アゲイン・アンド・アゲイン!
プロローグ
――始まりは、突然だった。
「あんたの願いを何でも叶えてやる。ただし、三つまでだ。三つ叶えたら契約成立。あんたが死んだ時、あんたの魂を貰う。理解したか? 理解したなら俺はあんたに取り憑かせてもらうぜ」
コウモリのような形をした、でもカラスくらいの大きさがある奇妙な生き物はそう言って、眼前に居る女子高生、中岡久美を指差した。
突如として机の上に現れたそれは、保健室とか歯科検診のポスターとかでよく見かける、小生意気そうな三叉を持ったバイキンにそっくりだった。中岡久美は唖然とする頭を一所懸命に働かせる。
実家の自室、夜の九時。目の前には奇妙な生き物。
考えが纏まるわけがなかった。
「なんで、私なわけ」
「キシシ。いい反応だ。あんた最高だな」
バイキンのようなモノは黒い触角のようなものを動かしながら、変な笑い声をあげた。
「しいて言えば、あんたの外見が気に入ったからだ。キシシシシ。これ以上の理由はいらんだろ?」
臆面もなくそんなことを言われて、久美は言葉に詰まる。
「まあ、いいじゃねーか。すぐに魂を取るってわけじゃねーんだ。願いも三つ叶えなきゃ、契約は成立しない。しばらく取り憑かせてくれ」
バイキンはそう言うと、ふわりと浮かんだ。
「ちなみに俺はバイキンじゃなく悪魔だからな。そこら辺、よろしく頼むぜ」
キシシ。と笑いながら奇妙な片手を久美に差し出した。
特に理由はない。
特に理由はないが、久美は右手の指二本で、自称悪魔の握手に応じてみた。
1
久美は小さい頃から霊感がある人間だった。誰もいないはずの所に人が見えたり、明らかに生きていられないような姿をした人間も見えたりした。
しかし悪魔が見えたのは、初めてだった。
「キシシ。幽霊と悪魔を一緒にすんなよ。しかし、なるほどなぁ。昨日思ったよりもびっくりしなかったのは幽霊が見えるからか。残念だ」
「何が」
久美は顔の隣ら辺に浮かんでいる悪魔を見る。
住宅街の朝。十二月の冷えた空気の中を久美は一人、白い息を吐きながら歩く。
他の人には、この奇妙な悪魔が見えないようだった。むしろ、時々すれ違う人間は一人で虚空に呟く久美にギョッとしている。
「俺はてっきり、俺のような悪魔を夢見て待っていたのかと」
「どんな思考回路していればそうなるの。頭に春が湧いてるんじゃない?」
久美の言葉にキシシと悪魔は笑う。
「いいね。俺、あんたのそういうところ好きだ。悪魔に軽口叩く人間なんてそうそういない」
「そう、ありがとう」
「その長い髪も好きだな、うん。整った顔立ちもいい。女のくせに気の強そうな瞳も魅力的だ。あと、細い身体ってのはいいもんだな」
「……あんた、私を口説きたいわけ?」
訝しげに悪魔を見る。悪魔はキシシと笑った。
「そう思ったってだけだ。言葉にしなくちゃ分からんだろう?」
「そんな事ないわ。そういうのは簡単に言わないからいいの」
「ホー。言わないのがいいのか? どんな事を思っているか相手に伝わらないのにか?」
「言わなくても伝わるモノもあるの。悪魔のあんたには分からないだろうけど」
そんなもんかねえ。と呟いて、悪魔は黙った。
久美はもう悪魔の方を見ず、高校までの道のりを歩くことにした。
出会ってから数時間。勝手に取り憑いた悪魔はこんな風に、妙な事を気にする。
人間はどうして嘘を吐くのかとか、何故自分のしたい事だけしないのかとか。そんなもの高校生の自分に分かるわけがないのに、あれこれと訊いてくるのだ。
その度に知った風な事を言って会話を切るのだが、それを素直に受け止めてくれる悪魔に悪い気はしない。
「よし、じゃあ試してみようぜ」
「は? 何を」
何やら考え込んでいた悪魔が、キシシと笑って久美を指差した。
「言わなくても伝わっていたかどうかを、だ。悪魔の眼は特殊でな、人間の感情とか、嘘とかが分かるんだよ」
「へー。それは素直に凄いわね」
「だろう? だから、お前にこの眼を与えてやる。それで、今まで本当に言わなくても伝わっていたか、試してみようぜ」
「別に、いいけど」
心の中が分かるのは怖いが、感情くらいなら大した事はないだろうと思い、久美は頷いた。それに人の感情が見えるというのは、ちょっと粗雑な自分としてはありがたい能力かもしれない、とも思った。
「じゃあやってみようぜ。そこでよ、ものは一つ相談なんだが」
「なに?」
「『私に悪魔の眼を移植して』って一つ目のお願いしてくんない? 悪魔ってお願いされないと、何もできないんだよね」
「死んでしまえ」
久美は冷たく言い放った。
それでも自分の言った事は曲げない、というのが久美の長所であった。
「変な感じがする。人の顔が凄い色になってるんだけど」
「ういうい。それが悪魔の眼だからな。慣れれば普段の眼とのオンオフも出来るようになるからよ。ちなみに、人の顔が蒼の時が特に何も考えていない状態だ。赤が怒りで、緑が嫌悪。紫が疑念みたいな感じで、ピンクがピンクな感じ」
「素晴らしく曖昧ね」
「だって俺、人間の感情とかあんまり分かんねーもんよ。だからさ、他にも色々あるんだけど、どの色の時がどんな感情か分かったら、教えてくれよ」
「完全に実験台にしてるわねあんた……。でも、何でそんなに人間の事が知りたいわけ?」
久美の質問に、悪魔は首を傾げる。
「あれ、言ってなかったっけ? 俺たち悪魔ってば人間の魂を回収して、人間に転生するのが目標なんだよね。だから、俺としては人間の事を知っておきたいわけ」
「超初耳なんだけど」
「マジ? ごめん。でもまあ気にすんなよ、キシシシシ!」
それはこっちが言うべきセリフのはずなのに、この笑顔を見ると許せる気になってしまうから不思議だ。
「でも悪いけど、私と話している時の友人の顔が緑(嫌悪)だったら本気で泣くから」
「あ、それは大丈夫。何日かあんたの周り飛んでたけど、あんたと話している友人の顔は大体蒼(何も考えていない)だったから」
それって全然喜べる事実じゃないんだけど……。と思いながら、久美は通学路を歩く。人が増えてきたので、その後に話しかけてきた悪魔の声は全て無視した。
2
小さい頃の話だ。
中岡久美は、周りから嫌われていた。いや、嫌われていたというよりは、今考えれば気味悪がられていた、という方が正しいだろう。しかし、まだ小学生だった久美にそんな違いが分かるわけもなく、どうすればいいのかと嘆くばかりだった。
友人の興味を惹くために、幽霊の話をした。でも幽霊の話をすると喜んでくれるのに、幽霊の場所を指すとみんなが逃げていく。
どうして?
久美は一度、幽霊にそう問いかけた時がある。
どうしてあなたのせいで、みんな私から逃げていくの?
問いかけると幽霊は寂しそうに笑って、消えた。幽霊の顔は、家に飾ってある写真とそっくりのおばあちゃんだった。
小学校高学年になると、色々な番組や情報が耳に入り、自分のしていた事の気味悪さを知った。久美は幽霊が見えるといった発言をやめて、見えるモノを徹底的に無視した。
けれども小さい頃の事を覚えている人はいるもので。言わなくなったことで、逆に昔をほじくり返す輩が出てきたりもした。一時期、凄く辛い思いもした。
だからこそ、当時の久美は思い知った。
普通が何よりも、一番なのだと。
学校の屋上。冬場には人の来る事もない場所で、久美はフェンスに顎を乗せて遠くの空を眺めていた。吹きつける冷たい風に身体が震えたが、今は教室に戻りたいとは思わなかった。
「こんな眼、貰わなきゃよかったわ」
「なんでさ。別にあんたを嫌う人はいないみたいだったじゃん」
悪魔はフェンスの向こう側。人間ならば絶対に存在できない場所で胡坐をかいている。
「そうだけどさ……。でも、他の人が他の人と話している時に色が変わったりするじゃん。あー、あの人ってあの人の事嫌いなんだーとか思うだけならいいけど、それが友人同士なら私はどうすればいいのって話よ」
知らないフリをして生きる。それがいかに難しいことか、久美は知っている。この学校の屋上にも血みどろの女子学生が居たりなんかして、それに気づかないフリをするのは非常に困難なものであって、でもそれに慣れている自分が少し嫌でもある。
「二つ目のお願いすれば、その眼撤去するけど?」
「死んでしまえ」
「キシシ、冗談だよ。まあ、そんなに嫌なら普段の眼に戻ればいいさ。もう自分で制御できるだろう? それにしたって疑問なんだが。あんた、こうなることくらい少しは予想できてたんじゃね? みんながみんな仲良しなグループじゃない。そんなの分かってたろうに。それこそ、言わなくても伝わるってやつでよ」
「うっさいわね。あんたがやれって言ったんでしょうが」
もちろん嘘だ。決めたのは自分だし、本当は、友人が自分を嫌っていないという確信が欲しかっただけだ。
それにこの眼さえあれば、自分だけは一生、嫌われている人と深く関わらないまま、生きられるかもしれないと思ったから。
そんな、自己中心的な考えがあった。
「私って、やなヤツだなぁ」
「何を今更」
「何よその知ったような口ぶりは」
久美は悪魔を睨みつけた。しかし悪魔はその視線を気にせずキシシと笑う。
「だってよぉ、あんたってば、幽霊見えてるクセに幽霊無視するじゃん? せっかく見えてるのに、充分ひどいじゃん。こんなぷりちーな悪魔だって、こっちから話しかけなかったら絶対無視しただろうし」
「幽霊が見えるって言って、何の得がある? 私にしか見えないのに」
「あんたにしか見えないからこそ、じゃないの? いーじゃん。自分にしかできないことがあるって、素晴らしいじゃん」
「……奇妙だと思ってたけど、あんた本当に変な悪魔ね」
悪魔とは思えない悪魔の発言に、思わず久美は苦笑してしまった。
バカバカしい言葉を臆面もなく素晴らしいと言える。それが少しだけ羨ましくもあった。
「キシシ、ありがとよ。俺には最高の褒め言葉だ。普通と違ったっていいじゃねーか。はぐれ者、大いに結構! 自分の好きなようにするのが一番さ」
――俺は、そういう人間になりたいね。
と悪魔は続けた。
「あっそ」
久美は悪魔の言葉にそっけない返事をする。けれど内心では、この悪魔なら本当に自分の好きな事を好きなようにやるんだろうな、と思えた。それは普通を求めたあの頃の自分とは違っていて、複雑な気分にもなった。
「そういえば、あんたって本当に人間になれるの?」
「なれるんじゃね? こう見えても、今までにも何個か魂の回収してきたし。あんたくらい綺麗な人間の魂なら、価値高そうだし」
「死んでしまえ」
そういう事をはっきりと口にするのはやめて欲しい……。
久美は照れ隠しに顔をそらすため、後ろを振り返ってみた。
――そこに、一人の男子学生がいた。
「……あー、今、いいか」
男子学生は久美と目が合うと、気まずそうに顔をそらしながら話しかけた。
一般人には悪魔の姿は見えない。
――見られた? 独り言を?
久美は心臓が破裂しそうなくらいな息苦しさを感じながら、何? という言葉を吐きだした。
「担任が探してたんだけど。中岡さん日直でしょ」
彼は決して目を合わせようとはしなかった。
「わかった。ありがとう」
久美はそれだけ言って、すぐに男の横を抜ける。
心臓は今でもはち切れんばかりに暴れている。感情が頭をガンガンと攻めて、泣きたいのかどうしたいのかも分からない。
「なー、あれクラスメイトの秋島とかいう男だろ? いいの、そんな態度で?」
「黙れ」
悪魔の声に小さく呟き返しながら、階段を駆け降りる。
自分に腹が立った。どうして屋上の扉を開けっ放しにしたのか。どうして足音にも気付かなかったのか。どうして声量をもっと下げていなかったのか。
まだ何も起こったわけじゃない。彼が誰かに何かを話す前に、どうにか言い訳をすれば済む話だ。そんな事は分かっている。
――でも。
「それにしても、あんたも嫌われたりするんだなぁ。あの男の顔見た? 緑色の顔って気持ち悪いよな? キシシ」
一番腹が立つのは、悪魔の眼にしたままだった自分。そして一番胸をイライラさせるのは、彼の顔が緑色だったこと。
教室には行かず、トイレに逃げ込んだ。荒れた息のまま、鏡を睨む。すぐ後ろにいるはずの悪魔の姿は映らない。
「緑色って何の感情だっけ」
「嫌悪とか」
「それ、あんたの間違いとかじゃないの?」
「それはないなー。あと思い出したけど、黒は悲しいだったかな。あんた自分の顔見える?」
見えるわよ……。
小さく呟いて、久美は鏡の中に映る真っ黒な自分を睨みつけた。
普段ならきっと、彼の前でピンク色になっていたはずの顔を。
3
***
久美が小学校五年生の頃だ。
学校に行ってもみんなから無視されて、男子からは変な事を言われて、でも誰も助けてくれなかった時。
放課後も一人机に座ってみんなが帰るのを見送っていた。もしかしたら誰かが声をかけてくれるかも、という期待もあった。しかしその希望も叶わず、毎日一人でオレンジ色の道を歩くだけだった。
そんなある日、久美は救われた。
みんなが居なくなった教室に、一人だけ男子が残っていた。久美は最後に帰るのが癖になっていたため、逆に残られると落ち着かない気分になった。
早く帰ってほしい。でも、話しかけると何を言われるか分からない。
どうしたらいいのか分からずに、結局いつも通り文庫本を読んでいるフリをした――時だった。
「ねえ、中岡さん」
突然名前を呼ばれて、久美の身体はビクリ! と跳ねた。
「な、なんですか?」
それでも一所懸命に言葉を紡いだ。学校で、こんなに優しい声で話しかけられるのはいつ振りだろうと思いながら。
「あのさ、俺、家庭科の居残りなんだけど、ちょっと教えてくれない? 教科書見ても分かんないんだ」
男子の名前は、秋島智樹。いつも出席番号で最初に呼ばれる、元気な少年だ。久美をいじめる男子グループとは違うから、ほとんど接点はない子だった。
「いいけど……」
言って、久美は後半の言葉をのみこんだ。
私が手伝ったら呪われない?
そんな言葉をわざわざ言いかけた自分を、恨んだ。
「ありがとう。じゃあ、教えてよ」
しかし彼はそんな久美の胸中などどこ吹く風で、半ば強引に久美の手を取る。
グイっと立ちあがらされて、久美は思わず涙が出そうになった。
人の手が、こんなに暖かかったことを、久しく忘れていたから。
たったそれだけの事が、凄く嬉しかった。
***
「人間ってすげーなー」
放課後。久美の隣を浮かぶ悪魔は、ふーっと嘆息した。昼休み以降、機嫌がよろしくない久美はマフラーに顔をうずめたまま悪魔に睨みつけるような視線を送り、先の言葉を促す。住宅街までの商店街を歩いているため、声は発せないのだ。
「だってよぉ、今日のあんた、あの男が現れた瞬間、いきなり真っ黒になったんだぜ? ビックリだ。それまでは黄色っぽくてちょっと楽しそうな感じだったのに。すげーすげー。こんな一瞬で感情って変わるもんなの?」
「うるさい……」
小さく呟いた。
一瞬で人間の感情が変わるのなんて当然だ。何かがあれば幸せな気分なんてすぐに吹っ飛ぶし、嫌な気分だって一瞬で救われたりする。そんなもの、高校生の自分だって知っている。
でもそれを知らないで確認してくる悪魔になんだか腹が立ったし、そんな事にイラつく自分にもっと腹が立った。
「で、どーすんの? 俺、独り言が趣味の女。って周りに認知される人間に取り憑くのは勘弁して欲しいんですけど」
そもそも誰のせいだ!
久美は全力でツッコミそうになったが、何とかこらえる。でもすぐに文句を言いたくなったので、商店街の裏路地から反対側に回った。
田舎町の商店街なのでメイン通りを外れると、裏側は廃れている。低い廃墟ビルだったり、夜の時間だけ細々と開店する飲み屋があったりする。学校が終わったばかりのこんな時間には本当に人気がない。
「イヤン。こんな人気のないところに来るなんて」
「死んでしまえ」
悪魔の軽口にようやく答える久美だが、キシシと楽しそうに笑う悪魔を見ていると、怒りもしぼんでしまう。
「んで、どうすんの? あの男、とりあえずは誰にも話してないようだが、放っておくのか? まあ、それもありだろうけどな。キシシ」
悪魔の言葉に久美は黙ってしまう。秋島智樹は確かに昼休みの事は誰にも話してないようだったが、そんなものすぐ話すとは限らない。例えば、男子の間で話している内に何かの間違いで自分の話題が出たりなんかしたら、その時に言われてしまうかもしれない。
ましてや、彼は、その、自分の事を嫌って……。
「泣きたい……」
「ちょー!? どんだけテンション下がってんだよ、あんた。キシシシシ。そんなに秋島智樹ってヤツが好きなんかい」
「好きじゃないわ。好ましく思っているだけよ」
「どんな言い訳だそれ」
秋島智樹が好き。誰にも言っていないし、言うつもりもない事だが、他の人には見えない悪魔と話していると思うと、別に認めるのもやぶさかではなかった。
「いいのよ、明日、話すから」
「二つ目のお願いで、あいつの記憶消してあげられますよ」
「死んでしまえ」
出会って一日も経っていないにも関わらず、もう二つ目の願いを催促するとは、なんと厚かましいことか。
「あの……」
悪魔と話して少しだけ元気が出た久美が溜息を吐くと同時、消え入りそうな声が後ろから聞こえた。
驚いた久美は慌てて後ろを振り返る。また昼間と同じ失敗を――
「あなた達は、もしかして秋島智樹のお知り合いでしょうか」
「あなた達、だってよ、キシシ」
悪魔が久美を見ながら笑った。それは、「達」と言われたことに対してか、それとも今の久美の状態を見て笑っているのか。
後ろには、足のない綺麗な少女が立っていた。
幽霊だ。
思った時には既に遅く、反応してしまった久美を嬉しそうに見つめるソレを、無視することはできなかった。
――幽霊は、自分の事を秋島友恵だと名乗った。
中学生くらいの年齢でありながら、とても落ちついた雰囲気を持っていて、それなのに可愛らしさがあった。
「私は秋島智樹の、姉です」
そして続柄は、久美が一瞬で思い浮かべた通りのものだった。
小学校五年生の頃。二人であの教室で家庭科の課題をやっていた時。久美は秋島智樹から、中学生の姉が亡くなったということを聞いていたから。
本当に好きだったお姉ちゃん。本当だったらこの課題も手伝ってくれるはずだった。と語っていた彼の顔を思い出す。
「お願いします。あの子を、智樹の命を、助けてもらえないでしょうか」
「「は?」」
幽霊の言葉に、悪魔と久美は一緒に開口した。
4
結論から言えば、人の命を救うのは可能だ。と悪魔は言った。
久美の自室に、悪魔と人間と幽霊が一人ずつ。なんとも珍妙な光景であり、久美は未だにこの光景の意味が分からなかった。そもそも、クラスメイトの命を救ってくれと言われた時点で現実味がないし、知り合いの家族の幽霊が出てくるなんていうのも、あまりにも自分の持つ現実とかけ離れ過ぎていた。
「かけ離れていたんじゃねーよ。あんたが今まで知らないフリをしていただけじゃん」
「心を読むな、バカ」
咄嗟に言葉を返す。相変わらず、悪魔はキシシと楽しそうに笑う。
「ま、幽霊の方から助けを求めてきたのには俺も驚いたが。キシシ。幽霊に頼られる人間なんて、初めて見たぜ」
頼られるとかそれ以前に、クラスメイトの命の危機だということ自体が信じられない。
「ま、こうなっちまったから言うけど、あの秋島ってのが近い内に死ぬ運命だって言うのは本当だぜ? だって死神憑いてたし」
「――!?」
グルン! と首をまわして久美は呑気に浮かんでいる悪魔の方を向く。カッと見開いた目は、いつもの凛とした瞳でいる久美とは程遠いものだった。
「あんたってばなんで学校でそれを言わないわけ!」
「いやだって、悪魔ってば基本的に人に不干渉だし」
「そんな都会人みたいな言葉いらないわよ!」
久美はハァと大きく息を吐いた。
「ちなみに、死神に憑かれたら長くても一週間くらいで死ぬから」
「だから、そういうことを、後付けで言うな!」
バシンと悪魔を叩く。「おー」と緊張感のない声で、悪魔は部屋の隅まで飛んで行った。
「キシシ。悪魔を叩く人間なんて居るんだなぁ。で、幽霊さんはそのもうすぐで死にそうな秋島智樹をどうして欲しいわけさ?」
「助けて、欲しいです」
悪魔に突然話を振られても、秋島友恵ははっきりと答えた。
当然だ。と久美は思った。
弟が命の危険にあっていたなら助けたいだろうし、助けを求められるなら、いくらでも求めるはずだ。
そんなのは当然のことで、それは生きていても、死んでいても当たり前の事。
その幽霊の真剣な顔を見て、久美は少し胸が痛んだ。
――今までにも、同じように助けを求めた幽霊はいたのだろうか。
見て見ぬフリをしてきた中で、自分が見捨てたものはどれくらいあっただろう。ちょっと耳を傾ければ、あるいは世間体を気にしなければ、自分に何か出来ただろうか。
自分が消してしまった老婆を思い出す。
あの時、友人が逃げていくと八ツ当たりをされた老婆はどんな気持ちだっただろうか。幽霊も人間のように心を持っているなら、自分はなんてことをしてしまったのだろうか。
「キシシ。あんたが気にすることじゃねえ」
久美の心に答えるように、悪魔が声を出した。そしてゆっくりと、浮遊をしながら幽霊の方に近づいていく。
「老婆の事は知らねーけどな。少なくとも、こっちはお角違いなんだよ。悪魔も死神も幽霊も、この世の人間に助けを求めるもんじゃねえんだ。人間を助けるのは人間で、人間を求めるのは人間なんだ。俺らみたいな異常な存在は、人間を頼るもんじゃねえ。大体、幽霊には、夢枕って言う立派な能力があんじゃねーか。何かを伝えたい本人の夢に出るっていうやつだ。家族が死神に憑かれた事を知った祖先なんかは、そうやって干渉することは許されてる。それをしねえで、悪魔である俺らに助けを求めた時点でこいつはイヤラシイんさ。大方、俺らの会話を聞いてて、あんたの秋島智樹に対する好意と俺の悪魔としての力に期待したのさ」
珍しく真面目に、長々と話す悪魔に、久美は唖然とした。悪魔の言葉を受けて、秋島友恵はゆっくりと頷いた。
「その通りです。だってそれが、一番確実、ですから」
「勘弁してくれよ、おい。俺らはボランティアじゃねー。そんな事でウチの宿主に期待すんじゃねーよ。死神なんて面倒なもんにつき合わせんじゃねーよ。ウチの宿主に何かあったらどうしてくれんだよ」
「ちょ、ちょっとあんた黙れ!」
悪魔の責めように、久美は思わず口を出した。中学生の少女に言うには厳しすぎる言葉だ。
「どうしたわけよ。あんたらしくもない。『キシシ。任せときな』くらい言えないわけ?」
「言えないね。前に言ったろ? 俺は俺の好きな事をするの。知らないヤツのために死神みたいな面倒臭いヤツの邪魔をするなんて、わざわざやりたくねーもん」
「あんた、私には私にしか見えない幽霊を無視するのひどいとか言っておいて、よくもそんなこと言えるわね」
「うぐ。それとこれとは別さー。どうせ俺、宿主ってか、取り憑いてる人間がいないと何もできないし」
「じゃあ、私がやるって言えば協力するわけね」
「……マジで言ってんの?」
悪魔は初めて唖然とした顔をした。ギョロッとした目がさらに大きくなる。
「マジよ。だって秋島君は私の知り合いだし。好ましいと思ってるし」
「死神の力って、こっちから干渉は出来ないから、ちょー面倒くさいんだけど。あんたにも危害が及ぶかもしれないし」
「今更何言ってんのよ。こんな眼与えておいて。色々変な気分にさせておいてさ。それに、私がそうしたいから、そうするの。それ以上の理由なんかないわ。何か文句ある?」
「……ねえな。そりゃ、あるわけねえわ」
一本取られたぜ。と答えて、悪魔はキシシと笑った。
「だとよ。つーわけであんたの出番は終わりだ。喜んで消えな」
悪魔は静かに二人のやり取りを見ていた幽霊を振り返った。
久美は訳が分からず、首を傾げる。
「現実世界に干渉しちまった幽霊は悪魔になるんだよ。そして俺のように、魂集めの旅に出る。素直に成仏すれば、楽に転生できるのになぁ。キシシ」
久美は悪魔の言っている意味が分からなかった。
だって、あの幽霊は秋島智樹の姉であって、これから自分たちと協力して、智樹を助けにいくのではないか。それで、あわよくば彼に彼女の言葉を伝えてあげて、ハッピーエンド。そんなものを期待していたのに。
「言ったろ? 悪魔も幽霊も、現実世界に直接干渉しちゃいけねーんだ。それは世界のルールなのさ。死んでからも現実世界に参加できるなんて、そんなに世の中甘くないってわけ。悪魔は人の願いを通して、幽霊は人の夢を通して干渉しなくちゃいけねー。こいつはそれを破った。秋島智樹の危機を人間に教えた時点で、この幽霊は消える運命なのさ。だから、悪魔となって魂の回収をして、転生を目指さなくちゃいけない。これは、あんたの願いであっても、俺には覆すことができない」
悪魔が喋っている間にも、悪魔となる幽霊は消えていく。何故か、笑顔のまま。
「どうして……」
だからこそ、久美は呟いた。
どうして、自分が消えるときに笑っていられるのだろう。
老婆の幽霊もそうだった。八ツ当たりをした自分に向かって、笑顔を送っていた。
「キシシシシ。人のために消えるヤツの考えることなんか、わかんねーさ」
悪魔は、楽しそうに笑っていた。
5
翌日、夕方。校門の前で、久美は自分の頬をパンと叩いた。
気合いを入れなければいけない。悪魔が言うのは、秋島智樹の命は長くとも、後二日くらいらしい。もう何が起こって彼が死んでもおかしくない状態だと言っていた。こうして考えるとバカバカしい話だけど、信じない理由も別にない。
「キシシシシ。物好きなことだ」
悪魔の笑いを無視して、久美は校門の前に立っている。待っているのはもちろん、秋島智樹。学校での生活に危険は少ない。最も危ないのは放課後だ。ゆえに、一緒に帰ろうと思い彼を待っているのだが。
「緊張でこっちが先に死ぬかもしれない」
「あんたに死なれたら俺、願い叶え損なんですけど」
容姿は悪くない。むしろ、整った顔立ちをしている久美だが、男と付き合ったことはない。告白だって何度か受けているし好きな男だっているものの、子どもの頃の記憶から、基本的に男というものが苦手なのだ。
「ここであんたにお勧めなのが、緊張しなくなるというお願」
「死んでしまえ」
久美は即答して、昇降口の方を睨みつけるようにして眺めた。
「来たわ……」
校門に向かって歩いてくる秋島智樹を見つけて、久美は唇を舐めた。実に怪しい行動だが、単に緊張して唇が乾いてしまっただけである。
「行くわよ」
「ちょい待った」
踏み出しかけた久美を悪魔が呼びとめた。緊張で気が立っている久美はキッと悪魔を睨む。
「いや確認事項だからさ。あんたの願いは、あと二つ。あんたが助けたいのは、秋島智樹。あんたは幽霊は見えるけど、死神とか俺以外の悪魔は向こうが姿を見せようとしない限り見えない。OK?」
何を言っているんだこの悪魔は。
思いながら、久美は頷いた。
「じゃあ最後にもう一度だけ言っておくな? 悪魔が人間に干渉できるのは、取り憑いた人間が願いをした時だけ。悪魔と死神はお互いに干渉し合わないルール。そして必要以上の世の中への干渉もルール違反。死神が出す『死の要因』そのものを事前に消すことはできない。つまりあんたが、秋島智樹の死ぬかもしれない瞬間に立ち会って、その要因が起こった後に願いをしなければいけないわけだ」
久美は頷く。
そんな事は、昨日の夜からずっと考えてきた事だ。
交通事故だったりとか、あるいは火事だったり、災害だったり。思いつく限りの事は昨日の夜に考えた。
「ならいいけどよー。マジで行くのー? 俺、お勧めしないよ?」
今更何を言うのかこの悪魔は。
久美は訝しげに悪魔を睨んでから、視線を秋島智樹に戻した。もう少しで、この校門までたどり着く。今日は、悪魔の眼も引っ込めている。これで嫌われてたって、自分には分からない。違う。嫌われてたって構わない。死んで欲しくない。それだけだ。
すうっと大きく息を吸った。意識はもう、第一声に向けられている。
「あ、あら偶然。よかったら一緒に帰らない?」
顔は当然作り笑い。緊張でちょっと口端が痙攣気味。それでも、久美は勇気を振り絞って、智樹に話し掛けた。
その後ろ姿を、悪魔はいつもとは違う無表情な視線で、ただ眺めていた。
やってきたのは商店街の喫茶店。
話があるからと、半ば強引に久美は秋島智樹を連れてきた。自分でも不思議なくらい、勇気というか押しが出てきてくれた。
そして意外にも嫌な顔をせずに、秋島智樹は着いて来た。二人は向かい合うようにしてテーブル席に座り、注文をする。
「あのさ」
先に声を出したのは秋島智樹だった。慌てて久美は顔を上げ、正面に居る智樹を見た。
智樹は神妙な顔をして、久美を見つめていた。
「中岡さんはさ、昔、幽霊とか見えるって言われてたけどさ、あれって本当?」
突然の話題に、思わず久美は言葉を失う。
子どもの頃の、決して良くはない時代。それをわざわざ話題に出された意味が分からなかった。そして何より昨日の屋上の事がある以上、この先はきっと自分にとって嫌な言葉が待っていると、想像がついてしまう。
けれども智樹は久美のそんな不安など当然知らないようで、自然に話を続けた。
「ごめん、変な事言うかもしないけどさ。嫌だったら別に答えてくれなくても構わないけどさ。幽霊って、本当に見えるの?」
一体、何のつもりなんだろう。
本当に突然の展開に、久美は自分の頭が回ってくれない事だけは分かった。
彼は、あの嫌な時代に自分の手を取ってくれた人間だ。暗い暗い世界で、手を差し伸べてくれた人。それがたとえ何でもない些細な事でも、自分の妄想であっても、あの時救われた事だけは事実なのだ。
でも、よりにもよってその人に、せっかく抜け出したと思っていた事を面と向かって訊かれてしまった。
しかしだからこそ、中岡久美は
「見えるよ」
正直に答えた。
もちろん、冷静な思考なんか出来ていなかったし、これから何かを言おうとする気もなかった。訊かれたから答えた。それだけだった。
ただ、嘘を吐かなかったのにはいくつかの理由があるのかもしれない。
今日ここに二人が居るそもそもの要因が、とある幽霊にある事とか、悪魔に言われた通り、自分にしか見えないものを否定する事の残酷さを思ったとか。あるいは見えているものを否定していた、自分に対する罰だったりとか。
一瞬の内に色んな葛藤があって、結局久美は正直に答えたのだ。そして、智樹の言葉を待った。けれども次に聞こえたのは、彼の声ではなかった。
「なあ、あんた。今って悪魔の眼にしてる?」
悪魔がつまらなそうな声で言った。
久美は一度眼を閉じて、意識を変える。目の下にあるコンタクトを上にかき出すような感覚で、スイッチが切り替わる。
次に開いた眼に映ったのは、半分緑の、半分黒の顔だった。
思わずキモイと呟きそうになった口をつぐむ。
「凄い色だよなー。ついでに今日気づいたから言うけどさ、こいつってば一日中緑なんだよね」
――は?
思わず目が点になった。
久美はチラリと、横にいるはずの悪魔に視線をやる。
「いや、あんたってば昨日のトイレ以来ずっとこっちの眼じゃなかったから知らないだろうけどさ、少なくとも今日学校で同じ教室に居る間とか、グラウンド歩いている時とか、あと今現在とか。ずっとこいつ、みどりーんだよね。キモイ」
「キモイとか言うな」
「え?」
思わず出してしまった声に、少し俯いていた智樹が反応する。「何でもない」と久美が言うと、また考え込むように俯いた。
悪魔はキシシと笑う。
「別に声に出さなくても、俺の耳って取り憑いた人間の心聞こえるからよ」
そんなのは最初から分かっている。それよりも聞きたいのは、ずっと緑色な事についてだ。
「ずっと緑色なのはそんなに珍しくねーよ。要するに、ずっと嫌な思いで暮らしているってだけだからな。そんなのはこいつだけじゃないぜ。自殺するやつなんかは、大体こんな感じだ。大した問題じゃないさ。」
大問題である。
どうして秋島智樹が、嫌な思いで暮らさなければいけないのか。
「そんなの俺には分からんけど。むしろよかったんじゃね? あいつ、あんたの事を特別嫌ってたってわけじゃないんだってことじゃん」
「あ、あのさ」
悪魔の声に、智樹の声が重なった。視線をはずしていた久美は正面を向く。
「幽霊ってさ、狙って見れるのかな?」
「どういう意味?」
久美は訊き返す。少しでも声が優しくなるように、緑色の顔を見つめた。智樹は運ばれてきたコーヒーを一口飲んで、続けた。
「あー、その、ちょっと見つけて欲しいっていうか、訊いて欲しい事のある人がいるんだけど……。そういうのってあれか? イタコとかに頼んだほうがいいのかな?」
「いや、イタコが何なのか知らないけど……。誰を見つけて欲しいの?」
久美が訊くと、一度グッと唾を飲み込んで、智樹は言った。
「中岡さんには昔言ったかもしれないけど、俺姉ちゃんが居たんだよね。死んじゃたんだけどさ。姉ちゃんに訊きたい事があったから」
「……何を、訊きたかったの?」
頭が痛くなるのを感じながら、久美は言った。智樹の姉に会う事など出来ない。それは昨日消えるのを目の当たりにした自分が一番よく分かっている。けれども、聞いておかなければいけないと思った。あの子の最後を見た自分だからこそ。幽霊が見える自分だからこそ。
「死ぬって、どんな気持ちなのかなって。俺今、死神に憑かれてて、明日死ぬみたいだからさ」
智樹の表情と単語に、
久美は言葉を失うのだった。
自室。
陰鬱とした気分で、久美は机に顔をうずめた。
「失敗したー……」
「失敗、か? よく分からんけど」
悪魔は首を傾げながら、ベッドで胡坐をかいている。
「失敗も失敗よ。どうやって助けようかを考えていたのに、まさか秋島くん自身が死神の存在を知っているなんて、思わないじゃない」
喫茶店での事を思い出し、久美は大きく息を吐いた。智樹は、あれから自分が死神に憑かれていること、明日死ぬことについてを「信じてもらえないだろうけど」と言って話しだした。
「死神って、取り憑いた人間に死ぬとか言うもんなの?」
「知らね。悪魔と死神は交流しないから」
クソ役に立たないわね……。
「口に出さなくても聞こえるから、そういうの思うのやめてくれよ」
キシシと笑いながら悪魔が言う。
「でもよ、ちょいと疑問なんだけどさ。あんたって何でそうまでしてあの秋島ってやつにこだわるんだ? 好きだからって言ってたけど、好きだったらそんなに頑張るもんなの? せっかくの願い事を犠牲にする覚悟までしてさ。悪魔の俺から見ると、凄い異常なんだけど」
「悪魔のあんたにだけは言われたくない言葉ね、それ。でもまあ、確かに付き合っている人でもないし、あんまり話した事のない男子にするには、異常かもね」
久美は自嘲的な溜息を吐く。
確かに彼の事は好ましく思っているが、これが愛と呼べるほどのものなのかは分からない。何でも叶うという夢のような状況を犠牲にするほどの事なのかも、だ。しかしそれでも、諦めようとは思わない。
「私はね、昔どうしようもない子どもだったわけよ」
突然始まった話に、悪魔は首を傾げていた。それを気にせず、久美は続ける。
「誰にも話し掛けられないで、話す事も怖かった時期があるの。なんかもう色々言われてて、全てがダメダメで、諦めているフリをしているくせに、でも諦められなくてずっと学校に通ってた。多分根本的に諦めの悪い人間なんだよね、私。でも当時の私は、自分からは何もできなくて、うじうじしてるだけだったわけよ」
自然と笑みがこぼれてしまう。こうして、あの頃の事を笑いながら話せる。こんな日が来るなんて思ってもいなかった。
「そんなある日の放課後にね、秋島くんが話しかけてきてくれたわけよ。家庭科の授業手伝ってくれ、って。それで、私は手伝った。一所懸命に。一日じゃ終わらなかったから、何日か一緒に残って作業した。そんで提出した課題が褒められた時、私に向かってピースしてくれたわけ。うん……それが、私が頑張る理由」
悪魔は目を点にしていた。なんとも不細工な顔だ。久美は話しながら、楽しくなってしまう。
「本当にそれだけなんだよね。もっと言えば、あの日彼が手を差し出してくれたから、かな。ずっと誰とも触れられなかった私に触れてくれた。それが嬉しかったわけよ。たったそれだけの事だけどね。でも『それだけの事』が、確かに在ったわけ。たったそれだけの事で変わっていけるんだ、って思えた」
だから今度は、私の番だ。と久美は思う。
人だって一瞬で簡単に変われる。だったらくだらない未来だって変えてみせる。
「だから今日は失敗したけどまた明日、明日こそ、秋島くんを救ってみせる」
久美がグッと自分を奮い立たせていると、悪魔が突然笑い出した。
「キシシシシ! いいね。人ってのは! 繋がりってやつか? そんなのは、悪魔にはない。悪魔同士は喋らないしな。羨ましい限りだ!」
「なに他人事みたいに言ってんのよ、あんたは。私が今回こんなに頑張ろうとしてんのは、あんたのせいでもあるんだから」
「は?」
悪魔の反応に少し恥ずかしくなって、久美は顔をそらした。
「あんたが言ったんじゃないか。私にしか出来ないことがあるって。そんで私はあの幽霊に会った。そして彼の危機を知って、私には願いを叶える悪魔がいた。だから、私にしか出来ない事をやろうと思った。つまりこうなってんのは、あんたのせいでもあるんだからってこと」
悪魔のおかげで考えを変えることが出来た。だから今の自分がある。
恥ずかしすぎる言葉だった。面と向かってありがとうなんて言えないけど、それでも言っているようなものだ。
チラっと悪魔の方を見ると、唖然としていた。新しい表情だ。
「あんたってさー……面と向かってそんな事言って、恥ずかしくないわけ?」
「死んでしまえ。っつか、あんたにだけは言われたくのよそれ!」
照れ隠しに、ばしーんっと悪魔を引っぱたいた。
「そんでさー二つ目の願いなんだけど」
電気を消した部屋。ベッドの上で寝転がりながら、久美は言った。
「んあー?」
机のある方から、悪魔がやる気のない声が聞こえた。せっかくの願いだというのに、くいつきが浅い。やる気が感じられない。
ちょっと強く叩きすぎたのかもしれない。
「いや、痛みとかないから気にしてないけど。つーか、マジでそれ叶えんのか? その願いって、ちょっと俺には理解できなかったり」
「勝手に心を読んで話を進めるなバカ。仕方ないじゃん。頼まれたんだから」
「でもさあ、もっとすげー事だってできるんだぜ? 宝くじ当てたり、玉の輿になったり、超美人になったり、テストでいい点取れたり」
「随分庶民的な願いを知ってんのね、あんた……。でも、そんなのどうでもいいわけよ。別に今お金に困っているわけじゃないし。勉強嫌いじゃないし。幽霊見えるのだってもう嫌じゃないし。容姿にそこまでコンプレックスないし。何気に幸せMAXだな私。みたいな」
「はいはい。じゃあ何も言いませんよ。んじゃあよ、願い言ってくれ。叶えるから」
「私を秋島友恵さんと会わせて。もう一度、話がしたいから」
久美は迷わず言った。
喫茶店で最初に頼まれた事。彼にとってはもしかしたら些細な事なのかもしれない。事実、死神について話し出してからは、別れるまで一度も姉の話はしなかった。
多分、不安が不意に口をついてしまっただけなのだろうと思う。けれども、だからこそ自分はそれをしてみたいと思った。
理由なんかない。
そう思ったからそうやってみるだけだ。
「そうだよな。それで十分だ」
キシシと悪魔が笑う。また勝手に心を読んだのか。と思ったが、急激な睡魔に襲われたので喋ることすら億劫になってしまう。
そういえば、幽霊は基本的に夢の中で接触するのだと言っていた気がする。それを破ったから彼女は悪魔になっているはずだけど、そこら辺は大丈夫なのだろうか。
そして、ふと思った。
この悪魔も、幽霊の時にルールを破ったから悪魔になったのだろうか。
だったら一体、どんな事をしたのだろう。
そんな事を思いながら、久美の意識は遠ざかって行った。
6
懐かしい夢だった。
夢の中で秋島友恵と会って話をした後、久美は懐かしいと思える場所にいた。
自分の体が小さくて、でも周りの景色は大きくて。
子どもの頃の自分だ。と思い当たるまでに、時間は掛からなかった。自分の体が勝手に動いている。この景色と、胸の焦燥は覚えている。ただ、この後の記憶はおぼろげだ。
久美が向かった先は、今はもう無くなっている公園だった。住宅街の中にポツンとある、空地のような公園。そこに、老婆の幽霊がいる。
老婆の幽霊は泣きじゃくる久美を見ても、何もしない。ただ微笑んでいるだけ。それがこの日だけは何故だか腹立たしかったのだ。
「どうしてあなたのせいで、みんな私から逃げていくの!」
だから、こんな事を言ってしまった。今すぐ謝りたいと、その光景を見ていた久美は思う。けれども、口は開いてくれない。
クラスメイトから気持ち悪いと言われた日だ。いつも必ず公園で見かける老婆の話をし、放課後にみんなで行き、指をさした。友達は逃げて行って、追いかけている途中で気持ち悪いと言われた。
たったそれだけの事が、あの頃の自分には世界が終わるくらいに悲しかった。
老婆の幽霊が笑みを絶やさず、近づいてきた。
そして、
「頑張って。そういう時は、笑うの。笑っていれば、きっといい事あるから」
久美の肩を掴む動作をしながら、幽霊は『言った』。久美は愕然とした。
こんなのは記憶にない。
事実、子どもの自分は泣くことに必死で、耳に入っていないようだった。それでも老婆はにこりと笑い、消えた。文字通り、足の先から消えていった。決して成仏をしたのではないのだと、本能で分かった。
その消え方は昨晩見た、秋島友恵の消え方と一緒だったから。
「ねえ、どうしてあんたは悪魔になったの?」
翌日、登校中。
久美は相変わらずマフラーに顔をうずめながら、隣を浮遊する悪魔に訊いた。飄々としながら悪魔は首をふる。
「知らね。俺たち悪魔って、幽霊だった頃の記憶がないんだよね。気が付いたら悪魔でしたー。みたいな。あんただって前世の記憶なんか思いつきもしないだろう? それと一緒さ。どんなだったかなんか知らないし、予想もつかないねー」
「でも、昨日は悪魔になっているはずの秋島さんが、幽霊だった秋島さんのまま夢に出てきたけど」
「それはそれ。そうしないと願い叶わないじゃん。なんつーのかなぁ。うんあれだ。簡単に言えば、あんたの魂から前世を呼びだした感じ。どうなっているかは知らないし、あんた自身も分からないだろうけど、あんたの根源にはちゃんと積み重ねてきた魂があるってこと。その性格だって、ちゃんと前世からの積み重ねが影響していたりするんだぜ? つーか、何でそんなこと訊くわけ? え、昨日夢に出た老婆がどうなってるか気になってんの?」
「だから勝手に心を読むなっつーの。まあ、その通りだけどさ。なんかさ……私に話しかける事でもし悪魔になっちゃったんなら、悪いことしたなぁって」
大きく息を吐く。しかも自分は八ツ当たりをしただけで、しかもしかも励まされたことすら忘れていたのだ。罪悪感はMAXである。
「知らないけど、十年くらい前なら、もう転生してんじゃね? 早い悪魔は死にかけの人間とか見つけて、三年くらいで転生するからよ。それと、悪魔って楽しいぜ?」
「そりゃあんたにかかれば何でも楽しいでしょうよ」
キシシと笑う悪魔に、冷たい視線を送る。
「あんたはあとどれくらいで転生するわけ?」
「さあ。あんたが死んでからだから、長くてあと八十年くらい?」
久美は思わず絶句する。八十年なんて遠過ぎる数字だ。そりゃ、早死にはしたくないけど、そんなに生きているのかと思うと、凄く遠く感じる。
「あんたは、それでいいの?」
「いいも悪いも、そういう契約だからな。あんたの願いを三つ叶えたら、俺はもうずっとあんたに憑いていくわけよ」
「じゃあ三つ目を願わなきゃ、手っ取り早い人のところに行く事も出来るのね?」
「ひでえ!? 見捨てんなよー。つか、二つも願い叶えさせてからそれってひどくねー?」
あんたの事を思って言ってやったのに……。
久美は思うが、声にはしなかった。心を読める悪魔には伝わっているはずだし、わざわざ言わなくても、こいつ自身も分かっているのだろうという確信があった。
「俺、あんたの初体験だけは絶対に見届けるんだ」
「死んでしまえ」
軽口を叩きながら、久美は足を速めた。
今日は、秋島智樹が死ぬ予定日。けれども今日の朝も、いつもと変わらない。
あまりにもいつも通り過ぎて、死ぬには向いていない日だ。
***
死神が見えるようになったのは、四日くらい前なんだよ。と智樹は言った。
喫茶店の中、まったく予想もしていなかった言葉を聞いた久美は頷くことしかできなかった。
「それから毎晩、自分の死ぬ状況を見せられるんだ。だからもう、ずっと嫌な気分で学校に行ってた。誰に話すわけにもいかないし。でも、昨日中岡さんを屋上で見つけたとき、なんか嬉しかったんだよね。なんていうのかな……本当に柵の向こうに何かがいるみたいに話してたよね、中岡さんって演劇部だっけ? 演技かもしれないけど、素直に凄いって思った」
全然嬉しくない……。
久美は思ったが、先を促す。
「小学校の頃の事はもちろん覚えてるから。なんだか懐かしくなっちゃって、ちょっとだけ元気出た。しかも放課後誘われて、ちょっと今、テンション上がってるかも。死ぬ前にもう一度話せてよかったって、本気で思ってる」
それは言われて嬉しいはずの言葉なのだろうか。ギュッと久美は唇をかみしめた。
「秋島くん、もしよければ訊きたいんだけど。秋島くんが見る、秋島くんの死ぬ場面ってどんな感じなの? それって絶対に避けられないものなの?」
久美の言葉に、智樹は一度目を見開いた。
「あー、ありがとう。凄く嬉しいかも。いや、本当に信じてもらえるとは思ってなかったから。それでも、誰かに話したくてさ。自分でも何言ってるのか分かんないけど、はは。でも中岡さんに今日誘ってもらえて、よかった」
「それってどういう意味?」
「俺、死ぬの明日だから」
即答された。久美の隣で、キシシと悪魔が笑う。
「明日の放課後だけどね。多分というか、間違いなく、死ぬと思う。もうあれだけ夢を見せられたら、信じないわけにもいかないし」
小さく自嘲気味に笑って、俯く。
「明日は、俺のこと探さないで欲しいな。中岡さんの目の前で死んだら、トラウマ作っちゃいそうだ」
次に顔を上げた時、智樹は笑顔だった。その痛々しい笑顔に、久美は何も言えない。
大丈夫だとか、絶対なんとかするからとか。
言いたい言葉はたくさんあったのに、言っちゃいけない気がした。
だから、
「友恵さんを悲しませちゃダメだよ」
卑怯にも、彼の姉の名前を出してしまった。
智樹の顔から笑顔が消えて、ポケットに手をつっこんだ。そして次の瞬間、バン! とテーブルを叩く。
「おつりは、いらないから」
そう言って歩きだす智樹を、久美は止められなかった。
「失敗したぁ……」
顔に手を当てて、キシシと笑っている悪魔を睨みつけた。
***
「はい、昨日のおつり」
昼休み。チャイムが鳴るのと同時に動き、久美は智樹の席に向かった。唖然とする智樹の顔を眺めながら、おつりを机の上に置く。智樹を昼食に誘いにきた男連中が少し遠くからこっちを見て何かを囁いているが、どうでもよかった。
「いらないって、言ったはずだけど」
智樹は顔をそらす。そして冷たい声で言った。
「それに悪いけど俺、君の事嫌いなんだよね。気味悪い」
久美は目を閉じた。
ショックなのはもちろんショックだ。面と向かって、好意を寄せている相手からは絶対言われたくない言葉である。
「嘘ね」
でも、今の久美には嘘は通用しない。智樹がどんな事を考えて放ったのかは知らないが、決して言いたくて言ったわけでない事は分かる。
キッと智樹が振り返った。
「私に嘘は通じないから」
しかし久美はにこりと笑う。悪魔の眼でもって確認した彼の顔は、緑と黄色。そして、仄かなピンク。
こんなに、嬉しい事はない。
「屋上に行かない?」
半ば強引に、久美は智樹の手を取った。教室中から注目されている気がするが、どうでもよかった。変な目で見られてもいい。何でもいいからとりあえず、絶対にこの人だけは死なせたくないと思った。
「お姉さん……友恵さんに会ってきた。友恵さんはあなたに、死んで欲しくないって」
屋上に着くと、久美は言った。冷たい風が吹く中、二人は向かい合う。智樹は一瞬唖然とした表情になるが、すぐに顔をそらした。
「そういう嘘、やめてくれないか。昨日は悪かったよ。もしかして、死神とかそういうのも、信じてる? よしてくれよ。冗談を真に受けられるほど、ウザイ事はない」
「そうね。嘘を真に受けるなんて面倒よね。でも残念だけど、あなたの嘘は今の方だよね? 私には分かるから」
悪魔の目は、感情を読み取る。智樹が嘘を吐く度に、顔の色が一瞬だけ暗くなる。これは多分、罪悪感なのだろう。
誰に教わったわけでもないが、久美はそう確信できた。
「勘弁してくれ。死神とか、姉さんとか、もうどうでもいいんだよ」
「よくない。何で勝手に諦めてるわけ? 本当に死ぬつもりなの? 友恵さんは、あなたに生きて欲しいって言ってたのに」
「姉さんは関係ない。放っておいてくれ」
「何でそんな嘘を言うの? 秋島くん自分の顔見てみなよ! 私じゃなくても、嘘だって分かる。それくらい、苦しそうな顔してる」
当たり前だ。今日死ぬと分かっていて、苦しくないわけがない。だからこそ久美は言った。自分を恨んでくれてもいいから、今日を生き抜いて欲しかった。
「友恵さんは言ってたよ。秋島くんは、毎日自分の仏前で手を合わせてくれるって。毎月、仏壇を掃除してくれるって。それなのにこの一週間は、何もしてくれなかったって!」
果たして、こうやって姉の話題で彼を興奮させるのは卑怯なのだろうか。自分でも分からない。分からないが、止める気はなかった。
昨晩彼女と話した自分だからこそ、彼を好きな自分だからこそ、絶対に諦めるという選択肢はない。
諦めない。これこそが、今の自分にしか出来ない事だから。
「秋島くんにとってのお姉さんてそんなものだったの? 自分が死ぬかもしれなくなったらどうでもよくなっちゃう存在だったの? じゃあ、友恵さんは何のために生きていたんだ! 友恵さんは泣いてた! 死ぬ事を受け入れているあんたを知って、泣いてた! 死ぬのがどんな気分かなんて訊いたあんたを嘆いてた!」
「うるさいよ! 関係ないだろ!」
久美の言葉に、ようやく智樹が感情をむき出しにした。
「何なんだよ一体。今頃になってさ! 静かに死なせてくれよもう!」
「やっぱり今日、死ぬんだ」
「そうだよ、悪いかよ!」
「何で諦めてるの?」
「関係ないだろ……。何でそんなに突っかかってくるんだよ」
「理由なんかないわ。人が人を助けたいと思って、何が悪いの」
キシシと後ろから聞こえる悪魔の笑い声を無視して、久美は言った。もう何色かも分からないごちゃごちゃな顔を見るのはやめて、人間の眼に直す。
スウッと空気が透き通るような気がした。ようやく色が消えた智樹の顔はやっぱり疲れているようで、でも愛しく思えるものだった。
「私には、なんだって見えるんだ。幽霊だって、悪魔だって、あんたの未来だって見てみせる! 人の不幸を見ないフリなんか、もうしない! 目をそらさないで、私の眼を見て諦めたって言ってみろ! 嘘だったらはった押す! 嘘じゃなかったら気合いのビンタしてやる!」
「何だよ、それ」
智樹は苦笑した。ひきつった唇を歪める。
「諦めたくないさ。死にたくないに決まってる」
智樹は吐き捨てるようにして言った。
「姉さんには悪いけど、俺はまだここから居なくなりたくなんかない! 学校行って、メシ食って、時々遊んで、彼女だって作って。バカバカしいかもしれないけど、続けたい事とか、やりたい事なんて山ほどある! でも、でも俺は、あの光景を否定するわけにはいかないから!」
「……死神に、何を見せられてるの?」
「それは、言えない」
智樹は俯いて、しばらく黙った。久美は智樹の言葉を待つ。
黙ったままの悪魔に一度視線をやるが、何を考えているのか。無表情だった。
「俺、中岡さんの事、結構好きだった」
そして出てきた突然の声に、不覚にも久美はウッと詰まってしまう。
顔を上げた智樹は、笑っていた。
「運命ってものがあるなら、多分俺は感謝すると思う」
智樹は続けたが、久美は訪れた緊張の中で、まだ口を開けずにいた。
「マジでお願いだから。俺のこと探さないでくれ。さようなら」
言うが早いか、智樹は出口に向かって走り出した。
瞬間遅れて久美が追いかけるが、既に姿は見えない。下から階段を飛び降りるような音と、素早い足音が響くだけだった。
「がー! また失敗したー!」
「キシシシシ。まんまと逃げられたなぁ。どうすんだ? 追いかけんのか?」
「当然よ! 何度でもやってやるわ!」
久美は階段を駆け降りた。まだ遠くへは行っていないはずだ。
秋島智樹は確かに、生きたいと言ってくれた。ならば自分は、その未来を信じるだけだ。
智樹が校門から出て行くのは、グラウンドからギリギリ見る事が出来た。けれども学校を一歩出ると、どこにでも曲がり角はあって、人一人を見つけるのは困難だ。
肩で息をしながら、久美は舌打ちをした。
彼が死ぬのは今日で、しかも最悪な事に、今の彼は恐らく全力疾走。学校の外の出てしまった。危険なんていくらでもある。何が起こるか分からない。
「あー、最悪」
だから呟いた。悠長な事をしている暇はない。最も効率的に、確実に、彼を見つけなければ落ち着かない。
心臓が悲鳴を上げるように、激しく鼓動をうつ。焦りと不安から、疲れは倍増する。
「キシシシシ。やっぱ諦めんのか?」
だのに、悪魔はいつも通りに笑っている。本当にムカツクやつだ。
何がムカツクって、
「三つ目のお願いよ。秋島くんの死ぬ場所を、教えて」
この悪魔がいなければ、自分はここまで来なかったであろうから。
7
痛々しいくらいに、自分は変わっている。
久美は思った。
きっと何日か前の自分が見たら、一体何をしているんだと冷たい視線を飛ばすだろう。それでもやっぱり、何日か後にはそいつもこうして街中で恥を気にせず走っているに違いない。そいつだって、同じように考えが変わるに決まっている。
普通が一番だと思っていた頃がある。幽霊を見たくないと思っていた時がある。現実が嫌で逃げていた事がある。それでも諦めきれなくて、結局救われた事もある。
その度に、ずっとずっと、変化してきた。
一瞬で、何かは変わるのだ。
何でもない言葉がありがたかったり、何でもない行動が大事だったり、ふとした事で変わったりした。その自分の変化っていうのは、その時には気づけないものだった。
けれども後になって思うと、凄く面白かったり、バカバカしかったりする。
だからこそ今この時の自分は、後の自分が思い出した時、後悔だけはしないように行動したい。
あの老婆も秋島友恵も、何を考えていたのかは知らないけど、結局はそんな感じだったのだろうと思う。
例えば今日、彼を助けて自分がどうにかなるとしても、それは笑っていられる気がしたから。
着いたのは、商店街の裏通りにある廃墟ビルだった。昔はデパートだったビルは、今はもうその面影もなく、ガラクタの残骸と化している。
屋上に着くまでの階段は悲惨なものだった。倒れた鉄柱や鉄パイプが散乱し、何度転びそうになったか分からない。
「来るなって言ったのに」
錆びた扉を開けると、智樹が諦めたように笑った。まるで来る事が分かっていたかのような発言だった。
「諦めが悪いのよ、私は。それで、どうしてこんなところに来たの?」
久美が訊くと、智樹は視線をそらす。
「ここはさ、まだデパートだった時、姉さんとよく来た場所だから。死ぬなら、この場所がいい。中岡さんは、運命って信じる?」
「信じないわ」
「俺もだよ」
智樹の返答に、久美は首を傾げた。運命を信じていないのに、死ぬ事は信じているのだろうか?
「運命なんてさ、知ってればどうにでもなるんだよね。例えば、朝家を出るとき。右足から出るか、左足から出るか。それだけでも運命は変わるんだって、何かの番組でやってたよ」
「情報源、番組!?」
わざと久美はおちゃらけてみせるが、どうにも滑ったらしい。笑ったのは相変わらず悪魔だけだ。
「ちょっとだけ顔をあげていたらとか、足もとに注意していたらとか、その日に限って違う道を歩いていたとか。よくソレを運命って言うけどさ、それっておかしくないかな? 逆に言えば、ソレさえなければ運命じゃなくなっていた。ってことじゃん?」
智樹の言葉を聞きながら、久美は恐ろしい、と思った。内容がではない。その饒舌さが、だ。まるで、映画やなんかで自殺をする人間を見ているようだった。
「そして更に逆に言えば、ソレをすれば、ソレは運命になるんだよね」
――この数日、ずっとそんな意味のないことばっかり考えていたよ。
智樹は笑う。
久美はいつ智樹に向かって踏み出すべきかを窺っていた。
彼の後ろにあるボロくさい柵はその機能を果たさないだろうし、彼がそんな事をするとは思いたくない。けれども、もう願いを叶えられない以上、自分でどうにかするしかない。
あらゆる可能性を考えて、でもやっぱり浮かんでくるのは、とりあえず彼に近づこうという事だった。
「姉さんに会ったんなら、知ってるかもしれないけどさ。俺の姉さんて、この屋上から落ちたんだ」
「……それは、知らなかった」
久美は近寄っていた歩みを止める。
「そっか。そうだよね、あの頃の中岡さんはそんなニュースを気にしている余裕もなかったのかもしれないし。まあ、何はともあれそういう事。ここは俺の尊敬する姉さんが死んだ場所だから、俺が死ぬにはいい場所なんだよ、多分」
「簡単に、死ぬとか言うな……」
泣きそうになってしまう。まるで彼は、死ぬ事が決まったかのように話す。自分は少しでも頑張ろうとしているのに、むなしくなるじゃないか。
「中岡さんはよく『死んでしまえ』って言ってるけどね。一時期、それを聞いた男子の中でも流行ってたりしてたけどさ。あのツッコミはあんまり良くないかもね。ちょっとギョッとするもん。せっかく可愛いんだから、もっと気をつけないと」
ハハハ。と智樹が笑った、
――瞬間だった。
冷たく強い風が、一瞬だけ屋上を襲った。決して何かを持ち上げるほどの力ではない。ただ、人が一人、ちょっと揺らぐ程度のものだ。それも、足腰があまり強くない、あるいは疲労している女子が。
ぐらりと揺れた身体を支えるために、久美の右足が自然と横に出る。踏み出した先には鉄パイプがあり、けれども寒さで一瞬固まった体は反応が鈍く、そのまま鉄パイプを踏みこんでしまう。
危ない、と思う事すらできなかった。
転ばないように出した左足は高低差でガクンと膝が曲がり、次いで続いてきた右足も意味はない。それどころか、下にある痛そうな鉄クズを避けるために本能がグッと足を踏みこんでしまった。
全てがスローモーション。
手すりにぶつかる! と思った時には、手すりは簡単に折れ、勢いこそ消えたものの倒れるはずだった体はそのまま何もない空間に――
「……間一髪」
反射的に伸ばした手は、運命だろうか。落ちていたはずの久美の体は、まるで映画のワンシーンのように、智樹に掴まれていた。
しかし、喜んでいる暇なんかなかった。
智樹の体はもう屋上から半分以上突き出ていた。片手でボロボロの手すりを掴み、もう一方で久美の手を握っている。
「落ち着いて……るなぁ。パニックにならないのはありがたいけど、さ」
苦しそうな表情で、智樹が何かを言っている。しかし久美の耳には入らない。
死。というものが頭を支配していた。
意味が分からない。死ぬのは彼であって自分ではないはずだ。という思考が、この状況を現実味のないものにしていた。
「とりあえず、下は見ない方がいいぜ? 俺今、めっちゃ怖いから」
下なんか、見れるわけがなかった。吹いてくる風が異様に冷たくって、手が痛くなってくる。
「キシシシシ」
悪魔の笑いが聞こえて、ようやく久美の頭が覚める。
「どういう、こと?」
思わず呟く。視線の先には、苦しそうな表情で久美を引き上げようとしている智樹しか映らない。しかし、どこかで見ているはずの悪魔は、楽しそうに言った。
「どうもこうも、こういうことさ。秋島智樹は、今日死ぬ。――そして中岡久美も、今日死ぬ」
それだけの事だ。と続け、キシシと笑う。
失意や失望といった感情は湧かなかった。本当に意味が分からなくて、ただ茫然とするしかなかった。
「あんた今日、心の中で言ったろ? 取り憑くなら手っ取り早い方がいいに決まってる、って。もちろん悪魔だってそうするさ。だから、俺はあんたを選んだんだからな」
キシシシシ! という笑い声だけが、いやに響く。
「……死神」
「正解! こんな状況でも考えられるあんたって、マジですげーよ。死神が取り憑いた瞬間、あんたに接触させてもらったぜ? 悪魔は死神に不干渉、死神だって悪魔に不干渉だからな。おかげでいい具合に、俺一匹だけがあんたに取り憑いているみたいに振る舞えた。キシシシシ」
「でも、私、死ぬ夢なんか見てない」
「そりゃそうだ。なんてったって、俺がいるんだからな。そんな夢見られたら、俺の営業妨害で死神訴えちまうぜ。神様にさ」
その声色は、普段話している時と何の変わりもなかった。楽しそうで、ちょっと人をバカにするようで、親しみをこめているような声。それなのに、それがこんなにも残酷に聞こえるなんて、久美は思いもよらなかった。
「最、低」
「おいおい、そりゃ悪魔には最高の褒め言葉だぜ? ちなみにネタばらしするとな、この秋島智樹はあんたを助けて死ぬ夢ばっかり見ていたんだろうな。多分だけど、色んなシチュエーションがあったんじゃね? 全部自分が死ぬヤツだ。その中で、一番あんたが助かりそうな場所としてここを選んだんだろうなぁ。あんたにも死神憑いてるのにな。まあ、今となってはどうでもいいけどよ。好きな人のために死ぬしかできないなんて、可哀想だよなぁ」
「友恵さんが私に、話しかけてきたのも、あんたの狙いどおりってわけ?」
手が痛い。腕がちぎれそうだ。けれども、これだけは確認しておきたかった。自分が悪魔と話しているなんて知らない智樹は「黙ってろ!」なんて必死な声を出している。それがまた、愛おしい。
「いんや、あれは偶然。死神の存在を知られたくない俺としては滅茶苦茶焦ったぜ。しかも、願いを三つ叶え終わってないのに、あんたを死神の憑いた人間と接触させようとするしな」
「そっか……」
あれは、こいつの狙った事じゃなかった。それだけで、少しだけ救われた気がした。秋島友恵までを利用したというのなら、本当にこの悪魔を嫌いそうになったから。
そう。ここにいたってまだ、久美はこの悪魔が嫌いではなかったのだ。
ここ数日で、自分の考えは色々と変わった。すっごく不安定で、些細な事だけど。でも間違いなく楽しかったと呼べる日々だった。そんな日々を作ってくれたヤツを嫌いたくなんかないし、何より、それは楽しんでいた自分に失礼だから。
「四つ目のお願い。魂はあげるんだから、秋島くんだけでも助けてよ」
「四つ目なんかねーよ。何度もチャンスがあると思うな」
だろうね。あんたはそう言うと思ったわよ。
久美はおかしくなって、笑って、自分から、手を離した。
彼の叫ぶ声が聞こえて、その後追いかけるようにして、彼まで飛び降りてきて、手を出してくる。けれども久美はそれを掴まなかった。自分が先に落ちれば、彼は気持ち悪い何かの上に落ちて、少しでも助かる可能性があるかもしれないじゃないか。
「バカだなぁ」
無機質な、悪魔の声が聞こえた。
――だからその一瞬に、何が起こったのか、久美には理解できなかった。
死ぬと思った瞬間、自分の体はさっきの屋上に叩きつけられていて。したたかに打ちつけた尻を撫でていると、キシシシシという笑い声が聞こえた。
顔を上げ、状況を一瞬で理解した。
大きすぎる一瞬の、逆転。
「ああ……」
なんてバカなんだろう。ありえないほどに、バカなヤツが目の前にいた。
「キシシシシ。失礼なヤツだなあ、あんたってばよ」
悪魔は笑った。保健室とか、歯科検診ポスターとかでよく見かける、悪戯そうな悪魔。けれども今は黒い触手のような角が、粉となって消えていた。それは留まる気配はなく、どんどんと悪魔の面積を侵食していく。
「すべて、予定通りだったんだよなぁ。死神が取り憑いたばっかの気に入ったヤツに取り憑いて、死ぬ前に三つの願いを叶えさせた。まさに理想の展開だったぜ。まあ、あの時一瞬だけあんたの笑顔を思い出したのが運のツキだな。もしくは、あんたを救いたいというのが俺の根源的な何かなのかもな。キシシ」
「なんで……」
全てが分かってしまって、涙が止まらなかった。
自分は助かった。秋島智樹も、悪魔の向こう側で眠っている。私たちは助かったのだ。でも、もちろん願いなんか残っていなかった。
だけど、それでも、このバカな悪魔は……。
「キシシシシ。悪魔が人間を救いたいと思って何が悪い? 俺があんたを変えたなら、あんたも俺を変えたって事だろう。それだけだ。んで、『それだけ』っていう理由がちゃんとあるじゃねえか。全部、あんたの受け売りだけどな」
キシシシシ! と悪魔は笑う。久美はその笑顔に、顔をそむけそうになる。
「なんで……」
なんと声をかけたらいいのかわからなかった。
怒るべきなのか、悲しむべきなのか、自分がどうしていいいのかわからず、ただ涙だけが溢れてきていた。
「俺は俺のしたいことをしただけだ! てめえが泣くな! 誇れ、笑え! 理由はないが、そっちの方がよっぽど人生楽しそうだ! キシシシシシシシ!」
理由も別れも、コイツらしい。
悪魔の声に、久美は必死に笑顔を作った。
クシャクシャに顔を歪めて、目から涙を流して。
それでも、笑った。笑って別れるのが一番だと思ったから。
感謝なんて告げてやらないのだ。言ってしまうと、本当に終わってしまいそうな気がしたから。
砂塵は空へと流れていく。気まぐれな風が、命を運んでいった。
エピローグ
非日常があったところで結局続くのは日常であって、自分にしか見えない悪魔を失ったところで、日常が変わることはなかった。
いや、正確には、変わった日常が日常になった、とでも言うのだろうか。まだあれから一ヶ月しか経っていないが、あの頃を思い出すと、何でもかんでも、なんだかんだで変化しているのだと気づく。
秋島智樹が訪れるのを待ちながら、久美は腕時計を睨んでいた。
十分の遅刻である。付き合ってみて分かったのだが、彼は時間にだけは疎いらしい。
「ごめん、ちょっと電車が」
「電車は渋滞しないわ」
お決まりの言い訳をシャットアウト。「違うんだよ……電車が混んでたんだよ」とか言う声も続いたが、混んだところで電車は遅れない。
「もういいから、行きましょう」
呆れ半分、楽しみ半分で久美は智樹の腕を取った。恥ずかしそうにする彼を見ながら、一ヶ月前には絶対に出来なかっただろうなぁなんて思って、苦笑してしまう。
「今日はね、買って欲しいものがあるわけよ」
「えー……いきなり貢げ発言?」
「智樹が言ったんでしょ。何でもしてくれるって」
一ヶ月前の屋上。助かった事を知った智樹は、興奮して色々な事を言った。告白とか、もう何が何でもいい、みたいな事を。
「まあ、別にいいけどさぁ。バッグとかあんま高いの勘弁ねー。バイト代入ったばっかりだから」
「ペットだから大丈夫」
「絶対高いよねそれ!?」
あの悪魔のおかげで、自分たちは今、幸せに暮らせている。
結局、お金は二人で出しあった。「全て計画通り」と小さく呟いた久美の声に、財布を撫でて安心していた智樹は気づかなかったが。
「でもさー、そんなん買ってどうするわけ? そいつだけ、変な笑い声あげてたし、不細工だし。なんつーか、変なインコだなぁ。」
「それ褒め言葉だから」
久美は言って、鳥かごに入ったインコを指で撫でた。
「ね、アクマ」
「キシシシシ!」
「凄い名前つけるなぁ……」
智樹の声に久美は微笑して答える。
これが本当にあの悪魔の生まれ変わりかなんか知らないし、魂の回収途中だった悪魔が何になるのかなんて知らない。
それでも、このインコを見たとき、何だか惹かれたのだ。
理由なんか、それで十分だ。
「ねえ、智樹」
「うん?」
「私、智樹のこと好きだよ。それだけで、死んでも守れるくらい」
突然の言葉に照れまくる智樹。
「キシシシシ!」
不細工なインコの笑い声が、街に響いていた。