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ぽかんとしたまま動けないでいたシェラへ、フェイがなんてことないというように手を取り、微笑みかけてきた。
「大丈夫ですよ。その薄い桃色がシェラ殿によく似合っています。身長なんて、私はまったく気にしません。ほら、髪飾りも……本当に良くお似合いです」
フェイは眼を細めてシェラを上から下までつくづくと見た。その微笑みに暖かさこそあれ、濁りはいっさいない。
シェラは衣装に対して決定的に足りていない胸元を握りしめて、フェイを仰ぎ見た。
「本当にそうでしょうか?」
「本当です」
と言ってから、彼は少し困ったように眉を寄せ、
「私はあまり口が達者ではありませんから、信じていただけないかもしれませんが……。その衣装が霞んでしまうほど、貴女が――」
そのとき、群衆の向こうからひときわ大きな声が届いた。
「惚気はそのぐらいにしておけ、ファーラフェイ」
人垣の奥からその人物が顔を出した。フェイよりも少し赤みがかった赤がね色の長い髪をした、フェイと同じぐらい長身の青年だ。抜け目のなさそうな鋭い碧眼が印象的だった。
彼は手にしたグラスを軽く掲げてみせ、
「風評から婚約者ひとり守れない男が、この国を守れるのか、と皆が不安になるではないか」
と、酒をひと口含んだ。酔っているのだろうか、いや、酔った振りをしているのだ。
「アークノイン」
フェイが眉間にしわを寄せた。とっさに一歩足を踏み出し、シェラを背後へ守るようにする。
アークノインと呼ばれた青年はグラスを給仕に渡してこちらへ歩み寄ると、長い赤がね色の髪を後ろへ払い、片手を胸に宛てて腰を折るという、グルディン式の敬礼をフェイへ――いや、シェラへした。
「これはこれは、ご機嫌麗しゅう、未来の王太子妃殿下」
「は、初めまして……」
シェラがフェイの後ろからひょいと顔を出したのと、アークノインが顔を上げたのは同時だった。フェイとまったく同じ色合いの碧眼が大きく見開かれ、皮肉げな微笑みをうかべていた口元が小さく息をのむ。硬直と絶句。それは、フェイが初めてシェラと対面したときとまったく同じ反応だった。
それを見て、シェラは確信した。
――そんなに、似合ってないんだ、このドレス……!
今の彼女にとって、彼の態度は疑惑へのとてつもなく強力な後押しだった。やはりグルディン服をアーゼン人が着るなんて無理なのだ。どれだけ胸元にタオルを詰め込んでも、隠しようのないところは隠しようがない。貧相な自分の体型を、シェラは思いきり嘆いた。
するとフェイがシェラの手を取り、自分の腕へ絡めさせた。
「紹介しましょう。彼はリージェスティン・ディル・アークノイン。私のいとこです。王都の警護を任されている白鷲騎士団の団長であり、レカローグ侯爵でもあります」
「レカローグ侯爵……さま」
シェラは言われている意味がよくわからなくいまま、フェイの言葉を繰り返した。
「アークとお呼びください、シェラ殿」
アークノインは硬直をとき、優雅に一礼してみせた。
「誠に美しい御方だ。この窮屈な王宮において、貴女は優美な華となることでしょう」
「あ、ありがとうございます……」
今のシェラには、アークノインの社交辞令に対して礼を返すことしかできなかった。こんなに似合わないドレスを着ているのだ。表では殊勝なことを言っていても、彼らは裏でなんと言っているかわからない。フィーネのような悪口を言われているかもしれない。
シェラはなおも社交辞令を垂れ流すアークノインの言葉が、まったく耳に届いていなかった。動揺して辺りを見回すと給仕係に耳打ちしているフィーネの姿が見えた。また悪口を言っているのだろうか。
不安に胸が騒いで、それが顔に出てしまったのだろう。
最初にシェラの変化に気付いたのは、フェイだった。
「お顔の色が優れませんが……気分でも悪いのですか?」
「いえ、その……。少し疲れてしまったみたいで」
「なるほど、少し休みましょう。テラスへ出て、夜風に当たるのはいかがですか?」
「はい。そうします」
二人がテラスへむかって歩き出したとき、グラスを配っている給仕とぶつかった。
給仕の手からお盆が離れ、シェラへと降り注ぐ。
「きゃっ」
「っ、すみません!」
ガラスの割れる音がして、シェラのドレスの右袖から裾にかけてが、琥珀色の液体で染まった。
「どうしましょう、ドレスが!」
シェラは慌ててフェイから離れた。ハンカチを取り出そうと手提げの小さなバッグをあさる。動揺でどこにあるのかわからない。
「早くっ、早く拭かないと……っ!」
「布巾を、早く!」フェイが給仕へ指示した。
「こちらです!」
別の給仕が慌てて布巾を差し出す。
「は、はいっ!」
動転していたためか、シェラはテーブルの燭台をまたいで手を差し出してしまった。
ぼっと、炎が長く垂れた袖にまとわりついた。たっぷりとアルコールを吸った袖から炎が舞い上がり、シェラの身体をなめるようにして裾へと炎が広がっていく。
「きゃああ――!!」
シェラではない別の女性が悲鳴をあげた。
声も上げられず、シェラはただ呆然と燃え上がるドレスを見下ろしていた。長い裾を這い上がってくる炎が目に焼き付く。
「シェラ殿!」
フェイが上着を脱いで、バサリと炎を叩く。アークノインもそれに続いた。
「早く、水を! 水を出せ!」
男性二人からバサバサと叩かれ、シェラはいよいよ動転した。それでも悲鳴は出せず、やっとのことで「た、たすけてください!」と叫ぶ。その間にもフェイたちはバサバサと彼女を上着で叩いた。
「Ed,bruger wertor!」
グルディン語の呪文が聞こえたのと同時に、シェラへと大量の水が降りかかってきた。フェイが魔法で水を作り出したのだ。
魔法のおかげで、炎はすぐに消えた。
「大丈夫ですか? 早く医者を。こちらへ!」
なかば焼け溶けたドレスを隠すために、フェイがさっと上着を被せてくれた。
「わ、わかりましたっ!」
シェラは震える身体をその中にかくし、フェイに引かれるまま、大広間を横切っていく。
その途中で真っ青な顔をしたフィーネとすれ違った。彼女は小さく震えながら、
「こんなことになるなんて……」
と呟いているのが聞こえた。
◆
大広間に隣接された小部屋で、呼びつけられた医者は安堵したように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。ドレスのほうは酷いものですが、火傷は大したことはありません。腕に少し腫れが見られるのと、あとは髪ですね。少し焦げてしまいましたので、切りそろえたほうがよいかと思います」
「なんということでしょう、お嬢様の美しい御髪が!」
疾風のように駆けつけてきたカイハが、大げさに嘆いた。
「大丈夫よ、カイハ。怪我は大したことないし、髪だってまた伸ばせばいいんだもの」
「そうは仰いますがねえ! 珠のお肌をこんなふうに腫らしてしまって……。カイハは、カイハは……故郷くにの旦那様になんと申し上げればいいのやら!」
「あー……。お父様には内緒にしておいてね」
シェラの父親は、普段はおおらかな性格なのに、娘に関することとなると途端に心配性に早変わりする。女学校の宿舎にいた頃など、父が気を揉みすぎて倒れたという話を何度も聞いた。そのくせ駆けつければケロリと起き上がってくるので、心配するだけ無駄である。
この件をカイハが伝えればきっと血相を変えて王宮に駆けつけてくるだろう。そんなことはさせられない。
シェラは椅子に座ったまま、かたわらに立つカイハを見上げた。
「お父様にはちょっと転んだぐらいで報告しておいて。本当に大丈夫だから」
「それから」、と、その反対側に膝をついて座りこんでいる人物へ顔を向ける。
「フェイ様も、ほんとうに、大丈夫ですから。そんな心配なさらないでください」
フェイの顔色は真っ青だ。なかば無意識に何度も髪を撫でられているのだが、彼自身は気付いていないようだった。
「しかし、シェラ殿の長い髪が……」
心配げにのぞきこむ碧眼を、シェラは強い視線で押し返した。
「そんなにたくさん焦げたわけではありませんから、大丈夫です」
「……わかりました。よい理髪師を呼びましょう」
そう言って、フェイは残った髪をひとすくい持ち上げ、残念そうに髪へ口づけた。そして立ち上がり、部屋を出て行く。
後に残されたシェラは、今さりげなくされた仕草をもう一度思い浮かべ、ゆっくりと顔を赤くしていった。
――今……、その、髪に……口づけられた……?
耳まで真っ赤になったまま微動だにしなくなったシェラへ、カイハの低いつぶやきが聞こえてきた。
「あの王太子、やりよる」
その眼光は鋭かった。