51屋上は青によって壊れ落ちる
その日は屋上から一歩も動くことは出来なかった。
何かを考えていたわけじゃない。なにも考える事が出来なかったから、なにも出来なかっただけの話で、気がつけば今日の授業は全て終わったのか、地上には帰ろうとする生徒達がぞろぞろと校門に向かって歩いていた。
数時間外にいたせいか、体の芯まで冷え切っているけれど、まだ家に帰ろうという気にはなれない。美紅になんて言葉をかければいいのかも、まだ分からないからかもしれない。
ぼーっと見つめていると、見覚えのある人物がひとりで校門に向かっている。
目がいい自分を恨みたくなるほど、誰だかハッキリ分かる。あれは――楓だ。
痛んだ長い髪の毛を気にすることなくなびかせて、堂々と歩いている。今日学校に来ていたんだな、と何となくほっと胸をなで下ろした。本当に出席日数が危ないだろうから。あいつの場合はきっと、無理になった時点で学校をやめてしまうだろう。
楓が何でこなくなったのか、俺は知らない。
聞こうとも思わなかった。いずれ戻って来てくれると、なんの根拠もなく思っていた。
その数分後に、智郎の姿。
大きな荷物を抱えて、今から予備校に行くんだろうか。あの荷物の中身が何かは分からないけれど……久々に見かけた智郎は、俺の知っている智郎よりもイキイキとして見えた。
……あの時、俺は何て言葉をかければよかったのか。答えは今も見つからない。
俺は本当に、智郎のことを自慢の友達だと思っていた。真面目で、頑張っていて明るくて前向きだったから。
俺はきっと、いろんな事を間違えたんだろう。
そして最後に、蓮と小毬の歩く姿を見つけて、やっとおれは、屋上にひとりになったんだと言うことを実感した。
「……付き合っていくんだな……」
誰に告げているのか分からない。だけど、言葉にすると涙が溢れて、フェンスに頭を付けながら必死に声を堪えた。叫びたくなるほどの苦しみを、必死に胸の中に抑え込んだ。
小毬は優しいから、真っ直ぐだから、きっと蓮と向き合っていくだろう。付き合って、お互いに大事な存在になるんだろう。
俺よりも。
分かっていたんだ本当は。小毬の気持ちなんか、ずっとずっと前から、分かっていた。告白された言葉を冗談にしたのは、俺だ。
それでも傍にいてくれた小毬に甘えていただけ。それが小毬を苦しませていることだってわかっていた。それでも――小毬とは一緒にいたかった。
好きだったから。
自分から手を取らず、寧ろ距離を取っていたクセに、離れることだけは避けていた。離れないように小毬に甘えていただけのこと。
だけど、そうじゃなきゃ小毬を傷つけると思ったんだ。本当なんだ。嘘じゃないんだ。正しくなかったかも知れないけど、俺なりに――小毬だけは傷つけないようにしたかったんだ。
いつも傍で、俺を守ってくれるから。
いつだって手を差しだせば握ってくれるから。
どんな関係だって、それがあるから。
だから、そのままでいなくちゃいけないと思った。
だって俺は、父さんの子供だから。
恋愛なんて絶対じゃない。いつか裏切るかも知れない、裏切られるかも知れない。今は小毬が大事でも、俺も父さんのように他の人を好きになるかも知れない。
そんなとき、一番傷つけるのは小毬だ。
だって俺はオヤジの血をひいているんだ。今、どんなに小毬を大切に思っていたって、わからないじゃないか。人の気持ちなんてどうなるかわからないじゃないか。
俺だけじゃなく、小毬だって。
信じられない自分が。信じられない女の子を。
なのに、今更認めた感情に涙が止まらなくなる。
俺は後悔しているんだろうか。小毬に向き合っていればよかったと、そう思う? だけどそうしていたところで、上手くいったかどうかもわからない。もしかしたらもっともっと辛いことになったかも知れない。
だけど全く思わない訳じゃない。
あの時、小毬に自分の不安な気持ちをぶつけていれば、隣には小毬がいたかもしれない。俺は笑ってあの手を握り返すことが出来たかもしれない。
千晴ちゃんを傷つけることもなかったかもしれない。
蓮の言葉を素直に耳に入れて、その瞬間に向き合っていれば……蓮とだって友達でいられたかもしれない。
「守りたかっただけなんだ……」
それは自分の為だった。だけど、そうあればみんなが笑ってくれるって信じていた。
歪な関係に気づきながら、誤魔化すことが、いつしかみんなの負担になっていたのかもしれない。
もっとぶつかれば良かった。ぶつからないといけなかった。一度壊してしまうとしても。歪なままでは何も変わらないんだ。もっと歪になっていくだけなんだ。
俺の気持ちを伝えることもしなかったから、俺も相手の気持ちを聞こうともしなかったから。
降り続ける雨に目を背けていただけ。
守ろうとしていた。だけどそれは逃げていただけだったんだ。
結局――何もかもをなくしただけだった。自らの手で。
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「美紅」
家に帰って、部屋で勉強する美紅に声を掛けると、美紅はほんの少し怖がったような顔をして振り返った。
中に入り、美紅の隣に腰を下ろす。
「美紅。聞きたいことがあったら、何でも話してあげる。辛いこともあるかもしれないけど、美紅が聞きたいなら、話すよ」
美紅の不安げな顔を見て、頬を撫でてから呟くと、小さく頷いた。
「だけど一つだけ、一つだけ、信じて欲しいことがあるんだ。それだけは信じて、俺の話を聞いてほしい」
不安は勝手に大きくなる。
怒りや不満はなかなか自分で消化出来ない。
だから、ちゃんと真実を。理解出来なくてもいいから。ちゃんと向き合うから。だから、何でも話して。俺も話すから。
聞かないことで、話されないことで、真実がわからないことで、疑いと悲しみが大きくならないように。俺のように。俺がしてきたことのように。
「美紅は、俺の大事な大事な、本当の妹だよ。だから、なにがあってもそれは無くならないし、なにがあっても、俺は美紅を守るよ。絶対、傍にいる」
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寒い時期が来て、春が来て、三年になった。
三年になって、俺たちは見事にみんな別々のクラスになった。蓮と小毬はまだ付き合っているらしいけれど、クラスの女子が最近一緒にいることが減ったとウワサしていた。
真実がどうなのか、今の俺にはわからないし、確かめる術もない。
受験戦争シーズンに入り、学校に足を運ぶことも減った。
俺たちの寄り付かなくなった屋上は、三年に上がって暫くして知らない学生が集まってお昼を食べていた。
かつての俺たちのように。
俺たちの失った屋上は、誰かのものになった。
「あ、雨」
屋上にいた名前の知らない女の子が、空を見上げて呟くと、周りの友達も同じように上を向く。
気がつかないほど小さな水滴は、確実に空から降っていて、目には見えないけれど俺の腕にぽつりと落ちた。
数分で雨は勢いを増すだろう。
そしたらきっと、屋上には――誰もいなくなるのだろう。