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この季節らしいお話でも

作者: 紫陽花畑

 雨が降る、さらさらさらさらと雨が降る。

 日の光を拒む垂れこめた暗雲の下、叩きつけるように、流れ落ちるように、雨が降る。

 電車の窓ガラスごしから聞こえてくる荒々しい雨音に耳を澄ませ、うつろと船をこいでいた私は、背中に張り付くような様から徐々にに冷えてきた汗の冷たさに思わず身震いした。

 一瞬と意識を持つと、身を預けた窓枠の金具の冷たさが半身に感じられ、それまでしつこいくらいに頭の中に居座っていた頑固な眠気がさわりさわりと波が引くように退散していく。

 眠気の失せた頭を窓から離し、大きな欠伸を漏らす。

 ぼんやりとした意識の内、くすくすとくすぐるような笑い声を聞き、私はぎょっとしてボックスの対面に目を向けた。

 先までは、もとい、眠りにつくまでは空席であったはずのボックス席の対面に女性が一人座っていた。

 この暑い時節であるというのにクリーム色のワンピースに薄手のチョッキを羽織ったその女性は、こちらと目が合うと口元を押さえていた手でそのまま両頬を包み、気まずげに眉を寄せた。

「あの、ごめんなさい。あんまり気持ちよさそうな欠伸をするものだから」

「いえ……」突然の事態に混乱する私にできた返事はこんなものであった。

 恥ずかしそうに俯きこちらから視線を外す女性の姿を見るでなしに眺めると、この女性が存外に年若い容貌をしていることに気付いた。アンチエイジングだとかなんだと見た目の年齢を誤魔化す要素といえばこの時勢事欠くことはないが、それをおしてみてもこの女性は体つきといい顔つきといい、どうもつくりが幼い感じがする。私自身と比較しても二回り三回り小柄な体格に、労働や夏の日差しなど知らぬといわんばかりの真っ白でほっそりとした手腕、背中まで届くような長髪、幼い、というより現実離れをしているといったほうが良いかもしれない。地に足がついていない感じだ。少なくとも特殊な趣味でもない社会人がこのようななりで電車に乗っているとは思えなかった。

 女性が顔をあげるタイミングにあわせ、私は視線を車窓の外に自然とそらし、彼女の観察を中断した。

 自己嫌悪の苦い気分が心中に湧く、他人を、まして異性をじろじろと眺めるのはいかにいっても下品で失礼な行為だ。謝罪の言葉も浮かんだが、やめた。初対面の相手にそんなわけのわからないことで話しかけられても彼女は混乱するだけだろう。

 つらつらと非生産的な考えをもてあそんでいると、ふと彼女がじいっとこちらに視線を送ってきているのに気付いた。

 窓の外に視線を向けたまま、しばらく知らぬふりをしていたが、トンネルに入っているのかひたすらに暗闇ばかりが続く窓を眺め続けることに限界を感じ、ごく自然を装い視線を正面に流し、女性と視線を合わせる。

「……どうかしましたか?」我ながら白々しくも、よくできた演技であったと思う。

 女性の側は見ていて気の毒になるほど慌てた様子で音にならない声で口をぱくぱくと動かしていたが、やがてチョッキのポケットをごそごそと探り、白いレースのハンカチを取り出し私の方にさしだしてきた。

「あの、汗、大丈夫ですか?」

 いわれ、自分の頬を撫でる。ひんやりとした水滴が顔中に湧いていた。

 顔だけではない。体中が服を着たまま水浴びをしたような酷い有様だ。

「うお、なんじゃこりゃ」

「松田優作ですか」

 思わずつぶやいた言葉に間髪置かれず返された女性の言葉に、我知らず「はぁ……?」と妙な声がもれた。

 松田優作、という人名らしきワードと現状とが私の頭の中でマッチするまで少し時間がかかった。

「ええと、太陽にほえろ、でしたっけ?」

「あ、うう、そうです」

 いよいよもって心底にかわいそうになるくらいに取り乱した様子でしどろもどろに頷く女性に、「だからなんだってんだ」という内心のツッコミを飲み込みながら私は座席の脇に置いていたリュックからハンドタオルを取り出す顔と体を拭った。

「汗臭くてすみませんね。自前の布があるので大丈夫ですよ」

「そう、ですか」

 しゅんとしおれてハンカチをしまう女性の姿はなんとも罪悪感をあおられるものであったが、この汗みどろを初対面の女性に借りたハンカチで拭う根性も甲斐性も、私は持ち合わせていない、ので、空気を払拭するように努めて明るい声を作り「暑いですね」と当たり障りのない言葉を投げてみた。

 言われ、女性は言葉を探すように間を置きやがて「そうですね」と頷き返した。

 ―――しまったな。

 会話が続かない。きまずい沈黙。互いの顔が引きつるのが分かった。

 電車で居眠りしていただけなのにどうしてこんなことになっているのだろうか。

「少し、お話しませんか」

 沈黙のうち、先に口火を切ったのは意外なことに女性の方だった。

「お話ですか」おうむ返しの言葉に女性は首肯した。

「袖擦り合うも多生の縁といいますし」

 おかしなことを言う女性だと思った。表にはださないものの、それを見た目の奇もあわせ、やはり、という思いも。

 しかし反面、そんな彼女が何を話すのかという興味もあった。元来、荒唐無稽理路整然の清濁を問わず人の話を聞くのが好きな性分であったから、これもその興味を後押ししたのであろう。

 だから、「どんなお話ですか」という言葉は、自分でも驚くほどにするりと口先から抜けて出た。

「この路線にまつわる話です」

「……というと、それは怪談の類?」

 女性が頷き返すのを見、なるほどおあつらえ向きだと私は笑った。

「それはいい。納涼ですね」

「風物詩、ですね」

 女性と顔を合わせ笑い合う。初対面の男女の会話としては些かに馴れ馴れしいが、不思議と嫌味は感じなかった。

「しかし、この路線にまつわるという話でしたが、出るんですか? ここ」

「私も人伝に聞いた話なのですが、そうらしいですね」

「いいですね。もう寒気がしてきた」

 冗談めかして身を震わせると女性は口元をおさえ、くすくすと上品に笑いをもらした。

 幽霊が出るのだと、彼女は語り初めにそう言葉を置いた。

 幽霊といっても特定の誰かというわけではなく、話の趣旨としては、この路線に乗っていると、度々この世ならざるものと出会う人間がいるという話であるらしい。

「ここで出会う彼や彼女は、見た目には普通の人間なのですが、それと分かるほどに雰囲気が違うそうです」

「雰囲気、ですか」

 ―――それはまた曖昧な。

 胡散臭い、と、そう思った。そもそも怪談といってもこれでは怖がる部分がないではないか。

 落胆が顔に出ていたのか、女性が困ったように弱弱しい笑みを浮かべた。

「それに出会って帰ってくる人もいれば、帰ってこない人もいるそうです。帰ってこれた人が語る幽霊らしき存在は、戦時の兵士のような恰好をしていたり、なんてこともない普通のサラリーマンの恰好をしていたりするそうです。見た目で分かる相手もいれば、見ただけでは普通の人と変わらない人もいる。けれど、皆一様に独特の、おかしな雰囲気をもっているそうです。死臭、をもっと感覚的にしたようなものだといわれていますね」

「これは死んだ人間だ、と。そうと分かるような?」

「そう、ですね。そんな風にいわれています」

 怪談、という意味での面白味はともかく、死んだ人間の雰囲気というものには興味がそそられた。

「心霊現象の当事者になるのは勘弁被りたいですけど、その雰囲気というものについては気になりますね」

 率直な感想を返すと、女性は何かおかしなものを見るような目で私を見た。

 別段、この会話の結びとしてはおかしな返しではなかったと思うのだが……

 なんと言葉を接いだものか、思案していると、遠慮がちに女性が口を開いた。

「……あなたが、幽霊だったりしませんよね」

 その言葉を聞き、なるほどと納得した。

「匂いますか?」

「汗の匂いが少し」

「こちらはシャンプーの匂いです」

 後の祭り、とはいうが言ってから、お互い顔を赤くする。向こうにしてみれば無遠慮な言い様であっただろうし、こちらに至ってはセクハラ発言そのものだ。

 いたたまれない沈黙が両者の間に流れる。

「しかしなんですね、こういうなんてことない怪談もいざ現場のことと思えば怖さが増しますね」

 しどろもどろに、取り繕って出たのはこんな言葉であった。

 赤い顔のままこくこくと頷く女性を横目に、私はリュックを引き寄せるとゆっくりと立ち上がった。

「少しトイレに行ってきます」

「い、いってらっしゃい?」

 自分の発言に自分で疑問符を浮かべるという器用なマネをしている女性に会釈をし、私はボックス席を立ち先頭車両の方向に歩き始めた。

「―――そういえば」

 ふと、そう口にしていた。

「今日は何日でしたっけ」

「え?」

「いや、やっぱりいいです。すみません」

 メモ帳か、携帯電話か、チョッキのポケットを慌てて探ろうとする女性の姿を一瞥してから、私はまた歩き出した。

 雨が降っていた、さらさらさらさらと雨が降っていた。

 日の光を拒む垂れこめた暗雲の下、叩きつけるように、流れ落ちるように、雨が降っていた。

 いつの間にか止んでいた雨音に思いをはせながら、私は大きく息をついた。


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