08青空が沈む
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「小毬、今日は何作ってるの?」
夜も更けた頃、キッチンに立って作業をする私にお母さんが顔を覗かせる。その視線の先には、丁度さっき焼き上がったタイル柄のクッキーが並んでいた。
「あら、おいしそう。美紅ちゃんに?」
「うん」
まだ温かいそれを、ひとつ手にしてお母さんがぱくりと口に含んで頬を緩ませる。「ん、美味しい」
その言葉に、私もひとつ口の中に放り込む。ちょっとバターが多かったかも、と心配していたけどそんなに甘くない。これならきっと蒼太も食べられるだろう。
キッチンはクッキーの美味しそうなニオイで包まれていた。
「美紅ちゃんと蒼太くんは本当にいい子よねー……」
お母さんがダイニングテーブルに腰掛けて呟く。手には二枚のクッキー。天井を見るようなそぶりで、きっとふたりを思い出しているのだろう。
家が近い上に昔からよく遊びに来ていたふたりはおかあさんにとって第二の子供のように感じているのかも知れない。
「そうだね」
簡単に片付けを済ませてから、お母さんの正面に腰を下ろして同意を口にした。
妹の送り迎えをする蒼太。そんな蒼太の言うことはちゃんと聞くしっかりした美紅ちゃん。ふたりは近所でも評判の『いい子で仲よしの兄妹』だ。私だって、そう思っている。
「急に美紅ちゃんが出来たときはびっくりしたけどねー奥さんの姿見えないと思ったら、そういう事だったのよねー。確かに体調悪いとむやみに妊娠しました、なんて言えないしね」
そうだね、と小さく返事をしながらふたりの姿を思い浮かべる。
蒼太と十歳も年が離れている美紅ちゃん。私にそんな年の離れた兄妹ができたらちょっとびっくりするだろう。
そのとき、蒼太はどう思ったのだろう。今でこそ、大事な妹だけれど。
「だけど、美紅ちゃんが出来てから蒼太くんもいい子になったし。お兄ちゃんの力って偉大よねー」
「あの頃の蒼太は悪餓鬼だったもんねー」
優しい所は変わらなかったけれど、当時は今に比べると無茶も多かった。中学時代、煙草吸っていたことだって近所では有名な話だ。蓮と一緒に学校をサボってゲームセンターに入り浸っていたり。誰かとケンカして顔にいくつも痣を作っていたこともある。
それがぱたりとなくなったのは……一年ちょっと前。高校生にあがるまえのことだ。なにも知らなかったら、たしかに美紅ちゃんが蒼太を変えたと思うだろう。
いや、実際その通りか。
「あそこの奥さんと旦那さんも仲いいわよねー」
「あー、……うん……」
「何してるんだー?」
お風呂から上がったお父さんがリビングに顔を出して、いい匂いに釣られるように私の元にやってきて、母と同じようにクッキーをつまむ。
「小毬のクッキーはおいしいなー。また蒼太か? あいつはいつ家に挨拶に来るんだ?」
「お父さん、蒼太のこと気に入ってるからってもう。そんなんじゃないってば」
お父さんは蒼太の優しいところを買っているのか、ことあるごとに蒼太に会いたがる。それどころか結婚の話までしてくるんだから……。実際に挨拶しに来たら動揺するくせに。
しばらくの間両親と会話を交わしてから、キッチンで程よく冷めたクッキーを丁寧に小さな箱に詰めた。
蒼太に渡すだけならどんな入れ物にしたっていいんだろうけど……。昨日大量に作って持って行ったお菓子を、蒼太は一口も食べてくれなかった。……千晴ちゃんの話で盛り上がっていたから。
今日もまた作ったら、どう思うだろう。それがばれたくなくて、美紅ちゃんにも渡すために可愛い箱にセットする。これだったら、きっと美紅ちゃんのついでだと、そう思ってくれるはず。
……この前欲しいと言っていたから、だからあげるだけ。そう言って渡せば、きっと蒼太は何も気づかないで笑顔で受け取ってくれる。
そう心の中で何度も言い聞かせて紙の箱のフタを被した。
この中に籠もった本当の気持ちなんか知らなくていい。蒼太は知らなくていい。
本当は、今日一緒に出かけるというふたりを想像すると落ち着かなかったから、ただの時間つぶしでもあったのだけれど……。
いろんな本音が絡み合って、いろんな偽りが重なって、どれが本当なのか自分でもわからなくなる。
そうやって自分を誤魔化していた。そうやって今の状況に甘えて逃げていた。
そばにいられなくなるかもしれないから。
それでもいいと思ったあの日の告白は嘘じゃないけれど、だけどそばにいればいるほど前と同じようにむくむくと気持ちが大きくなって、苦しくなるのも、本当の気持ち。
けれど……次、もう一度私が想いを告げたら……今度は突き放されるかもしれない、こうやってそばにいれなくなるかもしれない。
そう思うと、誤魔化して耐えるしかできないんだ。このまま実らないことよりも、失う恐怖の方がずっとずっと大きい。
底なしの想いと、底なしの欲望。沈んでいくだけなのは分かっているのに、もがきもせずに努力もせずに目を瞑って気付かないふり。
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「俺、千晴ちゃんと付き合うことになったんだ」
いつものように駅で会い、一緒に電車に乗った途端に、それまで少し落ち着きがなかった蒼太が、そっぽ向いたままそう口にした。
その言葉を理解するのに、しばらくかかって、窓の景色を見ていた視線を、ゆっくりと蒼太に向ける。
「……え?」
「昨日、告白されてさー」
私の方を見ることなく、ほんのりと頬が赤くなっていく蒼太。彼と反対に私は青くなっているんじゃないだろうか。目の前が真っ白に染まっていく。
蒼太が付き合うのは初めてのことじゃない。今までだってあった。だけど好きな気持ちが大きくなればなるほど衝撃は大きい。
それでも、相手が千晴ちゃんでなければ、ここまで思わなかったかもしれない。彼女でなければ……私はきっと笑って『やるじゃん』なんて口に出来ただろう。
私が一番近くにいたのに。
それだけで、だれよりも私が蒼太との関係は強いのだと思ってた。
不安は常にあった。
だけど同時に自信もあった。
付き合ったからってきっと私達の関係は変わらないって思っている。
高校に入ってから千晴ちゃんの名前を口にする蒼太に何も思わなかったわけじゃないけれど、何の接点もないふたりが、こんな風に急に付き合うなんて思ってなかったんだ。
だって相手は蒼太のことを知るはずがないと思っていた。
それは間違いだったのだとわかったのが昨日。
その事実だけで、正直心中は穏やかではなかったけれどまさかこんなことになるとは想像すらしていなかった。しかも、たった数日で。
蒼太を応援したのは私だ。
自分で蒔いた種だってこともわかっている。合コンの話を聞いても勇気づけたし、昨日の朝だって私が背中を押したのだから。
だけど。
だけど。
だけど。
こんなことになるはずがないと思っていたのに。
「おめでとー」
騒がしい思考とは正反対の表情で、へらっと笑ってそう声を掛けると、蒼太は私を見て嬉しそうに笑った。
私はちゃんと笑えているかな。蒼太みたいに笑えているかな。
「ありがとー小毬! ホントお前のおかげ!」
ぽんと肩に置かれた手は、鉛の様に重く感じた。
別に応援していたわけじゃない。
ただ、そばにいるために、幼なじみとして振る舞っていただけ。
だってそうしなくちゃ……いけないんだもの。私の今の立場では。そうすることでそばにいれるのだから。
上手く笑うことができているのか分からないけれど、目の前の蒼太は笑っているから、きっと大丈夫だ。
何を言っているのかわからないけど蒼太は目の前で嬉しそうに話をしている。
ああ、顔が痛くなってきた。顔の筋肉が破裂しそう。
何で、この“誰よりも近い幼なじみ”の立場ですら自信がなくなるんだろう。
かわいいから? 私なんかがどう逆立ちしたって勝てないと思うほどに千晴ちゃんがかわいいから? さらさらの長い髪の毛も、すらっとのびた手足も、私には持ち合わせていないから? それだけ?
「あ、そうだ小毬」
「……え?」
蒼太が急に思い出したかのように私に声を掛ける。逸らしていた視線を戻すと、蒼太は相変わらず笑ってた。
「土曜日暇? 美紅と遊園地行く約束したんだけどお前も行くだろ?」
「あ、うん」
美紅ちゃんがいるから誘ってくれているのは分かってる。
だけど美紅ちゃんと蒼太の外出に、必ずと言っていいほど私を誘ってくれるのは嬉しい。
そうだ。
彼女が出来たって、そばにいるのは私。大丈夫。大丈夫。
だって、こんなふうに私を誘ってくれる。今までと変わってない。まだ、私の名前を、呼んでくれる。
心の中で何度も呟いて笑って見せた。
「わっ」
「おわ」
がたんという音と共に揺れた車内で、蒼太の体にぶつかると、蒼太はいつものように「ほら」と腕を差し出してくれた。それが好きで、それが嬉しくて、いつも吊革を持たないことを蒼太は知らない。
「ありがと」
大丈夫だ。大丈夫。
相手が千晴ちゃんだからって何も変わらない。今までと同じだ。
ぎゅっと蒼太の服を掴んで、自分に言い聞かせる。まるで呪文のように。祈りのように。
大丈夫。大丈夫。
「あ、千晴ちゃん」
乗り換えのある大きな駅に到着して、千晴ちゃんが乗り込んでくる。私と蒼太の方を見てにこりと微笑む彼女は、女の私から見ても可愛かった。
「行ってきたら?」
「あ、おう、悪い」
私が言うと蒼太はすぐさま千晴ちゃんの元に行った。
いつも隣にいた蒼太。けれど……今は、ひとりになった電車。
けれどそれは学校の最寄り駅に着くまでだ。電車を降りたら蒼太は千晴ちゃんに手を振って別れ、そして私の隣に来てくれる。
窓から見える空は、晴れているのになぜが暗く見えた。