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 『梟の巣』での出来事から半時後。

 城の地下牢からさらに奥、秘密の仕掛け扉を抜けた先には、城の最深部へ通じる階段があった。そのごつごつとした階段を、シェラはアークノインに連れられて降りていく。


「ご足労すみませんね。ここでないと、『彼』を封じられないので」


 シェラの腕を掴んだまま、アークノインは淡々と告げた。

 重い鉄扉を開けた先は、太い鉄柵が連なる地下牢になっていた。照明の代わりに透明な水晶が輝いており、天井と床には精緻な魔方陣が描かれている。腐臭の漂うその場所は、長くこの場にいた者の、膿み、疲れた魔力の残滓が色濃く残っていた。


「ここにいるのは……フェイ様?」

「ご自分の目でお確かめください」


 腐臭を振り切るように、アークノインはカツカツと歩を進めた。


「ここは強結界の牢。王宮魔術師に特別な結界を張らせた、いかなる者も無効化するようになっています」

「強結界……。いったい誰が?」

「貴方のよく知る人物ですよ、シェラ・レグナ殿。かなり手間取りましたが、魔法さえ封じれば華奢な男です。多少の暴力ですぐにおとなしくなりました」


 シェラの全身の血がざっと下がった。


「……まさか……」


 アークノインはこたえず、魔方陣の中央に位置する牢へ彼女を導いた。

 鉄柵の向こうで、息をのむ音がした。


「お嬢様……」

「カイハっ!」


 シェラが鉄柵に飛びつく。

 牢の中のカイハは、目を丸めたまま苦渋の表情を浮かべた。体中痣だらけで、侍女のエプロンドレスもはだけてしまっている。その胸には女性にあるべき膨らみがなかった。頭には侍女の折り頭巾がなく、その代わり、濃緑の髪をかき分けて二つの突起が見えていた。


「男……それも、鬼の子を侍女としてはべらせていたなどと知れたら、どうなることでしょうね?」


 アークノインは仄暗く微笑んだ。

 カイハは二本のツノを隠すように手で押さえた。


「申し訳ありません、お嬢様。すべてはカイハの失敗です。本当に申し訳ありません!」


 シェラは太い鉄柵を掴んだまま、アークノインを振り仰いだ。


「アークノイン様、カイハをどうするつもりなのです!?」

「どうしましょうね」


 アークノインはうっすらと微笑んだ。どこか強ばった笑みのように見えた。


「貴女次第です。私の取引に応じてさえくれれば、彼を解放しましょう」


 シェラは即座に答えた。


「何だって応じます。応じますからカイハを――」

「私の妻になってください」


 シェラは息をのんだ。

 地下牢に数秒の沈黙が流れる。

 アークノインは静かに語りだした。


「フェイが幽閉された今、王位継承権は幼い第二王子カティルのものになります。ゆえに貴女は自動的にカティルの妻になる。――ならばいっそ、私の妻になりませんか」どこか淡々と、彼は告げた。「私は先代国王の御代に王子として生まれました。しかし、彼は私を自分の息子とは認めず、庶子としての地位すら与えませんでした。私にはただ、第二王妃の息子という立場しかありません」


 アークノインは皮肉げに口元を歪めた。


「彼は知っていたのです。自分の妻が、自分の子を身ごもるはずがないことを」


 そしていっそう笑みを深める。とても、皮肉げに。


「私は不義の子なのです。それも、現国王と第二王妃の間に生まれた、第一の息子です」


 シェラは両手で口元を覆った。


「でも、髪の色が……」

「染めているのですよ。本来はフェイやカティルと同じ朽葉色をしています。王位継承権の色をね」アークノインは赤がね色の長い三つ編みをなでた。「この髪を染めているのは、亡き王の遺言のためです。彼は私に多くの制約を残し、死にました」


 アークノインは三つ編みを握りこんだ。碧眼を上げ、シェラをまっすぐに見つめる。


「それでも私は満足していたのです。今の国王の治世がどれだけ酷かろうとも、フェイの時代がくれば、多くの人々が救われると信じていましたから。――それを捨てると……、あの男が『民衆に権限を明け渡す』などと言いだすまでは」

「それは……フェイ様の望みとは違います」


 シェラはきっぱりと告げた。フェイの本心は『民主論』の中にはない。その続編に当たる、執筆中の本にあるのだ。


「フェイ様の今書いていらっしゃる続編は、それを訂正するものです」


 だがアークノインの皮肉げな微笑みは消えなかった。


「私も『民主論』を読んでいました。……原稿の頃からね。あいつは私の名を借りて、城下へ出入りしていましたから。原稿の段階では、いかにもあの善人が言い出しそうなことばかり書いてありました。――だが、出版されたあの本が……あんな内容だったとはね。我らが王家にとっては厄災のような言葉ばかりでしたよ」


 アークノインの瞳に、暗い影が落ちた。


「失望しました。王となる気がないのなら、いっそ私に明け渡してしまえばいいのに、と」


 仄暗い微笑みには、熾火のような怒りが込められていた。


「だから私を求めるのですか。最後の、五人目の陽の民として」


 シェラは震える手を握りしめ、アークノインを見上げた。


「はい」彼は躊躇なくこたえた。「貴方を手に入れることが、王位継承の鍵とも言えるでしょう。フェイなき今、カティルか私か、どちらかの妻になるしかないのです。ですが――貴女にもこんな秘密があった」


 すっと、鋭い碧の視線がカイハを捉えた。


「あの酒場にいたということだけでも十分な罪ですが、この件を明らかにすれば、この城での貴方の立場は言うまでもなく悪くなるでしょう。――カティルの妻になど、けっしてなれません」

「なるつもりはありません」


 強ばる口元を無理やり動かし、シェラははっきりと告げた。


「フェイ様以外の男の妻になど、なるつもりはありません。カイハのことを黙っていたのは、その……申し訳なかったと思いますけど……」


 口ごもるシェラを、アークノインは眼を細めて見やった。


「鬼の子は便利ですね。この城や城下町を幾重にも覆う結界が、いっさい通用しないのだから。望むがままに魔法を使うことができる。性別を偽ったりね」


 アークノインは胸ポケットからするりと銀の鍵を取り出す。


「……ですが、それはまたこの国の王も同じなのです。王と同じ髪色を持つ者もね。気付きませんでしたか? 私がこの城の庭で木をなぎ倒すような魔法を使おうとしたときに」


 シェラは小さく口を開け、「あ……」と声を漏らした。


「それでカイハは……捕まったんですね」


 相手はゆるりと頷いた。それは、今この場で最も力がある人物は誰かということを意味していた。シェラもカイハも結界で魔法が使えない。ただ、朽葉色の髪を持つものだけは特別に魔法が使えるのだ。そうでなくても体格のよいグルディン人男性相手に、シェラがかなうはずがない。

 銀の鍵をシェラへ突きつけて、アークノインは真剣に告げた。


「決めてください。今ここでわたしの妻となるか、鬼の子と共に牢へつながれるか」


 シェラは幻術にかかったようにその鍵から目が話せなかった。この首を一度縦に振るだけで、カイハの身柄が解放される。それは、ひどく魅力的な取引だった。


「わたしは……」

「お嬢様、だめです!」


 唇が勝手に言葉を紡ぎ出そうとしたとき、牢の中のカイハが鉄柵にすがりついた。


「カイハのことは構わず、言ってください! 『こんな男、知らない』と!!」

「それは言えないわ!」


 シェラは思わず言い返していた。

 それからカイハへ向けてちいさく頭を下げると、


「……ごめんなさい、カイハ」


 と告げ、キッとアークノインへ顔を向けた。


「すべては――わたしの責任です。カイハのことも、フェイ様と一緒に酒場にいたことも、すべて。だから今すぐわたしをこの牢へ叩き込んでください。一生日の目を見られずとも、わたしは構いませんから!」

「それはできません」


 アークノインは青ざめていた。彼は取り繕うように続ける。


「陽の民の娘と、王は結婚しなければならないのですから……」

「ならばフェイ様の婚約者として、その罪を償わせてください!」シェラは懇願した。「こんな城に思い残すことは何もありません。首をはねるなり、牢屋へ繋ぐなり、寺院に放り込むなり、お好きになさってください!」

「この男を殺す、と言っても?」


 冷静さを装った脅しにも、彼女は怯まなかった。


「ならばわたしから殺してください。フェイ様の婚約者であるうちに!」


 すがりつこうとシェラが彼の腕を取る。

 それをアークノインは唇を噛み締めて見下ろした。


「それでも妻にならないと言うのか……」


 低く呟き、なおもめげない彼女の瞳を眩しげに見つめる。


「……それ以上言うのはやめてください。貴女を憎んでしまいそうだ」


 苦々しい響きは、どちらが傷ついているのかわからなくさせるには、十分だった。

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