46崩壊は足音を消してやってくる
約束しなければよかった。
そんな最低なことを考えながら、目の前の千晴ちゃんの話に適当な相づちを返した。
笑顔を絶やさないように気を遣いながら、千晴ちゃんが笑っていてくれるように努める。正直そんなことしたくもないけれど、この感情に千晴ちゃんは関係ないのだから仕方ない。約束をこんなことで断ったりなんかして、悲しまれるのも辛いから。
学校帰りに待ち合わせして、いつものように適当に買い物をして、カフェで時間を潰すだけ。話の内容はいつものようにどうでもいいことばかりで、今日はいつも以上に頭に入ってこなかった。
「……蒼太くん?」
「ん?」
長い髪の毛をぱさりと肩から落とすほど首をかしげる彼女に、笑顔をはり付けたまま返事をすると、「元気ない?」と、今一番聞かれたくないことを言われて、思わず言葉に詰まる。それでも笑顔を絶やすことはなかったから、俺も成長したな。
「そんなことないよ」
「……蒼太くんはいつも、笑ってるね」
ぴくりと体が反応する。
――『笑うなよ』
みんなの声が聞こえた気がして、思わず顔がこわばってしまった。
「……あ、そ、う?」
あからさまな動揺。
そんな俺に千晴ちゃんは何とも言えない顔をして「いいところだよね」と言葉を足した。本心なのか、それとも、俺の態度から何かを感じ取ったからそう告げたのかはわからないけれど、何も言葉がでてこなくて、そのままジュースに口をつける。
俺のいいところが笑顔だったらよかったのに。
そんなことを言ったところで彼女には何もわからないだろう。
無理矢理笑っている自分には十分気がついている。いや、わざと、自分でそうしたくてそうしている。
俺はどうしたかったんだっけ。
気を遣っているのか、さっきの話はそのままスルーして、いつものように話を続ける千晴ちゃんを見つめながら思う。
彼女と付き合った。それが全てをいい方に変えてくれるんじゃないかと思った。
――彼女は、俺のことを好きじゃないから。
蓮が、前に怒ったあのデートの日。あの一日でそれが蓮にばれてしまうとは思っていなかった。
彼女が本当に好きな人が誰なのか。それなりに見ていれば誰にでもわかる。二人で出かけた日にそれは確信に変わった。そして、俺はそれを知らないふりをして、馬鹿になって告白を受け入れた。
正直なところ、彼女がなんで俺と付き合っているのかはわからない。蓮の傍にいるためなのだとしたら、蓮にはもう彼女もできたんだから、さっさと俺のことを振ってもおかしくないのに、あれから数ヶ月経った今でも、俺らは付き合っている。
いや、寧ろ付き合った頃よりも今の方が、多分関係は良いのだと思う。
他愛ない会話で数時間を過ごし、良く笑いあう関係。付き合った頃はもっと余所余所しかった。話に困る事も幾度もあったし、無言の時間が苦痛に思うことだってあった。
どうして、今はこんな風に過ごしているんだろう。
時々、“本当に”付き合っているかのように錯覚してしまうときだってあるほど、一緒に過ごすのが傍にいるのが当たり前になったのだろう。
そうなるはずじゃなかった。すぐに終わることはないかも知れないと思っていたけれど、こんな風に“恋人同士”になるはずじゃなかった。
俺たちは暗黙の了解で、お互い自分のために付き合う事を選んだのに。
彼女の目的は、蓮と近づくため。
わかっていた。会うたびに話す事は蓮の事ばかり。彼女が好きな音楽だって、蓮が好きな音楽の事ばかり。興味があるのは、蓮の好きなもの。それを、俺から仕入れているだけ。
蓮が彼女と付き合う事はない事を俺はわかっている。俺が付き合った女と付き合うようなことはしないと、なぜか確信があった。いや、そうなったって別に構わないとも思っていた。
ただ、俺が、離れることをする、それだけの為に俺は彼女を利用したんだ。
彼女ももうきっとわかっている。蓮に見込みがない事を。最近の会話は蓮の話ではなくなったし、俺と別れる気配もない。利用できない俺と付き合う理由もないのに。
めんどくさいと思う気持ちがない訳じゃない。好きじゃないのはお互いに明らかなのだから。
だけど心のどこかで俺は彼女に救いを求めている。
彼女を好きになれたら。
いや、そんなことにはならなくても、一緒にいる事ができる関係になれれば。
俺らは解放されるんじゃないか?
だから、俺は彼女に別れを切り出すつもりもないし、不思議だな、とは思うけれど彼女が俺に別れを告げることがないことにどこかうれしくも思っている。
ふと、目が合うと彼女はちょっと頬を赤らめて、嬉しそうに微笑んだ。
そんな仕草に、喜びなのか不安なのか分からない感情が体を支配する。
・
気がつけば日は沈みだしていて、俺らはどちらからともなく帰りだして歩いていた。
先月まではまだ、この時間は明るかったのに……今は七時を過ぎたら電灯が光り始める。
「そういえば、この前貸してほしいって言ってたCD、今度持って行くよ」
電車の中でふと思い出して告げると、彼女は時間を確認して「今から、取りに行ってもいい?」と不安そうに呟いた。
「いいけど……帰り遅くなるよ?」
「大丈夫。すぐ帰るし……ちょっとだけ、蒼太くんの溺愛する妹さん見てみたいなって」
恥ずかしそうに微笑む彼女に、どこか胸が暖かくなって「じゃあ、お茶でも」と応えると、ほっとしたように笑った。
きっと彼女なりに美紅に気を使ってくれたんだろう。
人見知りする一面もあるから、一緒に迎えに行ったら美紅は驚くだろうし、こうやって顔を見て行く方が慣れるかもしれない。
そんな風に妹の事にまで気をかけてくれる気持ちが、素直にうれしい。
二人で目を合わせて、なぜかお互い恥ずかしそうにへらっと笑い合った。
ほんの少しだけ、昼間の蓮と小毬とのことも忘れることができる。
大丈夫。こんな風に過ごして行けば、きっと大丈夫だ。
今日の話は、きっとなにかの間違いで、また明日笑いかければ……また俺たちは笑えるはずだ。
「今度は、私の家にも来てね」
「……うん」
その言葉を、俺はどう受け止めたらいいんだろう。
そんな風に思う俺は、何がしたいのだろう。
付き合って行きたいと思っているのに、それに不安を感じるのは、どうしてだろう。次の約束を交わす度に、彼女が近づいてくる気がする。
俺の家に着くまでのあいだ、俺らの手はつながれていた。
どちらからともなく、自然に。
だけど、そんなことは、初めての事だった。
・
「ただいま」
千晴ちゃんをつれて家に帰ると、玄関には母さんの靴があった。今日は父さんが美紅を迎えに行ってくれたからもちろん父さんの靴も。
「おかえりー」
ぱたぱたと美紅の声とともにかけよってくる足音が聞こえて、千晴ちゃんを招き入れながら「おー」と背を向けたまま答える。
「お邪魔、します」
緊張しているのか恥ずかしいのか、いつも以上に小さな声で、ほんの少し頭を下げて挨拶を告げる千晴ちゃんに、美紅が「……はじめまして」と驚きなのか、照れなのか、千晴ちゃんに負けないほどの小さな声で答えた。
「どうしたの美紅」
反応がおかしいことに気がついたのか、母さんがキッチンから顔をのぞかせ、俺の後ろにいた千晴ちゃんを見て「まあ!」とうれしそうに驚きの顔を作った。
そういえば、小毬以外の女の子を家に招いたのは初めてだから、そう思うのも無理はないだろう。
「初めましてー。まあ、かわいい」
「は、初めまして、千晴です」
ぺこりと頭を下げた千晴ちゃんに、母親も慌てて頭を下げる。
「で? 彼女なの?」
「まあ、っていうか、もういいから」
テンションがあがったのか、出会ってすぐにそんな質問をする母さんに恥ずかしく思う。隣の千晴ちゃんもある意味恥ずかしいとは思うけれど。
話を遮って二階に行くから、と口にしようとすると、美紅が目を大きくさせて俺らを見ていた。
「……どうした? 美紅」
あまりに始めてみる顔に驚きながら美紅に一歩近づく。
彼女という存在にびっくりしたんだろうか。
「……彼女? って。お兄ちゃんはその人と付き合ってるの?」
「え? あ、うん……」
首を傾げてちょっとだけ千晴ちゃんを見ると、彼女も驚きと疑問を顔に浮かべていた。
「お兄ちゃんの彼女は、小毬ちゃんじゃないの?」
な、んで?
信じられない発言に、俺も、多分千晴ちゃんも、母さんでさえ固まっただろう。
「……いや、何言って……小毬はただの……」
「だって小毬ちゃんがそういったのに……!」
必死な顔で俺に食らいつく美紅は、まるで俺を責めているかのようだった。
そして俺は、せめられているんだと、思った。
「みあ……」
手を伸ばした俺から逃げるように二階の自分の部屋に向かう美紅に、俺は何もできなかった。
なんで、そんなことを? いつからそんなことを思っていた?
動揺を隠せないまま二階を見つめる俺に、母さんも戸惑いながら「とりあえず、蒼太の部屋でゆっくりしたら?」と言って、ふたりで無言で部屋に入った。