49胸中でひっそりと育つもの
小毬の姿はすでに屋上には残されていなかった。
目の前には手もつけないまま放置されているお昼ご飯が、寂しそうにあるだけだった。
五限目の始まるチャイムは、もうずっと前に鳴り響いていた。けれど俺はただ呆然と空を眺める事しかできなかった。息をする事しかできない。
小毬の言っていた意味が分からない訳じゃない。だけど、納得できない。
向き合ってどうなる? 傷ついたとか傷ついているとか、俺にはわからない。少なくとも俺は傷つきたくないし、傷つけるとわかっている行為をするなんてとてもじゃない。
傷つけてくれ――なんて、身勝手すぎる。
俺の身になってくれよ。なにをすればいいんだよ。傷つけて、このままなくすかもしれないなら、俺は守りたいんだ。
美紅も、蓮も小毬も……。
それがおかしいことなのか?
「わっかんねえよ……」
青空を見上げたまま目を瞑って呟いた。
壊さないために俺はこんなにも笑顔でいるのに、勝手に壊れていく。笑っていたはずなのに、いつからみんなは笑わなくなった?
いつから俺は――泣いているように笑うようになった?
俺はただ、ここにいたかっただけなのに。
ただ、必死で大切にしてきたはずなのに。
・
その日から、美紅と会話する事がなくなった。
小毬に言われたとはいえ……理解できない俺には何も言えないまま。
美紅も何も言わず、迎えに行ってもお互いにうつむきながら歩くだけ。少し前までは美紅と一緒に歩いている間会話がなくなった事なんて一度もないのに。美紅も俺も、いつも笑顔だったはずなのに。
当然、蓮と小毬と顔を会わす事もなくなって、千晴ちゃんからはメールもなにもなければ、一緒に電車で過ごす事もなくなった。
まるで……前から誰もいなかったみたいに、誰もいなくなった。
「まだ起きていたのか?」
深夜に目が覚めて、水を飲もうとリビングに降りると父さんがPCに向かい合って座っていた。家に持ち帰った仕事しているのだろう。父さんに「ああ」とだけの小さな返事をして冷蔵庫に向かう。
「……美紅と、けんかしたのか?」
「別に、そんなんじゃないよ」
察しがいいな、と思いつつ、晩ご飯のときも話さなければ、家に帰ってお互いに部屋にこもりっきりなら気づくか、とため息をこぼす。母さんも少なからず気づいているだろう。
けんかだ、と言えるならよかったのに。
けんかにすらなっていない。何を話せばいいのかわからないだけだ。何をどう伝えたらいいのか。そもそも俺は何を言いたいのか。
前みたいにしよう、なんて返事がいいとは思ってない。だけど気持ちは、望んでいるものは、それだけ。だからこそどうしたらいいのかがわからない。
「美紅が、気にしてたよ」
「何を?」
「お兄ちゃんはもう、お兄ちゃんじゃなくなるかもしれないって……」
その言葉に、手にしていたコップを思わず落としそうになった。
「……え?」
「そんなことないよ、とだけ言ったけど、美紅は、なんとなく気づいているんだな……」
心配そうな父さんの表情に、思わず苛立ちが募る。
――元はと言えば、原因は、父さんじゃないか。
そんな言っても仕方のない事を口にしてしまいそうになって、唇を噛んで「ふーん」と興味ないそぶりでコップに水を注ぐ。手が震えるのは動揺しているのか、怒りなのか。
「余計な事、言わないでくれよ……」
そっと呟くと、それをわかっていたかのように父さんが少し笑みをこぼす。
「余計な事かどうかは、美紅が決める事だよ」
「……そんなのきれいごとだよ」
自分が原因のくせに、よくもそんなことが言えるな、と呆れてしまう。
水を飲み干して「じゃ」と部屋に戻ろうとする俺を、父さんが「目も覚めただろ? ちょっと話をしよう」と手招きをした。
正直話したくない。けれど……そんなことをしたら余計に美紅と何かあったかと勘ぐられるような気がして、一瞬考えてから無言で父さんの目の前のソファに腰を下ろした。
「美紅に、何も言わないのか?」
きっともう、父さんは俺と美紅がどうして話ができない状況が続いているのか、わかっているのだろうと確信した。美紅から聞いたのかもしれない。
「言える訳、ないだろ……何を言うんだよ」
ぎりっと唇を噛んでから、低い声で呟くと父さんが困ったように笑った。
なんで父さんが困るんだよ、と叫びたい気持ちをぐっとこらえて「美紅が、傷つくだろ」と父さんのせいで、という意味を込めて答える。
「……父さんのせいなのに、て思ってるだろう」
よくわかってるじゃないか、と言葉にはせずに無言で伝えた。
言ってやりたい気持ちもあるけれど……言ったところで今更どうしようもない。俺にとって美紅は大事な妹だということには変わりないし、そんなことを気にする必要もないんだから。
「父さんは、美紅にちゃんと言ってあげようと思ってるんだ。母さんと、一緒に」
「――な……!」
予想しない言葉に、思わず声を上げて父さんの顔をみた。
こんなこと冗談でいうはずはないのはわかっているのに、表情で本気だと感じて「そんなこと……やめてくれ」と呟くしかできなかった。震える声で、呆然としたまま。
「このままだと、美紅は真実を知らないまま、間違って思い込んでしまうかもしれない。そのほうが、つらいだろ?」
「そんなの父さんと母さんが楽になりたいだけじゃないのかよ……何も知らない美紅に伝えて……すっきりしたいだけじゃないか」
「なにも知らなくはないだろ?」
「それは違うんだってことを教えればいいだろ!」
勝手なことばっかり言うなよ! 美紅の気持ちを考えろよ!
俺の気持ちを分かってくれない父さんに我慢出来なくなって立ち上がり叫んだあとに、震える声で告げると父さんは俺を見上げたまま「嘘を教えるのか?」と言った。
「嘘……を本当にすればいいじゃないか……」
「嘘は嘘だ。隠し通さなくちゃ余計に傷つける。それは……俺が一番よく知っている」
意味深に目を伏せて告げる父さんに、母さんが泣きながら父さんを責めるあの日の夜を思い出した。
「全てを常に告げろと言うんじゃない。疑う気持ちを抱き続けたままでいいのか? 不満をため込んだままでいいのか? 消化不良のままで、いいのか?」
わからないよ。俺にはわからないよ。
知らない方がいいじゃないか。真実はいつも冷たいじゃないか。
「しんどくないのか? 蒼太」
美紅の話をしていたはずなのに、俺に対して気遣うような父さんの言葉に、思わず鼻がつん、として瞳に涙がじわじわと広がった。
父さんが浮気した事なんて知らなければ良かった。
母さんが美紅を傷つけていたこと何て知りたくなかった。
美紅が母さんの子じゃなかったなんて、信じたくなかった。
知らなければよかった。そうすれば俺は前と変わらず思うがままに生きられたかもしれないのに。少なくともこんな風に、毎日家族の中で無理して笑う事もなかったのに。
だけどそうしなくちゃみんながまた傷つく。俺だってしんどいんだ。そんな空気の中でいたくないんだ。
そうおもう気持ちのなにがいけない?
だけど分かってる。
知りたくなかった。気づきたくなかった。信じたくない。
それでも――俺はもう知ってしまった。
あのまま美紅のことを知らなければ、俺は悶々としたまま家に寄り付かなくなっていただろう。ため込んだ不満から逃げ続けていただろう。その場しのぎに遊び倒して、それでも拭えない疑問を抱き続けていただろう。
じゃあ今は……? それら全てがなくなった? そんなはずない。
浮気したことを俺から父さんにも母さんにも口にしなかった。
美紅のことはたまたま知ってしまっただけ。それで、話をしただけ。俺はその事実を耳にしただけ。
一度だって誰も責めたりはしなかった。
浮気した父さんを責めることも、美紅に当たった母さんに文句を言うことも、何も言わなかった美紅になにも聞くこともせず、ただ必死に日常を取り戻そうとした。
ふとしたきっかけに父さんと母さんが喧嘩しそうなときはさりげなくフォローしたりかわしたり。美紅が傷ついているときは何も言わずにその場から立ち去らした。
それが、最善の策だと、思っていたから。
なのに。
「しんどいに……決まってるだろ……」
目を掌で覆い隠しながら、耐えきれず吐き出すように口にすると同時に、涙はボロボロと零れだした。
しんどかった。辛かった苦しかった。
だけどそうしなければいけないと思っていた。だって、そうしなくちゃ壊れてしまうのだから。壊したくなかったんだ、俺は。この家族を。歪でも何でもいいから必死に形を守って、そしたらいつか、それは固く揺るがないものになるんじゃないかと、そう信じたかった。
笑っているために。
笑っていなければいけなかった。
「俺がちゃんと、言えば良かったんだ。蒼太には言わない方がいいんだと、そう思っていた俺が、蒼太をもっと、苦しませたんだ。母さんも、美紅も」
「なんで浮気なんか……なんで、なんで。なんでそんなこと。それさえ……それさえなければ俺は何も……知らなかったままだったのに」
ため込んでいた気持ちがあふれ出してくる。
ため込んでいたなんて自分でも気づいていなかったのに。
今更どうしようもないんだから、“これから”を見なければと思っていた。過去のことをしてしまったことを責めたって何にもならない。父さんも母さんも反省していることは十分わかっているのだから。
だからこそ。消化できなかった気持ち。
「なんで浮気なんかしたんだよ! 何で母さんは美紅を傷つけるなら受け入れたんだよ! なんで……! 全部父さんが悪いんじゃないか……!」
「……あぁ」
「父さんさえちゃんとしていれば、俺も美紅もこんな事にならなかったのに! 母さんだって……! 最低だよ、最悪だよ気持ち悪い! 母さんも父さんも、最低だよ!」
「……あぁ」
俺の気持ちに、ただ辛そうな顔をして、申し訳なさそうな顔をして返事をする父さんの姿にさえ苛立ってくる。
だけど、何を言われたって苛立つだろう。
そんなこともだって俺はわかっているんだ。だから、口にしたくなかった。したって意味がない。
言い訳が聞きたい訳じゃない。責めたい訳じゃない。家族を壊したいわけじゃなければ誰かを傷つけたい訳じゃない。
わかってるのに、それでもどうしようもない気持ちがあるんだ。
それを消化できない俺が、悪いんだろうか。
「……父さんは、俺や、母さんが……大事じゃなかったのかよ……」
うつむいて、涙を零した。