らませた。それを見て、ライノスはむっと顔をしかめる。
「泣いても無駄ですよ。もうすぐ二百歳になる人がやっても効果はありませんからね?
「わかってるさ……あぁ、全く、数百年も同じものを食べていると本当に飽きるよ」
ディシディアはため息交じりにパンを口に運んでいく。その時、彼女は修行で培った無心になる術を用いていた。普段の修業よりももっと過酷なのではないか、と思えるのがこの食事の時間なのだ。元々豪勢な食事じゃないうえに、それを数百年以上も続けていては、こうなるのも必然だろう。
だが、ディシディアはいつも通り『作業』を終え、食べ終えた食器をライノスの方に手で押し寄せた。彼は苦笑しながらもそれを受け取り、トレイに乗せる。
「じゃあ、また午後に来ますね。お師匠様」
「あぁ、次はお土産を持ってきてくれよ」
去っていくライノスにいつも通りの言葉を投げかけ、ディシディアは瞑目した。彼女は眉間にしわを寄せながら、額に手を当てている。その様はどことなく悲哀に満ちていた。
「もううんざりだ……かと言って、ここから出ていこうにも見張りが付いてくるし……どうしたものか」
彼女は祠の入り口を見やる。すると、その瞳が途端に猫のようになった。《透視の術》を使っているのだ。障害物を空かして見えるようになった彼女の目には、祠の前に立つ二人の兵士たちの姿が見える。
エルフ族で三人しかいない大賢者の護衛としては心許ないように思えるが、彼らも賢者の地位を備えている戦士だ。ディシディアには及ばないものの、戦闘力では並の兵士たちなど足元にも及ばない。それ以前に、この祠の周囲には結界や幾重にも罠が張り巡らされているのだ。そこに足を踏み入れるものなどいない。
だが、そこから出ることもディシディアには不可能だった。大賢者という世界の至宝を失いたくないのか、これほどまで厳重な警備をつけられ自由などない。彼女は今日何度目かわからないため息をつきながら頭を垂れた。
「さて、どうしたものか……」
彼女の視線が向いた先は、各国の王やら他の大賢者や賢者がここを訪れた時にくれた貢物が置いてある場所である。と言っても、ディシディアはあまり物欲を有していないため、半ばガラクタのように放置されてはいるのだが。
「……ん? 待てよ?」
ふと、ディシディアは首を傾げ、右手を前に突き出した。その次の瞬間、彼女の方に一つのブローチのようなものが寄ってくる。ルビーのような赤い宝石が埋め込まれたそれをジロジロと見ていたかと思うと、ディシディアは不敵に口元を歪めた。
「……なるほどなるほど。《転移》の術が施された宝石か。これは意外な掘り出し物だ」
彼女はそれを手に取り、胸元に付けた。そうして、ブローチにそっと手を添える。
「《さぁ、無限の彼方へ誘うものよ。今こそ私に力を貸せ》」
起動の術式を口にし、ディシディアは静かに目を閉じた。が、何も起こらない。彼女はそれがわかるや否や、小さく口元を吊りあげた。
「ライノスか。なるほど、流石私の一番弟子。《プロテクト》をこのブローチにかけていたか。ただ、ツメが甘い」
彼女の細い指が宝石をなぞる。すると、宝石に鳥の紋様が浮かんだかと思うと、すぐに龍の紋様へと変わった。それを見て、彼女はふっと頬を緩めた。
「ふふ、では、次こそ本番といこうか」
と、彼女が呟いた直後だった。扉がバンッと勢いよく音を立てて開き、そこから兵士たちとライノスが入ってきたのは。
「お師匠様! 何を!?」
「悪いね、ライノス。君の術式には綻びがあった。だから簡単に上書きできたよ。忘れてはダメだよ? 術式は網のように張り巡らせるべきだ」
「そうではありません! あなたは一体何を……」
「決まっているじゃないか。もう私は籠の鳥でいるのに飽きたんだ。それと、あの質素な食事にもね。だから、ちょっとだけお出かけしてくるよ」
「さ、させません!」
刹那、ライノスと兵士たちが同時に突貫してくる。だが、ディシディアはそれよりも早くブローチに手を当て、
「《さぁ、無限の彼方に誘うものよ。今こそ私に力を貸せ》」
詠唱を終える。
そして次の瞬間には彼女の体は光に包まれ、その場から掻き消えていた。
――ここはどこだろう?
まだぼんやりとする意識の中で、ディシディアはそんなことを思う。
体の感覚はある。どうやら転移には成功したようだ。
彼女はおそるおそる目を開け、辺りの確認に移る。どうやら、ここは家屋の中であるようだ。自分は床に寝転がる形になっているのか、薄汚れた天井と、そこにつりさげられた変わった形のシャンデリアのようなものが見てとれる。
少なくとも、あの薄暗い祠ではない。それを理解した彼女はニヤリと口角を歪めた。
「よし。どうやら上手くいったようだ。転移の術式は苦手な部類だったのだが……土壇場で力は開花するものだね……ん?」
そこまで言ったところで、ディシディアは首を傾げた。なぜなら、窓から見えるのは見たこともない巨大な建物だったからだ。ゴーレム族が作ったものとはまた違う材質の建築物。木とも、土とも違う何かだ。しかもそれらが競うように建てられている。
それに、この家屋も自分の住んでいた祠とは異質だ。ボロくさいところは酷似しているが、見慣れぬ黒い箱が置いてあったり、よくわからない長方形の白いタンスのようなものがある。
いや、それはまだいい。問題は、今、あんぐりと口を開けながら見ている者がいるということだ。これまた見慣れぬ衣服に身を包んだ少年が信じられないものを見るようにして自分を指さしていることに気づいた彼女は、刺激せぬよう優しい笑みを浮かべた。
「ふむ……見たところ、この家の住人のようだね。はじめまして、私は……」
と、彼女は続けようとするが、目の前に立っている少年は手を交叉させながらよくわからない言語を言っている。どうやら、言葉が通じないらしい。
しかし、彼女は戸惑った様子はなく指を彼の方に向けた。刹那、その指先に淡い緑色の光が宿り、彼女を包みこむ。やがてその光が消えた時になって、彼女は改めて口を開いた。
「やぁ、はじめまして。私はディシディア・トスカ。エルフ族の大賢者と呼ばれている。して、君の名を教えてくれるかい?」
その言葉を受け、少年は戸惑いながらも口を開いた。
「え、えぇ? お、俺は飯塚良二って言います。一応、大学生。て、てか! あなた、誰ですか!? どうして俺の部屋に!? エルフってあのエルフ!?」
「質問が多いね。私は先ほど説明したとおり、エルフ族だよ。ここの部屋にいるのは……これのおかげかな。場所を指定することはできなかったようだけど、無事に飛ぶことはできたようだ」
彼女は依然輝いているブローチを指でちょいとつつく。良二は目を丸くしてそれを見ていたが、すぐにハッとして彼女に向きなおる。
「いや、待ってください。飛んできたって? いきなり俺の部屋が光りだしたと思ったらあなたが現れるし……どういうことですか?」
「そう驚くことでもないだろう? ただの魔法さ?」
「ま、魔法!?」
驚きおののく良二。それを見ていたディシディアの目が、わずかに細められた。
「……まさか。すまない。君、種族は何だ?」
「俺、ですか? 人間ですけど」
「……そう、か。やはり、ここは……地球なんだね」
ディシディアは苦虫をかみつぶしたような顔になって、がっくりとくずおれた。たまらず、良二は彼女の方へと駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!?」
その問いに答えたのは彼女ではなく――彼女の腹の虫だった。ともすれば雷が鳴ったかのような音が狭い部屋の中にこだまする。良二は目をパチクリさせていたが、おそるおそるディシディアの顔を覗き込んだ。
「あの、もしかしてお腹空いてるんですか?」
「……あぁ、すまない。ろくなものを食べていなくてね。よければ、何か食べさせてくれないかい?」
「……まぁ、いいですよ。ちょうど作っているところでしたし」
彼が向かっていったのは、台所と思わしき場所だ。ディシディアはうっすらと目を開けてそちらを見ると、とたんに目を輝かせてそちらに歩み寄った。
「これはなんだい? 火を起こす道具かい?」
「『コンロ』って言うんですよ。にしても、やっぱりどこか別の世界から来たみたいですね」
「ずいぶん察しがいいようで助かるよ」
「最近流行っているみたいなんで。まさか、自分が迎える側になるとは思いもしませんでしたけど」
「? どういうことだい?」
「なんでもないですよ。それより、あまり覗きこまない方がいいです。髪が焦げますよ」
言われて、ディシディアはコンロから身を離す。そこでは火がめらめらと燃えており、水を沸かしている。その水を沸かしている容器も変わった形をしていて、まるで鳥を模しているかのようだった。
次第にシャンシャンという水が沸く音が耳朶を打ち、ディシディアは今か今かとその場で足踏みをしてみせた。それを見た良二はふっと微笑み、彼女を制す。
「さて、その中には何があるんだい? スープかい? はたまた、シチューかな?」
「いや、ただの水ですよ?」
「何……だって……?」
愕然とした様子のディシディア。その端正な顔が絶望に歪み、膝が震えだした。
「だ、大丈夫ですよ! ほら、これを作るんですから!」
そう言って良二が取り出したのは、四角形の容器に入った何かだった。彼はその包装を破き、中を見せてくれる。そこに入っていたのは――乾燥した麺と、袋詰めにされた何かだった。
「む? これは、なんだい?」
「カップ焼きそばですよ。あいにく金欠なもので……あ、ちょっと失礼しますよ」
良二はあらかじめ断りを入れ、カップ焼きそばの容器にお湯を注ぐ。そうして線のところまで入れ終えると蓋をして、もう片方にも入れる。その後余ったお湯を捨ててから、再び焼きそばの容器に目を向けた。
「これはどういうものなんだい? まるでわからないのだが……」
「まぁ、見ててください。ほら、もうできましたよ」
「何? もう!? まだ三分も経っていないのに!?」
オーバーリアクションをするディシディアを放っておいて、良二は焼きそばの容器に入っていた水を捨てる。ボコンッという音に驚いたらしき彼女に苦笑しながらも蓋を完全にはがし、今度は備え付けてあった袋を開けた。
そこから出てくるのは、黒い液体だ。それが麺の上に降り注ぎ、白から黒へと色彩を変えていく。
同時、香ばしい匂いがディシディアの鼻孔を貫き、再び彼女の腹の虫がけたたましく泣き喚いた。良二はそれを横目で見ながら箸を取り出して丁寧に混ぜ、彼女に渡す。
「カップ焼きそば一丁、あがりです。あっちで座って食べましょう」
「おぉ……これは素晴らしい! うん! 楽しみにしているよ!」
ディシディアはトテトテとリビングの方に駆け寄り、ちょこんと腰かけた。その間も、その熱い視線は焼きそばに注がれている。一方で、自分のものも作ったらしき良二は彼女の眼前に腰掛けた。
それを受け、ディシディアはピンと背筋を伸ばした。
「じゃあ、早速……」
「待った!」
箸に手を伸ばそうとしていたディシディアを、良二が制止する。彼女は何事か、と彼に視線で訴えかけていた。
「食べる前には『いただきます』でしょう?」
良二は胸の前で両手を合わせてみせる。それを見て、ディシディアは納得したように頷いた。
「む? あぁ、そうだったな。作ってくれた君に敬意を表さねば……」
「いや、そうじゃないんですよ。『いただきます』っていうのはもちろん作った人に対してでもですが、何より食材に対してです。俺たちは命を頂いているんですから」
「……なるほど。学んだよ。ありがとう。では、いただきます」
「いただきます」
二人は手を合わせ、箸を持つ。が、ディシディアはポロリと取り落としてしまった。彼女は唇を尖らせて良二の真似をしようとしているが、どうにも不慣れならしく取り落としてしまう。見かねてか、良二は席を立って奥の方からフォークを取り出してきた。
「どうぞ。これなら、食べやすいでしょう?」
「あぁ、ありがとう。にしても、すまないな。君には厄介になってばっかりだ」
「いいんですよ。それより、熱いうちにどうぞ」
ディシディアはそっと焼きそばの方に視線を移し、ごくりと唾を飲みこんだ。香ばしい匂いが絶えず鼻孔をくすぐり、湯気が顔にかかる。彼女はフォークをギュッと握りしめ、焼きそばを器用に絡め取って口に運んだ。
「――ッ!?」
刹那、彼女の目がカッと見開かれた。
「美味い! なんだこれは!? 美味すぎるじゃないか!」
口に入れる度、甘辛いソースの味が広がる。これまで質素な食事ばかりを続けてきた彼女には初めての味だ。ソースと麺が絶妙に絡み合い、そこに野菜が加わることで新たなハーモニーが生まれる。微かな野菜の甘みと青のりのアクセントが全体の美味さを底上げしている。
「これは素晴らしい! 時間もかからないし、何より美味だ! 君は錬金術師か?」
「大学生です」
その答えはディシディアには届いていないようだ。彼女は焼きそばを口いっぱいに砲張り、満足げに目をとろんと潤ませている。
と、いきなり良二が席を立った。
「いいものがあるんですよ。きっと気に入ってくれると思うので、焼きそばは残しておいてください」
彼が寄ったのは、先ほどディシディアが目にした白いタンスのようなものだ。彼はそれを開け、中からヒョウタンのような容器に入った何かと、カンナで下ろした木くずに似たものを取り出してきた。それを見て、ディシディアは頬をひくつかせる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それは何だ? 私はエルフ族とはいえ、木を食む趣味はないぞ?」
「まぁ、見ていてくださいよ」
彼はおもむろに茶色いペラペラの何かと容器に入っていたやや粘り気のあるソースを出してみせる。ディシディアはグッと顔をそむけたが、すぐに目を丸くしてそちらを見やった。
「む? 香りが変わったような……これは、魚、か?」
「そうです。鰹節って言う奴なんですけど……まぁ、とりあえず食べてみてください」
「うん。いただきます」
フォークを握りしめ、焼きそばを掬い取るディシディア。彼女はそれをゆっくりと口に入れ――カッと目を見開いた。
「これは……ッ!」
彼女がそれ以上言葉を発することはない。一心不乱に焼きそばを喰らい、気づけばもう空になっていたほどだ。
彼女はポッコリと膨れた腹を撫でさすりながら、良二を見つめる。
「今のは、なんだ? 味が段違いに跳ね上がったように思えたのだが……」
「鰹節とマヨネーズですよ。どうでしたか? 気に入ってくれましたか?」
「もちろんだ! カツオブシの風味とマヨネーズの酸味がまた変わった味覚をもたらしてくれる……あぁ、この世にこんな素晴らしい食事があったなんて、感激だよ!」
「よかった。それより、あなたのお話を聞かせてくれませんか?」
それまでにやけていた彼女の顔が、途端に引き締まった。ディシディアは良二の黒い目をしっかりと見据えながら、形のいい唇を動かす。
「まず、私はエルフ族だ。もうわかっているとは思うが、君たちの世界とは別の場所――私たちが『アルテラ』と呼んでいる場所から来たんだ。本来、あの世界のどこかに転移するつもりだったんだが……急に術式を変えたのがまずかったようだね。転移場所がずれた、どころじゃない。世界軸がずれてしまった。全く、ライノスに言えた義理じゃないね」
良二はコクリと頷く。事実、彼女はこの時代において『常識』と思われることすら知らない。その上、彼女が身に纏っているのは到底この世のものとは思えないほど美しく荘厳なローブだ。さらに、彼女の耳はピンと尖っていて、まさしくエルフという感じである。もはや、異世界から来たことは疑いようのない事実であった。
「さて、今度は君のことについて教えてもらいたいんだが、いいかな?」
「えぇ。改めまして、俺は飯塚良二。大学二年生です。今は、ここで一人暮らしをしています」
「ほぅ。若いのに感心なことだ」
「いや、えっと……」
「ディシディアだ」
口ごもる良二に助け舟を出すディシディア。彼はそんな彼女に笑いかけてから、ごほんと咳払いをして続けた。
「……いえ、ディシディアさんの方が若いじゃないですか」
「ふふ、嬉しいね。でも、私はこう見えても二百歳近いんだよ?」
「え……? が、ガチのロリババアじゃないですか……」
「ババア、と言われるのは好きではないが……まぁ、いいさ。さて、次は君に一つ取引を持ちかけたい」
「? 何ですか?」
「よかったら、私をここに置いてくれないかな? 正直、行くあてもないんだ。それに、この世界をよく知っているものとは行動を共にしておきたい。もちろん、ただでとは言わないよ。私にできることなら何でもサポートする。どうやらこの世界でも魔法は使えるようだからね。きっと君の助けになると思うのだが……どうかな?」
しかし、彼女の予想に反して良二は顔を歪めた。彼はバツが悪そうにしながらポリポリと頭を掻く。
「いや、俺としても女の子一人を外に放っておきたくはないんですが、実は今はちょっと厳しいというか、何と言うか……」
「む? 何か問題事でもあるのかい?」
「えぇ、実は……」
そうして、彼が何かを話そうとしたその直後だった。
「オラァァアアアアッ! 飯塚ぁあああああっ! 借金返せ、ゴラァアアアアッ!」
「ひ、ひぃっ! もう来たぁっ!?」
良二はその場でぴょんと飛び上がり、ガタガタと震えだす。何が起こっているのかわからない様子のディシディアはキョトンと首を傾げていた。
「お友達かい? ずいぶんと柄が悪そうだが」
「いや、断じてお友達ではないのですが……」
「いるのはわかってんだよ! とっとと出てこいゴラァアアアアッ!」
そうこうしている間も怒号と扉を叩く音は止みはしない。とうとう耐えかねてか、良二はよろよろと扉の方に寄っていった。見かねて、ディシディアもその後ろをちょこちょことついていく。
「は、は~い。今開けま~す……」
そうしてドアが半分開かれるなり、その隙間に革靴が滑り込んできた。その鮮やかな手際を見て、思わずディシディアは感嘆の声を漏らす。
「見つけたぞ、飯塚ぁ! とっとと金返さんかい!」
しゃがれ声でがなり立てるのは、サングラスを身に着けたいかにもガラの悪そうな男だった。趣味の悪い蛇柄のシャツを中に着込み、長そでのシャツを羽織っている。もう夏だというのに、何とも気合の入っていることだ。
「だ、だからうちにはお金はないんです! それに、借りたのは親父で……」
「だから、その親父が消えたんやから、息子のお前が肩代わりせいっつっとんのじゃ!」
「ふぅむ……中々にこじれているね」
ディシディアは二人を見渡しながら呑気に呟いた。彼女は思案気に眉根を寄せていたが、やがてポンッと手を打ってにこにこと笑いながら借金取りの男に笑いかける。
「あん? 何じゃ、ワレ?」
「あぁ、私はディシディア・トスカ。彼の友人だよ。そう怒鳴るものじゃない。落ち着いて話をしようじゃないか」
「あぁん!? 調子こくなよ、ワレ!」
「やめろ、ヤス!」
そこに新たな声が生まれた。良二がドアを開いてみせると、サングラスをかけた男――ヤスの後ろから彼よりも頭一つ分高い筋骨隆々の男が現れる。顔につけられたいくつもの傷が、彼の人生を物語っていた。
「あ、アニキ!」
「堅気に手ぇだすもんじゃねえぜ? だがよ、お嬢ちゃん。こいつの親父は数百万持ち逃げしていったんだ。なら、その後始末は血縁者のこいつの役目だろ?」
「確かにね。にしても、君は中々に話がわかりそうだ。だから、私は交渉を持ちかけようと思う」
「交渉?」
ディシディアはコクリと頷き、ローブの中に手を入れた。そしてしばらくまさぐっていたかと思うと、そこから大きなダイヤを取り出してみせる。その価値がわかるのか、男はハッと目を見開いた。
「わかったようだね。これをあげるから、彼からは手を引いてほしい。いいかな?」
「あぁん!? てめぇ、利子がついてるのを……」
「やめろ、ヤス! ……わかった。手を引こう」
「あ、アニキ!? どうしてですかい?」
アニキと呼ばれた男はディシディアの手からダイヤをかすめ取り、ヤスの耳元でそっと囁く。
「わかんねえか? あいつはヤバい。人間じゃねえよ、あの眼は。ここで手を引かねえと、後悔するのは俺らだ」
彼の額からは大量の汗が流れていた。ヤスはそんな彼の後を追って去っていく。
一方でディシディアは怪しい笑みを浮かべながら、満足げに胸を張った。
「……さて、これで問題は解決だ。では、もう一度交渉に移る。私をここに泊めてほしいんだが、いいかな?」
「もちろんです! ディシディアさん!」
即答だった。緊張から解放されたせいだろう。良二は震える手で彼女の手を取り、涙目になっていた。そんな彼の頭を撫でながら、ディシディアはふと空を見上げた。
「あぁ、なるほど。『イシュカ』はこっちでも丸くて……とても綺麗だ」
彼女は空に浮かぶ月を眺めながら、そんなことをポツリと呟いた。