7
強結界の牢を抜け、秘密の扉から通常の地下牢へ抜けると、ガランとした空の牢が続いていた。
両側を牢に囲まれた細長い通路を歩いていく。すると、途中でギィ、と背後から牢の扉が開く音がした。
「……?」
五人の男のうち、先頭の一人が通路を振り返った。そのとき。
「〈はなあや〉」
アーゼン語の呪文が耳朶を打った。その意味は『炎よ』。
「――伏せて!」
シェラはとっさにフィーネを掴んでその場にしゃがみ込んだ。
「ぎゃあああ!!」
振り返れば、しんがりをつとめた男の背中が燃え上がっていた。赤い炎を背中に背負った男は、混乱のあまりバタバタと辺りを転げ回る。
炎で明るくなった通路に、二人の男の姿が浮かび上がった。白い布で顔を覆い、短めのまっすぐな剣を構えたアーゼン人の男と、黒い布で顔を覆ったグルディン人の男。
――カイハ? と……。
背格好からアーゼン人の男がカイハであると見抜いたシェラは、床にしゃがみ込んだまま、なかば呆然と二人を見上げていた。そこにいるのは、ずっと会いたいと望んでいた、でも叶わないとわかっていた、彼なのだろうか。
炎を受けて、二人の持つ剣がチカリと輝いた。床を転げ回る男の火はまだ消えない。魔法の炎は対象がなんであれ、術者の集中力が続く限り燃え続ける。
「貴様ら、何をした!」
シェラたちの周りを取り囲んでいた四人の男が、一斉に剣を抜いた。ジャラリと耳に響く音がして、長剣が輝く。
四人が一斉に二人へ駆け出そうとしたとき。
「〈えがけの〉!」
カイハの呪文が響く。『動くな』。同時に男たちがその場に縫い付けられたかのようにぴたりと動かなくなった。表情一つ変えられず、か細いうめき声をあげるだけだ。
「――シェラ!」
懐かしい声が耳朶を打った。
呼ばれるままにシェラが立ち上がったのと、グルディン人の覆面男が彼女を抱きしめたのは、ほとんど同時だった。
「シェラ……!」
安堵の吐息が耳元をかすめる。
息の詰るような抱擁の中で、彼のぬくもりがじんわりと伝わってきた。
「会いたかったです、シェラ」
「わたしも……」
彼女の手が彼の背を這い上がり、ぎゅ、と服を握った。
「一目お会いしたいと思っていました、フェイ様」
にこりと、自然な微笑みがうかぶ。抱きしめる力がいっそう強くなった。その力に全身をゆだねたまま、シェラは何度も自分の名を呼ぶ声を聞いた。甘い満足感が全身に満たされていく。そうだ、あの暗い牢の中で欲していたのは、この声。そしてこのぬくもりだ。
「……お嬢様」
フェイの向こう側から、カイハの震える声が聞こえた。
だがそれはすぐに叫びに変わる。
「――危ない!」
シェラとフェイが顔を上げたとき、フェイの後ろで白刃がひらめいた。カイハの魔法が解けたのだ。彼の弱い魔力では緊縛の術は長くは続かなかった。
シェラは思わず目をつぶった。
「――ッ!」
衝撃と共に、フェイの短いうめき声がした。
ずるり……と、フェイの身体が離れていく。床に膝をついた彼の肩には、大きな傷がぱっくりと開いていた。
「王太子! くそっ、〈うよし――んぐっ!」
癒しの魔法を使おうとしたところを正面から口をふさがれ、カイハの詠唱が止まった。
「おのれっ、魔法なんぞ使いおって!」
「貴様、鬼の子か!」
「殺せ!」
次々に緊縛のとかれた男たちが騒ぎ始めた。カイハの口を押さえたまま、三人がかりで締め上げる。
その様子を、アークノインとフィーネは呆然と見つめていた。
ただシェラだけが、倒れたフェイにすがりついている。
「フェイ様、フェイ様――ッ!!」
彼の肩からは血が溢れ、押さえた手をべっとりと濡らした。
「フェイ様、お気を確かに。フェイ様ッ!」
「大丈夫、です……っ」
「ですが、フェイ様……!」
取りすがるうちに、フェイの顔を覆っていた黒いローブがとれてしまった。蒼白な顔は苦悶に歪められている。歯を食いしばったままの彼を見て、シェラはいっそう取り乱した。
「誰か、誰か医者を呼んでください、誰か――!!」
シェラが振り返ったときだった。背後で両手を口に添えたまま、小さくなって震えていたフィーネが目を瞠った。彼女の視線はシェラ越しにフェイの顔とらえたまま、動かない。
「ふぁ……」
空気を吸い込むかのように、フィーネは小さな口を開く。
「ファーラフェイお兄様――――!?」
その甲高い声はほとんど絶叫だった。狭い通路を駆け抜け、表で待ち構えている守衛たちにも聞こえてしまうほどに。
すぐに幾人もの足音が迫ってきた。
「どうした!?」
「なにがあったんだ!?」
「賊です」
即座に動いたのはアークノインだった。彼は手にした仮面をフェイの顔に乗せると、澄ました声で、
「革命に反対する者たちの仕業でしょう。捨て置きなさい」
とフェイにそっくりのよく響く声で告げた。
「はっ」
元から騎士だったと思われる守衛が、思わず、といった様子でアークノインに敬礼を返し、はっと我に返ったようにその手を下ろした。
「魔法を使ったのはどいつだ!」
守衛たちがフェイとカイハの辺りを取り囲む。カイハの頭をぐしゃぐしゃとかき回して確認し、
「鬼の子か……とにかく、城外に捨てよ」
「はっ」
「カイハッ」
シェラが手を差しのばすと、口を封じられたカイハは視線だけでそれを拒絶した。自分を見捨ててでも逃げろ――そう、その眼は告げていた。だが、魔法も使えない彼女にはどうすることもできない。
守衛がシェラの肩に手をかけた。
「処刑の時間が迫っています。さあ、早くこちらへ」
彼がシェラを立ち上がらせようとしたとき、目の前で肩を押さえたまましゃがみ込んでいたフェイが、シェラへ手を伸ばした。
「待ちなさい……駄目です……! シェラ!!」
痛みと必死に闘いながら、彼はシェラの手を掴んだ。きつく握りこむ力にシェラの指先が痺れていく。その力強い腕を、守衛の男が蹴り飛ばした。
「フェイ様っ!」
「っ!」
痛みに顔をしかめたフェイの手が離れる。
同時に、口を押さえられたままのカイハが何事かを叫んだ。
「ん――!」
「っ! いてぇッ!」
そのとき、口をふさいでいた手にカイハがかみつき、引きはがした。
「お嬢様っ! 〈かうにごえ――」
だがその詠唱は途切れる。カイハは後頭部をがつんと殴られ、その場に崩れ落ちた。
「カイハ!」
名を呼んでもぴくりとも動かない。気を失ってしまったようだ。
「カイハッ、フェイ様っ!」
守衛に引き立てられながら、シェラはフェイへ手を伸ばす。
「フェイ様、カイハを頼みますっ」
「シェラ!」
フェイは肩の痛みに堪えながら、連れて行かれるシェラへ手を伸ばした。
届かない。
「シェラ、シェラ――――!!」
その声は空の牢に反響し、いつまでも聞こえた。
◆
小ぶりな斧が振り上げられ、太い麻紐を切断した。
ザッと、分厚い刃が落ちる。
ぶつんといやな音がして、麻袋を被った彼の首が落ちた。長い朽葉色の髪が尾を引くように転がって、地の道筋を描いていく。傷口から血が噴き出し、断頭台の下に水溜まりを作った。それが彼の髪をじわじわと紅く染めていく。
シェラは目をつむって、彼の最後の言葉を思い出した。断頭台へ上がる前に、アークノインは言ったのだ。
「今度こそ、彼はよい書を著わすでしょうか」
その言い方が他人事のようで、シェラは一瞬、こたえられなかった。
「国も家族も、愛する人さえも失って、それでも書かれる書とは、どういったものなんでしょうね」
「今度こそ、正しく民を導く書ですわ」
シェラははっきりと言い切った。
彼の巻き付けられた包帯の下で、くっとわらう音がした。
「……でしょうね。――あいつはそういう男です」
そして、色味だけは優しい碧眼を空へ向け、本当にぽつりと、
「見たかったな……その世界」
そして、彼の名が呼ばれた。『王太子アイゼン・ディル・ファーラフェイ』、と。
アークノインは最後にシェラの手を取ると、その手を撫で、口づけた。
「それでは、一足先に、冥府にてお待ちしております」
その芝居がかった仕草は、不思議とその場になじんでいた。彼は一礼し、断頭台への階段を上っていった――。
シェラの名が呼ばれた。
「お姉様……!」
取りすがろうとするフィーネを、シェラは優しく抱きしめた。
そしてドレスの裾を持ち上げると、静かにその階段を上っていった。
壇上からは、城の前庭が見渡せた。彼女の足元のごくわずかな場所をのぞいて、様々な髪色をした人々がひしめいている。遠くに見える門からは一世一代の大見物を見ようと、民衆が続々と駆け込んできていた。
その中に、見慣れた赤がね色の髪が見えた。
シェラは目を見開く。
彼は人混みをかき分け、こちらへまっすぐに向かおうとしていた。素顔を晒したその姿は、包帯の巻かれた右肩を紅く滲ませている。
その隣には、濃緑色の髪をした小柄なアーゼン人の男がついていた。
「フェイさま……」
断頭台の上で小さく呟く。強力な結界の張られたこの場所では、魔法はおろか言葉すら通じないかもしれない。それでもシェラを目指して、フェイは叫んだ。
「やめなさい――!」
「イェーフ、やめるんだ!」
その彼を押しとどめる臙脂色の髪をした男、ノースト。他にもあの酒場で見た顔が、彼をおさえ込もうと必死になって掴みかかっていた。
「今すぐ処刑をやめるのです、今すぐ――!」
その声に、シェラの胸になにか温かいものがこみ上げた。
彼の優しい碧眼をまっすぐに見すえ、呟く。
「……生きて」
その言葉は小さく、誰にも届かなかった。
だがその次に発した言葉は、はっきりと民衆たちの耳に届いた。
「――『民よ、今こそ手を取り合って進め』――」
フェイの顔が泣きそうに歪む。
シェラはそれだけで満足し、にっこりと笑いかけた。
そして、麻袋が被せられて――。