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第二章1

 この書を禁書と呼びたければ、いくらでも呼ぶがいい。民の心はその程度では折れない。

          『民主論』作者不詳










   第二章


 どこか弱々しさのある夏の日差しのもと、シェラはテラスの大きなパラソルの下で本を読んでいた。城の書庫から拝借した小説だ。騎士と町娘が恋に落ちるという、よくある恋物語だった。甘い読み口が心地よいのだが、シェラが好むのはもっと心ときめく冒険譚や、胸を揺るがす思想家たちの言葉だった。そういったものは、この城の書庫には少なかった。


 シェラは騎士が身分違いの恋に煩悶しているところまで読み、顔を上げた。なんの危険もないおっとりとした午後の空気を、今となってはほんの少しだけ、物足りないと思う。

 遠乗りの日以降、嫌がらせは目に見えて少なくなった。


「嫌がらせが減ったというより、事前に阻止される率が上がったようですね。何度か侍従頭たちに救われたこともありますし……、少なくとも、彼らは敵ではなかったみたいです」


 カイハはこの平和をそう評した。きっと、カイハから見ればまだまだ危険に満ちているのだろう。

 だが、シェラはこの守られた安全な空気が、まるでフェイからの贈り物であるように感じていた。彼がことを知ったその日から、この平和は始まったのだ。彼が自分のことに心を砕いてくれている、そう感じられるだけで幸せだった。


 冷めた紅茶を口へ運んでいると、カイハが紙袋を持って部屋へ入ってきた。慎重に辺りをうかがってから、紙袋をガサガサと鳴らし、


「お嬢様、ご希望の品です」


 差し出されたのは、皮の装丁をされた分厚い本だった。表紙には飾り文字で『民主論』とある。あの日、シェラが初めてこの城を訪れた日に、フェイによって燃やされてしまった本だ。内容は主に現国王への批判だった。そして、民はいつか王権を打倒し、自らの力で国を導いていくようにならなければならないと書かれている。


 この本を王宮で手に入れることは――禁忌に近かった。


 だがどうしても読みたかった。この本にある言葉はどれも事実で、シェラの心を強く惹きつけた。あの日からシェラはカイハに、隙を見て城下へ降り、この本を手に入れてくるように命じていたのだ。


「ありがとう、カイハ。無理を言ってごめんね」

「とんでもございません。こんなことでお嬢様が喜んでくださるのでしたら、このカイハ、山を越えて海に潜ってでも、ご本を調達してきますよ」


 カイハは自慢げに笑った。

 カイハには隠密行動をとったり、情報を集めたりするのに一種の才能があった。幼い頃からその素質はあったのだが、城に来てからその才能はめまぐるしく開花し、今となってはとても重宝している。


 シェラは手渡された本をそっと開いた。新しい紙は白く、夏の日差しを照り返した。

 カイハが慌ててその表紙を閉じる。


「だめですよ、お嬢様。こんな所では誰が見ているかわかりませんからね。そのご本は寝物語としてご利用ください」

「はぁい」


 ――残念。せっかく手に入ったのに。


 シェラが肩を落としたとき、


「それと、」


 と、カイハが扉の向こうから篭いっぱいの花を持ってきた。


「これは、王太子殿下からの贈り物だそうです」

「わあ、きれいな花!」


 篭を埋め尽くす色とりどりの花に、シェラは喜びを隠せなかった。最初は花籠なのかと思ったが、そう言うには一本一本が乱雑に投げ入れられている。ありとあらゆる花をかき集めて篭につっこんであるようだ。

 カイハはテラスのテーブルへ篭をどん、と置いた。


「お嬢様のご趣味の一つに、花飾り造りがあると聞きつけたんでしょう」と、肩を回して凝りをほぐす仕草をする。「この間、カイハが侍従の一人に漏らしましたからね。情報の早いことです」


 シェラは本をわきへ置き、篭から一本の白い百合の花を取り出した。甘くかぐわしい香りが胸一杯に広がった。


「これは凜香百合ね。男性を惑わすという、魅惑の花」


 シェラはさっそく数本の花を選び、凜香百合と合わせて小さな花飾りを作った。


「いい配色ですね」


 カイハが眼を細めて笑った。

 シェラはいくつかの花をまとめ上げ、花飾りを作り始めた。アーゼンでは男女問わず花飾りを身につける。花飾りは幼い頃から自分で作るのが習わしで、感性や技術が自然と上達するのだ。


「カイハも作ったらどう? 楽しいわよ」

「遠慮しておきます。この国じゃ、花はめちゃくちゃ高価ですからね」


 グルディンの花は遅くて短い春に一斉に咲き、一斉に散る。夏が過ぎようとしている今の時期、生花を手に入れるのはなかなか難しいことだろう。


「そうなの。じゃあ、失敗は許されないわね。がんばらなきゃ」


 と、シェラは意気込んで、花飾り造りに没頭した。

 三つの花飾りを作り、そのうち一つを髪に、もう一つを胸元に挿す。グルディン服では似合っているかどうかわからないが、以前、夜会で造花の花飾りを胸元に挿していた女性がいたから、きっと大丈夫だろう。

 シェラは手元に残った最後の花飾りを見下ろす。淡い水色の花を使った、小ぶりな花束だ。


「……来年の春、この花が咲きだす頃には、わたしはフェイ様のお嫁さんになるのね……」


 婚約期間は来年の春までだった。一年という長い間、たとえたくさんの準備が必要だとしても、長すぎるように思える。これから過ごす無為な時間を思い、シェラは軽く溜息をついた。


「その婚約期間の件ですが、『最低でも十月十日は婚約期間をおきたい』などと言われました。お嬢様を侮辱しています」


 カイハの声は怒りを含んで尖っていた。

 シェラは一瞬、言われた意味がわからなくて、「なぜかしら?」と考えた。

 直後、それに気付き、はっと息をのむ。


「それって、わたしがその……ふしだらな女と思われているってこと?」

「遺憾ながら」

「うわあ……。フェイ様もそう思っていらっしゃるってことかしら」


 シェラは手にした花飾りを握りしめそうになり、慌ててテーブルへ置いた。


「さあ。それは本人に訊いてみないと分かりませんが……」

「そんなの訊けないわよ」


 シェラは小さな女の子のように困り果てた。


「ですね」カイハはしみじみ頷いた。「まったく、この国は、男は三人も妻をめとることができるくせに、女の貞節にはめちゃくちゃ厳しいんだから。失礼としか言いようがありません。だいたい、うちのお嬢様に限ってそんなことがあるわけないじゃありませんか。このカイハの目が栗色のうちは、言い寄る男はすべて一刀両断にさせていただきますからねっ」


 カイハのいつもの過保護発言に、シェラはなかば呆れてこたえた。


「その場合、例外はあるの?」

「まあ……。王太子殿下などは、そうなりますが……」


 勢いをそがれて、カイハがごにょごにょと呟く。


「婚前交渉などは間違っても犯さないでくださいよ、お嬢様」

「はぁい」花飾りの仕上がりを確認しながら、シェラはきっとカイハは結婚してもこんな調子なんだろうな、と思った。「きっと大丈夫よ。わたしったら、フェイ様とお話しするだけで真っ赤になってしまって、ろくに口もきけなくなってしまうんだもの。身体も、身動き一つ取れなくなって……」


 思い出すだけで赤くなってしまう。昨日、手の甲に落とされた軽い口づけが、しびれるように残っていた。


「のろけ話でしたら十分すぎるほどうかがいましたが」


 カイハは釘を刺す声を出した。


「普段は流されがちですが、お嬢様はいざというときには度胸のあるお方です。カイハはもう、それだけが心配なのです」


 と、大げさに嘆かれて、シェラはまた溜息がつきたくなった。

 最後に留め金の様子を確認して、シェラは席を立った。


「さあ、花飾りができたわ。それじゃあわたし、この花飾りをフェイ様に渡してくるわね」

「お供いたします」


 カイハが素早く言った。


「大丈夫、ひとりで行けるわ。カイハは残った花を片付けておいて。花瓶にでも活けておけばいいから」


 さっと指示を出して、シェラは扉へ向かう。また恥ずかしいところを目撃されて、あとでチクチクと釘を刺されるのはごめんだった。


「すぐに戻るわ」


 ひらりと部屋から出ると、カイハの声が扉ごしに届いた。


「ああもう、お嬢様っ」


 声だけで、カイハは追ってこなかった。



     ◆



 執務室にフェイはいなかった。「中庭へお散歩に出られたようです」という侍従の言葉に従って、夏の花咲く中庭を探し歩いていると、以前に彼と楽しく話したガゼボのほうから言い争う声が聞こえてきた。


「――まだあんな奴らと付き合っているのか。聞いたぞ、お前の婚約者が『民主論』を携えてこの城へやってきた、と」


 険のある男性の声が、脅しをかけるように重く響いた。

 シェラはひたと、自分の息が止まったのを自覚した。


 ――あの件が噂になっているの……?


 そう思うと心臓の裏側を撫でられるような、いやな悪寒がした。


「それは……」


 よく知った声が絞り出された。苦いものを飲み込んだような声音だが、間違いなくフェイのものだ。


 ――ど、どうしよう……。


 シェラは足を止め、生け垣の裏に身を潜めた。このよく茂った木の向こう側に、フェイともう一人、男性がいるようだった。

 気付かれないようにそっと覗きこむと、フェイと対面する男は、赤がね色の長い髪を三つ編みにして背中へ流している。あの色には見覚えがあった。あの夜会の日、フェイと一緒に燃え上がるシェラを助けてくれた、アークノインという男性だ。

 アークノインは、はっと、攻撃するように鼻で笑った。


「なんでも、国王と第二王妃の前で焚書にしたらしいな。たいした役者だ」

「からかうのはやめてください。何が言いたいのです」

「城中この噂で持ちきりだよ。未来の王太子妃から汚染が始まった、と」


 一瞬、風すら止まるかのような沈黙がおとずれた。

 フェイが重く口を開く。


「――たとえ貴方であっても、彼女を愚弄することは許しませんよ」


 ぞく、とするほど低く恐ろしい声色が、シェラの耳朶を打った。


「はん」とアークノインは鼻で笑う。「お前に何ができるって言うんだ?」


 アークノインがきつい眼光でフェイを睨んだとき、パサリと軽いものが落ちる音がした。


「!」


 見下ろせば、フェイのための花飾りが足元に落ちている。

 フェイとアークノインが同時に振りかえった。


「「誰だ!」」


 二人の声が重なって、まるで一人のように聞こえた。声がよく似ているのだ。


「あ……」


 シェラはびくりと身をすくませた。


「シェラ殿」


 フェイが鋭い眼光をほどく。あの柔らかい雰囲気が戻ってきて彼を取り囲んだ。


「どうしたのですか、こんなところで」

「あの……、この花飾りを……」

「ああ」フェイは目を丸めて彼女を見つめていたが、すぐにアークノインから守るように立ちふさがった。「お気に召していただけたようですね」


 アークノインも驚いた様子で彼女を見ていたが、やがて、うわごとのように、


「今の、聞いて……――いや、失礼した。私はこれで」


 と言うと、大股で歩き去っていこうとした。

 だが、フェイとすれ違う瞬間、


「なるほどな。お前に手に入らないものなど、初めからないということか……」


 その低い呟きは、シェラにもよく聞こえた。

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