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「あら、レク。またそんな難しい本読んでるの?」
後ろから突然声をかけられて、レクシオが顔を上げると、そこにはいつものように笑みを浮かべている母の姿があった。彼はそれを見て、深緑の装丁の分厚い本を閉じながらうなずく。その表情は若干引きつっており、盗み食いがばれた子供のようである。そして、あながち間違った比喩でもない。
彼が持っている本は元々父、ヴィントのもので、その父が出かけているのをいいことに無断で開いているのだが、母にそれを咎める様子はないようだった。
「わたしもそれ、このまえお父さんに内緒で読んでみたんだけど、さっぱり意味が分からなかったんだよ。すごいねえ、レクは」
と思ったら、母も同じことをしたことがあるらしかった。ここでようやくレクシオは笑い、誇らしげに答える。
「うん。あのね、秘術のことがいっぱいかいてあるんだ!」
すると母は驚き、続いて頬をふくらませた。
「秘術? それならわたしにも分かっていいはずなんだけどなー。おっかしいなー」
『秘術』というのは、デルタ一族にのみ伝わる特殊な魔導術のことであり、母もまたデルタの人間である。当時、エルデ家当主の息子であったヴィントのもとにわざわざ嫁いできたという。
「むむ、母さんは父さんと違って頭悪いからなあ……仕方ないかなあ……でもなんか納得いかないなあ」
そんなことを言いながらむうむううなる母。彼女を見たレクシオは首をかしげ、直球の質問を投げつける。
「母さんと父さんは、“ライバル”なの?」
「――いつの間に、どこで覚えてきたの? そんな言葉」
レクシオの言葉に、母は少し顔をしかめた。もちろん、どうしてそんな態度をとっているかレクシオには分からない。幼い彼の心に不安がわだかまり、気付けば訊いていた。
「言っちゃいけないことだった?」
そういう言葉もあるんだから、気をつけろよ。常々ヴィントにそんなことを言われて育ってきた彼にとってはそういう認識になるのは自然なことだった。しかし一方でびっくりしたらしい母は、慌てて手を振る。まさかそんな切り返しだとは思っていなかったのだろう。
「ああ、いや、そういう意味じゃないんだよ? ただ、うん、教えた覚えないよなあって」
まあ、これだけ本読んでるんだから、その中から言葉を覚えても不思議はないか。そんなふうに呟きながら頭をかく母の姿を見て、レクシオは再び首をかしげるのだった。
「さてっ! 換気もそろそろ終わりにしますか」
場の空気を変えようと考えたのか、母は突然そんなことを言う。
唐突すぎではあるが、別に不自然な言動ではない。何分か前から『換気』と称してこの居間の窓を開け放っていたのだ。今は冬の真っただ中なので、冷たい風が容赦なく家の中を通り抜けていっていた。
無駄に張り切る母を見ながら――再び風が流れてきたタイミングで、レクシオはまた首をかしげた。それから、鼻をすんすんと動かす。
「……ねえ、母さん。なんかこげくさいよ」
自分が感じていた違和感の正体を突き止めたレクシオはそんなふうに言う。母は一度「え?」と言ったが、すぐに気付いたようで、訝しげな顔をして窓の方に歩み寄ろうとした。が、そのとき――家の扉が、突如けたたましい音を立てて開かれた。
親子二人が驚いて振り向くと、そこには息を切らせた一人の男が立っている。レクシオも何度か話したことがある、近所に住む若い男だ。
「グランツさん? どうかしたの?」
彼のただならぬ様子に不信感を覚えたらしい母が訊く。すると男、グランツはものすごい形相で言ってきた。
「ヴィントはいないのか、奥さんや?」
「……? え、ええ。一時間前に出ていったきりだけど」
戸惑ったように母が答えると、彼は叫ぶようにして言った。
「そうか。くそ……仕方ねえ、あんたらだけでも逃げてくれ!!」
相手がいきなりそんなことを言い出すものだから、母だけでなくレクシオも戸惑い、思わず訊いていた。
「にげるって、なにか、あったの?」
子供が不安げに問いかけたからだろうか。グランツは答えるのをためらっていたが、やがて苦しげな顔をしてこう言った。
「軍人が――いつも来ている奴らが、町に火を放ちやがったんだ」
途端、母の顔がこわばった。しかし彼女はそれを隠すようにしてレクシオの名を呼び、彼をそっと抱き寄せてくる。グランツの言葉は続いた。
「しかも奴ら、見かけたデルタの人間を片っ端から殺してやがる。……殲滅、ってやつだろうな。最近は俺らと帝国の仲も悪かったし」
彼が物静かに締めくくると、母は真剣な顔をして「分かった。教えてくれてありがとう」と言うやいなや、レクシオの手を握ってこう続けた。
「万が一のこともあるし、裏口から逃げましょう。グランツさん、あなたも一緒に」
最後の台詞にグランツはたいそう驚いているようだった。
彼は一人暮らしのデルタである。当然母はそのことを見抜いて、この誘いをかけたのだ。ためらいを見せていた彼もその気づかいに気付いたのか、深く頭を下げた。
「かたじけない」
そして、そう言った。
そう言い終えた彼の首が――突如、赤い液体をまきちらして、飛んだ。
「――え?」
呆けたようなその叫びは、間違いなくレクシオのものである。突然のことに悲鳴を上げることすら忘れて唖然としている彼らの前に現れたのは、帝国軍の制服を着た男たちだった。
「いたぞ、殺せ!」
親子の姿を認めた瞬間に、男のうちの一人がそんなことを言う。
未だ状況がのみこみ切れておらず混乱しているレクシオを母はすばやく背にかばい、一瞬で息を吸って言葉を吐き出した。
「ヴィン・ストーシュ」
すると軍人たちの周りにだけ鋭い風が吹き荒れ、彼らを撹乱した。
「く、くそ!」
「この女も魔導士か!」
魔導術を発動する際、基本的には“呪文”のようなものを用いることはしない。しかし、世の中何にでも例外というのはつきものである。その例外のうちのひとつが、『秘術』であった。暴走したとき、あるいはレクシオの父ヴィントのような規格外の魔導士が使うときは呪文など必要とはしないのだが、それ以外の場合にはきちんと唱えないと、秘術は発動してくれない。
ただし一方で、きちんと手順を踏んで発動した秘術はとても心強い武器となる。風によって軍人たちが惑っている間に、母はレクシオの手を素早く引いてきた。
「今のうちに行きましょう! 早く!」
「う、うん」
レクシオはどうにか返事をして裏口に向かおうとするが――その最中に、見た。家の壁にひびが入るのを。
嫌な予感、というやつを彼が感じた頃に『それ』は起きた。
家のすぐ隣で突如として爆発が起き、それによりその家――つまりレクシオたちが暮らしていたその家が、一瞬にして吹き飛んだのである。
「うわあっ!?」
「ぐっ……!」
轟音と共にまき散らされるのは、火の粉と家の破片。それから自分らを守るために母は素早く障壁を展開し、それがおさまるのを待った。
そして、少し経ってから周囲を包む煙も薄くなってきた頃。母は再び、レクシオの背中に手をやった。
「さあ、行きましょう」
「う、ん」
レクシオは返事をした。そして返事をすると同時に、全身を寒気が駆け巡るのを感じた。
風によって吹き飛ばされていた軍人が、こちらに近づいてくることに気付いたせいである。複数の黒い影が放つ明確な殺気は、明らかに自分たちを狙っていた。これに気付いたレクシオは、大声で叫ぶ。
「母さん、うしろ!!」
母はその声に反応し、振り返った。そうして自らも軍人の存在に気付くと、そして彼らが持っている武器に気付くと、自分の驚きをそっちのけでレクシオに覆いかぶさってきた。
次の瞬間、家の中に光が満ちると同時に、鮮血が周囲に飛び散った。
「ぎゃあっ!!」
叫んだレクシオは咄嗟に目を覆った。彼が自分の身体に付着する赤い液体に気付いたのは、その直後だ。
「え……?」
恐る恐る目を見開いたレクシオは、信じられない物を見た。母が頭から血を流している。そして、目を見開いたままの状態で固まっている。これが何を意味するのかレクシオには理解できなかったし、理解しようともしていなかった。ただ、この現状が受け入れられない彼は、慌てて母の身体の下から這い出した。
「かあさ――」
這い出してから、母さん、と呼ぼうとして彼は固まってしまった。母の身に何が起こっているのか、分からなかったのである。
見れば、背中にざっくりと大きな赤い線ができており、そこからまた血液が染み出している。さらにその赤い線の中から、何か細いものが多く顔を出していた。これが筋肉や内臓の類だと理解するのは、彼がもう少し歳を重ねた後であった。
信じられないものを見て呆然としていたレクシオだったが、軍人の下卑た声で我に返る。
「おやおや、おまえの大事なおかあさんは死んじゃったかな?」
狂気しか感じられない声音に、レクシオは大きく震えた。すると、謎の武器――剣のような形状をしてるが、あまり切れなさそうだ――を手にゆっくりと近づいてくる。
「安心しな、坊主。おまえもすぐにおかあさんの後を追わせてやるからよ」
「……ひっ!」
高い悲鳴を上げて後ずさったレクシオだったが、それ以上何もできなかった。身体がこわばり、ガチガチと震え、まったく動かなかった。そうしているうちにも軍人は近づいてきており、剣のような武器は光を帯びている。そして。
「さあ、死ね」
軍人の一人が湿った声でそう呼び掛けてくる――と、同時に、彼らの前を一陣の風が通り過ぎた。その風は、ぽかんとして固まる軍人の鼻先をかすめると、その顔に一文字の傷をつくった。
「う、うわあ!?」
再び彼らに動揺が走る。一方のレクシオは、風が吹いた直後に現れた人影を見て、すぐさま風の正体に気付いていた。
「と、う、さん……?」
涙声で呼びかけてみたものの、返事は無い。
そのときの父、ヴィント・エルデは全身に殺気をたぎらせて敵の集団を見据えていた。当然敵はいきなり何が起こったのかと混乱し、それでもどうにか目の前の男が殲滅の対象であると認識すると、それぞれに武器を構えた。
「こいつもデルタ族か!」
「殺してしまえ!」
きっと彼らが幾度となく吐いたであろう台詞を、また声高に叫ぶ。レクシオは大きく震えあがったが、対するヴィントは落ち着き払っていた。ただし、かなり怒っていた。
「貴様ら……今までここで、何人死なせてきた? 敵味方、すべてひっくるめて」
いつもの低い声でそう言った。彼にしては長い台詞だった。軍人たちはいきなりそんなことを問いかけられ、少しだけ戸惑った様子を見せる。その間にもヴィントの言葉は続いた。
「その死はすべて、貴様らのあらゆる意味での愚かさが引き起こしたものだ」
『愚か』という言葉を使われ、気分を害さないわけがない。むろん、軍人たちはそれぞれ表情に怒りをたぎらせ、武器を構え、いつでも攻撃できるような体勢になった。これを見て、ヴィントはおもむろに手をあげる。
「そのひとつが――相手の強さを見極めようとしないことだ!」
珍しく叫ぶように言った彼は、その手をすばやく振り下ろした。すると辺り広がっていた火の中からいくつもの火の玉が現れ、まるで生き物のように暴れまわりながら軍人たちの身体を次々と焼いていくではないか。阿鼻叫喚の有様を、レクシオは呆然として見ているしかなかった。
それが、一分くらい続いた後。そこにはもう、生きた人間はヴィントとレクシオしかいなかった。軍人たちはすべて息絶えていた。焼け死ぬ、とはこういうことを言うのかと、少年は思った。それから、冷然として立つヴィントの背中を見る。辺りではごうごうと音を立てて火の手が上がり街を破壊し、熱を放っているというのに、男が立つ空間だけは切り取られたかのように冷たい。 レクシオは思わずぼんやりとその姿をながめてしまった。
彼は、まるで図ったかのように素早く振り返ると、少しだけ悲しげな顔をして言った。
「すまなかった」
「…………え?」
レクシオが呆けたような声を返すと、彼は足元のひとつの亡骸に目を落として続ける。
「間に合わなかった。俺がもっと早く来ていれば、こんなことにならずに済んだ」
淡々と紡がれる言葉。それを聞いて、レクシオはようやく真の意味で我に返った。
「あ――」
理解、してしまったのだ。自分の母が、もうこの世にいないことを。レクシオはうつむくと、固く、固く拳をにぎった。
しかし感傷にひたっている暇はない。すぐに大量の足音がこちらに近づいてくるのを聞いた。先程の軍人たちの悲鳴を聞きつけた増援か何かだろう。少なくともヴィントはそう判断したらしく、音を聞いた瞬間にレクシオを抱き上げると、いつもの冷たい、だが優しい声音でささやいた。
「逃げるぞ」
彼は、黙って首を縦に振ることしかできなかった。




