50明日の空は今日次第
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朝になっても、俺の目は真っ赤のままだった。こんなウサギの目をするのは久々過ぎて、自分で鏡を見るたびに苦笑を零すしかできない。
「蒼太、あんた徹夜でもしたの?」
リビングに行けば母さんが驚いた顔をして俺に突っ込みを入れる。その言葉に「んー」と適当な返答をして朝ご飯を口に運んだ。
しばらくして父さんが起きてきて、いつも通りに俺に「おはよう」と告げてから隣の美紅の頭に手を乗せる。
言いたいことを吐き出すだけ吐き出した。
かといって何かが変わった訳じゃなかった。父さんは何も言わなかったし、俺も何も求めなかった。求める物は何もない。あえて言うならば過去だけだ。そんな夢見がちなことを本気で思えるほど俺は子供じゃない。
昨日の台詞を、もしも当時の俺が口に出来ていたらどうなっていただろうかと思うことはある。だけどそんなことすら考えたって無意味だ。
「んじゃ、行ってくる」
時計に目をやって出かける時間を確認してから席を立って、「美紅も遅刻するなよ」と頭に手を乗せてほほえみかけた。いつもの、ように。
そんな俺に、数日間だけとはいえ会話のなかった美紅は驚いた顔をしてから「うん」と言った。
美紅に告げるかどうかは、まだ考えていない。いや、考えることが出来ない。
俺のように何かをため込んで苦しいのなら、何もかもを言って吐き出してもらった方がいいのかも知れない。だけど、それをするにはまだ幼いのではないかと思う。
真実がわからないまま、ただ悶々と不満と不安を抱いた中学時代の自分。わからないから聞くこともできなくて。だけど不信感から以前と同じようにはできなくて。
その答えは、きっとすぐには出ない。
だけど、俺にとって美紅は、俺の妹。それは絶対的なもので、それはちゃんと告げて、信じてもらいたい。だから、誰よりも大切で、いつまでも妹だと。
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「……蓮」
二限目が終わってすぐに、閉鎖された教室から逃げ出すように屋上に足を踏み入れると、ちょうど蓮が空の写真を撮っていた。
誰もいないと思っていたのに……。
俺の声に蓮は焦った様子も驚いた様子もなく、ただ振り返って俺に視線を移す。「おう」とか「よう」とか、今までだったら当たり前の声を発することもなく、ただ、俺を見るだけ。
正直、いるとは思わなかった。もう二度と、来ないだろうと思っていた。
その場を丸く、流して終わらせようとした俺が、蓮を傷つけたことはもう、わかっていたから。
思いを告げたのに、それが響かないことがどれほど辛いのか、いまなら容易く想像出来るのに……どうして俺はそんなことをしたのだろうかと後悔ばかりだ。
話しかけることも出来ずに、ただ立ちすくんでいると……カシャ、とシャッター音が響いて視線を上げる。そこには俺に向かってカメラを構えている蓮がいた。
「……お前らしくねえじゃん。笑ってないなんて」
素っ気ない口調で、だけどほんの少しだけ口端をあげて、無理矢理の笑顔を作りながら告げる蓮をみて、自分が重なる。
笑わなくていいのに、なんて口にしたくなる。
「蓮……ごめ、ん」
なにに謝ればいいのかはわからない。全部。全て。ただ、ごめん。
それしか頭に浮かばなくて、必死に涙を堪えながらつげることしかできない。
「なにそれ」
ふ、と笑ってから、視線を空に移して、蓮は口を閉じた。
暫くの間、静かな屋上に、距離を保ったまま向かい合って立ちすくむ俺らの頭上は真っ青だった。
「小毬、俺が好きじゃないこと知ってたんだってよ」
思いの外明るい声が聞こえて、顔を上げると蓮が煙草を手にしながら「バカだよな」と同意を求めるように笑う。さすがになにも言えなくて黙っていると、そのまま話を続けていく。
「何で知ったかは知らないけど、あまりに様子がおかしいから問い詰めれば、泣きながら俺に謝るんだよ。今までごめんって。なにに謝ってるんだか」
カチッとライターの火が点く音が響いて、蓮はふわりと煙草の煙を吐き出した。
「騙されて、俺と付き合って、バカみたいに素直に俺に向き合おうとして。ホントバカな女。俺に謝るなんて、バカにしてるとしか思えない。俺だったら安全だとでも思ってるんだか。同じ気持ちだったなんて、あいつにだけは言われたくなかったな」
吐き出す悪態に、口を挟むことは出来なかった。
いままでだったら「まあまあ」なんて言って落ち着かせていただろう。だけど、そんな言葉求めていないことは分かっている。本来そんな本音を口にしたくもないことだって、苦しそうな蓮の顔を見れば、わかる。
「……なんで、お前だったんだろう」
泣きそうな顔で蓮が告げる。
その言葉に俺はなにも返すことが出来ず、ただ蓮の話に耳を傾ける。
「自分でも信じられねえよ。俺がお前のことを……なんて。おかしすぎるだろ。気持ち悪いだろ。友達のフリして、ずっとそんなこと考えていたなんて」
「そんな、こと」
知らなかった。そんな風に思う程に、考えていたなんて。
いつも彼女がいて、いつも一緒にいて、そんな風に感じた事なんて俺にはない。俺にとっては、親友以外の何物でもない。同時に、真実がどうであれ、俺には……今も蓮は親友だ。
そうとしか思えない。
俺の感じた事が全てだ。
「俺も、蓮が好きだ」
「……友達として、って単語が抜けてる」
「友達として、じゃない」
真実を口にするのは辛い。
だけど、俺が真実がどうであれ、蓮に対する感情は変わらない。蓮が気持ち悪いだとか、今まで友達の振りだとか、そんな風に思っていても。そんなこと思えない。
だから、そんな風に思わないでほしいんだ。
だから、俺は隠さずに告げることしかできないんだ。
それが蓮を傷つけることになるかもしれなくても。それでもいいから、伝えたいんだ。
「友達としてじゃない。人として蓮の事が、好きだよ。――だけど……恋愛感情じゃない」
ぐっと握り拳を作って、ゴクリと唾を飲み込んでから、告げた。
好きだけど、同じ好きじゃない。だけど好きな気持ちには変わりない。この言葉がどれほど残酷な言葉なのかを俺は分かっている。
「――だから」
勇気を出して顔を上げて、蓮の顔を真っ直ぐに見つめた。
言いにくいからこそ、蓮と向き合わなくちゃいけないんだ……。それをされなかったことで俺が今まで不満だったのだから。それをしてこなかったからこそ、美紅を歪な家族に縛り付けたんだから。
「だから俺は、蓮と、これからも一緒に、いたい」
俺の言葉に、蓮は目を丸くしてから、困ったように、笑った。
「初めて聞くお前の本音が、それなんてな」
泣いているんじゃないかと思う程、震えた声で告げる蓮に、俺は何も言わずにただ蓮の答えを待つしかできない。
もしもこのまま……蓮がもう無理だとか言ったら、それこそこの関係は終わるだろう。だとすればやっぱり、口にせずに聞かなかったことにしてなかったことにしてやりすごしたほうが良かったんじゃないかと思う気持ちもある。
なにが良かったか、なんて俺は結果でしか判断できない。
「じゃあ、キスしてよ」
何て言うだろうかと、ドクドクと鳴り響く心拍音の中で待っていると、予想だにしなかった言葉に次は俺が目を丸くした。
「……え?」
「俺の気持ち、もう分かってるなら。それでも今まで通りに一緒にいたいっていうなら、それくらいしてくれたっていいんじゃねえの? 俺の気持ち理解したって事だろ? それでもっていうなら俺のためになんかしてくれたっていいじゃねえか」
いや……意味がわからないんだけど……。
言葉を紡ぎたいのに言葉が出てこないまま、口をパクパクさせた。
「はい」
俺の返事を待つこともなく、蓮は目を瞑ってほんの少し顎を突き出す。キスを受け入れる体勢で、ただ俺を待つ。俺の、口づけを。
男にキスなんて……出来るはず無い。
だけど。
蓮の事だ。出来なければ本当に、本当に、このまま離れて仕舞うだろう。
一緒にいて一番気楽だった。多分俺のことを誰よりも思ってくれている。それが恋愛感情とかいうものからのものであったとしても。それでも俺は蓮の存在に何度も助けられた。
むしゃくしゃしているといつも何かを察して俺を連れ出してくれたし、俺が笑うと蓮はいつも嬉しそうに笑っていた。
中学からずっとそうだったんだ。
いつも自然と、隣には蓮がいたんだ。
暫くの間、蓮の顔を見つめたまま考えて、やっと体に力を込めて一歩踏み出した。
キスすればいいだけだ。
そう何度も言い聞かせて、一歩ずつ蓮の元に近づいていく。目を瞑っている蓮は、どんな風に俺が近づくのを感じているのだろう。
目の前で脚を止めて、ほんの少し俺よりも背の高い蓮の顔を今までで初めての距離で見つめた。
あと、ほんのわずか顔を近づければいいだけのこと。
だけどそれは、どこよりも遠い距離のように、思えた。
俺はなんでキスをする?
蓮が、俺から離れて行かないように。
そのキスはそれだけのもので。それ以外の意味はなくて。だとすればこれはキスでも何でもない。
だけど――蓮にとってこれはキスになる。
好きな人とするもの。俺にはなんの気持ちも込められていないのに。
俺はそれでいい? 蓮はそれでいい? 俺は蓮と全く違う気持ちなのに。キスをすることで“友達”として傍にいるだけの俺なのに。蓮はそのキスをどう受け止める?
「――……っ!」
ぽんっと肩に手を乗せられて、大げさな程に体が跳ね上がった。
「やめとけば?」
「……れ、ん?」
俺の驚きは蓮にはお見通しだったのだろうか。淋しそうな瞳で、だけどいつもの口調で告げる蓮を見て、また、泣いてしまうんじゃないかと思った。
俺がまた、蓮を傷つけたんじゃないかと。
「や、ちょ、準備してただけで……。そんなこと……」
真剣な表情をしたら、ダメだと何となく思った。
こんな事はすぐ出来るんだと、そう告げないといけないんだと思った。だから、ほんの少しだけ笑顔を見せると、蓮もほんの少しだけ笑う。
そして。
「笑わなくていいんだ、蒼太。俺は大丈夫だ」
遠くでチャイムが鳴り響いた。
それは間違いなく三限目が始まる予鈴だったはずなのに、終わりのチャイムのように感じた。
「無理しなくていい。できなくていい。それでいいんだ」
そんなセリフは蓮には似合わない。
蓮の方こそ俺に無理をしているじゃないか。涙を瞳に溜めて、それでも微笑むその姿に胸がギリギリと引き裂かれるほどの痛みが広がる。
笑顔を見てこんなに痛いのは初めてだ。俺の笑顔も歪だったのかな。こんな風に、よかれとおもって見せた笑みで、誰かを傷つけていたのかな。
俺の隣を通り過ぎる蓮は、もう二度と、俺に笑いかけてはくれないだろう。きっと、キスしてもしなくても、結果は同じだったに違いない。早いか遅いかの違いはあったかもしれないけれど。
だけど、今、はっきりと分かるのは、もう俺たちは友達ではいられなくなったということなんだ。
「ごめん」
最後に耳に入った言葉は、俺が口にしたのか、それとも蓮なのか、わからなかった。