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――水音が聞こえる。
隣の部屋にある風呂場から、パシャリと水の跳ねる音がした。その音が響くたび、シェラは体中を悪寒が浸食していくのを感じる。
ここはアークノインの寝室だった。質のよい材木を使った調度品が並ぶ部屋には、鍵がかけられ、出ることは叶わない。
声を限りに叫んでみたが、無駄だった。魔法の簡易結界で、声が届かないようにされているのだ。
地下牢で頑なに言うことを聞かないシェラに業を煮やし、アークノインは無理やり自室へ連れ込んだ。既成事実を作ってしまえば、シェラとて言うことを聞かざるをえなくなると思ったらしい。
――アークノイン様がお風呂をすませるまでに、何としてでも逃げないと。
シェラは窓に向かった。城の四階にあるアークノインの部屋には、テラスはなく、絶壁のような壁があるだけだ。高さゆえ飛び降りても死ぬだけだろうが……。なにより、下にある塔の先端に串刺しになるかもしれない。
――でも、いいわ。フェイ様以外の男に抱かれるくらいなら。
シェラは淡々と思った。
――死んだほうが、ましよ。
シェラが窓枠に足をかけようとしたとき。
遠く、城の門の向こうにいくつもの炎が集まっていることに気付いた。赤い炎が鳥の群れのように長く尾を引いて、ゆっくりと動いていく。あれは松明だろうか。ならば、とんでもない数の人間が集まっていることになる。
「アークノイン様! アークノイン様!」
突然、侍従が扉をものすごい勢いで叩いた。
「暴動です! 民がこの城を目指して集まっています!」
「――なんですって?」
シェラが窓から離れたとき、窓の外から何かが素早く入ってきて、寝台に突き刺さった。
火矢だ。
そう思う間もなく、火の手が上がる。
「キャア――!」
炎は寝台をなめるように広がり、シェラはとっさに身を縮ませた。
「Ed,bruger wertor!」
グルディン語の呪文が飛んだ。
魔法の水が呼び出され、寝台を濡らす。
炎は瞬時に消えた。
シェラが風呂場へ続く扉を振り返れば、そこにはバスローブ姿のアークノインが立っていた。彼の長い髪は赤みが落ち、フェイとまったく同じ色合いになっている。
彼は扉へと駆け寄った。
「暴動だと? 騎士たちは何をしているんだ!」
「そ、それが」勢いよく扉を開けられ、侍従が怖じ気づいたように礼をした。「騎士の中にも反乱に荷担する者が多くおりまして……」
アークノインの顔が歪んだ。
「それは我が白鷲騎士団でも、か」
「は、はい……」
「――くそッ」
アークノインは吐き捨てるように呟いた。
「こんな所でもあいつにかなわないのか……」
そのとき、遠くでドーンと重い音が響いた。
同時に前進に静電気が走ったような、鈍い衝撃が走った。
シェラが目を見開く。
「今のは……?」
侍従の顔色が変わった。せかすようにアークノインの腕を取る。
「いけません、城の結界が破られたようです。早くお逃げくださいませ!」
「シェラ殿、早く――」
振り返ったアークノインが、彼女を見てはっと我に返った。結界が破れた今、陽の民は本来の能力を取り戻しているはずだ。彼の視線の先では、炎に映える白金の髪が風になぶられてはためいている。
その髪をなでつけながら、シェラは十分な距離を保ったまま、アークノインを見すえた。
「フェイ様とカイハはどうなるのです」
「シェラ殿……ッ」
窓の外でドンという音がして、いっそう外が明るくなった。石組みの城を魔法の炎が包みこんでいるのだろう。
「シェラ殿、早く逃げましょう」
シェラはその場から動かなかった。彼女は静かな面持ちで、はっきりと告げる。
「――二人はどうなるのです、と聞いているのです」
「それは……」
アークノインが歯を食いしばるのが見えた。
「〈こじや、よたのるをごちぬ〉」
シェラが弓の構えをとると、空気の矢が生まれた。アークノインの額にぴたりと狙いを定める。そして、口元だけで微笑んでみせた。
「結界なき今、誰が最も力を持っているか……おわかりになりますよね?」
「陽の民、でしょうね」
アークノインはごくりと喉を鳴らした。
シェラは微笑みを崩さぬまま、穏やかに、けれど強かに言った。
「あまり大げさな魔法は使いたくありません。――カイハとフェイを解放しなさい」
見えない矢を構える手が、指先を摘むようにねじった。パチンと指を鳴らす、その寸前で――
「カイハであれば」
アークノインが急いで告げた。胸元から鉄の鍵を取り出し、彼女へ突きだしてみせる。
「フェイは王の近衛によって幽閉の塔におりますゆえ、私の力では及びません」
「……わかりました。まずはカイハを解放しましょう。〈こじや、をごちぬ〉」
アークノインの手にあった鍵が、ひょいと投げられたように宙を飛んだ。シェラの手の内へ音もなくおさまる。
シェラは素早く窓から身を乗り出した。
「それでは、さようなら、アークノイン様」
そのまま無防備に落ちていく。
窓の下には石壁を覆うように立ち上る魔法の炎があった。誰の術かは知らないが、相当の手練れだろうと思わせる、見事な大火炎だった。
そこへ落ちていきながら、シェラは小さく呟いた。
「〈こじや、えきたり〉」
風がうなって、炎を吹き飛ばした。ボッとそこだけ空気の穴が空く。
熱風が顔の脇をすり抜けていく。髪やドレスの裾がチリリと焼ける音がした。
やがて地面に近づくと、彼女の身体はゆっくりと減速し、見えない紳士に受け止められたかのようにふわりと芝生へ着地した。
「……待っててね、カイハ」
シェラは素早く駆けだした。




