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青に侵された屋上  作者: 櫻いいよ
Ⅵ水色の雨
44/53

44自らの手で青空を作る



 あの日は、雨だった。

 蓮と一緒に学校帰りに遊びに行こうと話をしていたにも関わらず、突然の雨に見舞われた。

 土砂降りの空にテンションが下がってふたりともどこに行く気にもならず、珍しく学校から直帰した日。

「ただいまー」

 薄暗い家の中。足を踏み入れて妙な雰囲気を感じ取った。

 家の中にまで雨が降っているかのように雨音が鳴り響いていた。

「……母さん?」

 専業主婦の母さんならいるはずなのに、誰からの返事もない。

 もしも母さんが買い物かどこかに行っているとしても、美紅はいるはずなのに。

 首を傾げながらリビングに向かう途中で、大声が響く。

 今まで聞いたこともない、母さんの、声。


「——私の子じゃないから……!」

 そう聞こえた。

 間違うはずもないほど、ハッキリと聞こえたその言葉に、全身が凍り付いた様に動かなくなった。

 息が、苦しくなる。

 目の前が霞んで見える。

 奥歯をぐっと噛んで、そっと前に進んだ。

 あの日、両親の喧嘩を聞いたあの日と同じように、煩く鳴り響く心臓をぎゅうっと服の上から掴み、リビングのガラスから中の様子をうかがった。

 何を言っているんだろう。

 リビングでは、美紅が、まだ三歳の美紅が、小さく小さくうずくまっていた。

 元々小さい体を、より一層小さくして。

 自分の存在を消そうとしているかのように。

 その姿を見た瞬間、心臓が真っ二つに割けたんじゃないかと思った。

「誰に似たのよ……!」

 美紅を殴るわけじゃなかった。

 傍に立って、美紅を責めると言うよりも、誰かに何かにむかってやり場のない怒りを叫んでいるように見えた。

 それでも、美紅はそばにいる。

 母さんの発言全てを、耳に入れている。

 その意味を全て分かっているかどうかは分からない。けれど、美紅の大きな瞳が涙で揺れていた。

 何を感じて、何を思って、そこにいるのかと思うと、固まっていた体が頭で考えるよりも先に動いた。


 無我夢中だった。

 何も言わずにリビングに足を踏み入れて……美紅を抱きしめて自分の部屋に走った。母さんのほうは一度も見ないまま。

 小さな美紅は俺を見て驚いた顔をして、そのまま俺の体に必死にしがみついた。

 小さかった。俺なんかよりもずっと小さかった。


「ごめん、ごめんな」

 部屋の中で美紅を抱きしめ、何度も何度も謝った。

 あんなに小さな美紅を、俺は初めて見たあの日、宝物の様に感じたのに。

 それなのに。

 自分のことで手いっぱいだった。

 自分のことしか考えていなかった。

 美紅のことなんて何も。美紅は何も知らないのだからと……。

 それは、何も知らないと思って俺にいつも通りに接してきた両親と何ら変わりない。


 ——俺も一緒だったんだ。


 俺の知らない時間、この家で、母さんとふたりで、美紅は何を思って何を感じて過ごしてきたんだろう。

 だけど、俺が家にいるとき、美紅は一度も泣かなかった。寂しそうな顔をすることも、母さんのことで何かを言うことだってなかった。

 そう思うと、涙が止まらなかった。

「いたいの?」

 泣いている俺を見上げて、美紅は、小さな手を俺の頬に当てた。

 困った顔をして、そして。

「美紅がいるから、大丈夫だよ」

 そう言ってにっこりと笑った。


 俺が言わないといけないセリフだったのに。

 俺が美紅にそう言ってやらなくちゃいけなかったのに。


 美味しいモノを食べに行こうか、そう美紅に言って、母さんから逃げるようにして家を出た。

 母さんはそれに気づいていたのかいなかったのかわからない。家のどこにいるのかもわからなかった。けれど、そんなことを気にもせず、ただ俺の腕の中にいる美紅を守ろうと思った。

 あの家にいたくなかった。

 母さんと顔を合わしたくなかった。

 自分が何を言うのかわからない。母さんも俺に何を言えばいいのかわからなかっただろう。



「……どうしたの蒼太」

 突然家に押しかけた俺を見て、小毬は驚いた顔で玄関で俺らを出迎えた。

 美紅に「小毬がお菓子くれるってよ」と笑いかけると、頬を赤らめて嬉しそうな顔をする。それが、心底うれしくて、ほっとした。

「あら、蒼太くん、久しぶりね。美紅ちゃんも一緒なんて珍しい」

 俺らを見た小毬のおばさんは、いつも通りに優しい笑顔でジュースを出してくれた。美紅は俺をちらりとみて、飲んでいいかと問うような視線を向ける。

 そんなことを気にする美紅に胸を痛ませながら、にこっとほほえみかけると、美紅は嬉しそうに「ありがとうございます」とおばさんに頭を下げてストローに口を付けた。


「そういえば、蒼太に漫画返さなくちゃと思ってたんだった」

 あ、と大きめの声を出してから小毬が席を立つと、俺も「取りに行くよ」と腰を上げた。

 美紅に「クッキー食べて待ってな」と言って頭を撫でると、嬉しそうに微笑みながらコクコクと頭を振る。

 おばさんは美紅がかわいいのか、あれこれと世話を焼いてくれていて、それを見ると、ほんの少し体の力が抜けた。

 そのおばさんの行動ひとつひとつに戸惑う美紅を見て、もっと笑ってくれたらいい、と願った。


 小毬の部屋は、以前来たときよりもシンプルになっていた。

 可愛いぬいぐるみは昔と変わらずベッドを占領していたけれども。

「何かあったの?」

 見渡していると、漫画を手にした小毬が、背中を向けたまま俺に問い掛ける。

「……なにも」

「そんなわけないでしょ? 何年蒼太のそばにいると思っているのよ。美紅ちゃんと一緒に家に来たことだってなかったのに突然来て……」

 そしてゆっくりと振り返った小毬は、痛々しいモノを見るかのように俺に憐れみの目を向ける。ゆっくりと近づいて、そっと俺に触れる。

「泣いた、痕」


 その言葉をきっかけにして、一気に涙が溢れた。


 泣くつもりは微塵もなかったのに、自分でも驚くほど自然に流れ出して、視界がぐにゃりと歪んでゆく。

 その先にいる小毬の表情は、恥ずかしさと惨めさでちゃんと見る事はできなかった。

 手遅れなのは分かっていたけれど、それを必死に隠して「なん、でもな……」と言った俺を、小毬は何も言わずに抱きしめた。

 何もないわけがない。

 だけどどうやって口にしていいのかわからない。

 与えられるぬくもりに、ただ涙はより一層溢れるだけだった。


 ゆっくりと時間をかけて、今まで抱え込んだ気持ち、見てしまった光景、そして懺悔を、ぽつりぽつりと零した。

 小毬がどこまでわかってくれたかはわからない。

 だけど小毬はただ、「うん」「うん」と返事をして俺の言葉に耳を傾けてくれた。


 ……誰も信用できない中で、小さな小毬の体が俺を抱く。

 それだけは信用できた。

 自分すらも信用できない。だけど小毬だけは信用できるんだと、思った。


 話を聞いた小毬がどう思ったかは、怖くて聞けなかった。

 俺の両親とも関係のある小毬は、両親を軽蔑したかも知れない。

 そう思うと悲しく感じるのは、俺にとっての両親だからなのか、それとも、小毬に、俺もそんな風に思われるかも知れないと思っているからなのか。

 どっちにしても、小毬は俺の話を聞いてくれた。

 それだけで、さっきまでの苦しくてどうしたらいいのか焦りと不安と後悔でいっぱいだった気持ちは、嘘のようになくなった。

 今、自分にしなくちゃいけないことを、受け止めることができたのは、小毬がいたおかげだ。


 その日の夜は、美紅を小毬の家に泊まらせた。

 小毬が協力してくれたことで、美紅も嬉しそうに笑っていた。

 美紅が眠った事を確認してから、ひとりで自分の家に向かった。

 本当は帰りたくもなかった。言葉だって交わしたくなかった。できる事ならずっと、小毬の家においてやりたかった。

 だけどそんな事ができる訳がないことは、中学生の俺にだってわかっていたし、それが美紅にとっていいことなのかと言われれば、それも違うんじゃないかと思った。

 結局今までのように、逃げるだけだと思ったから。

 美紅のために、話をしなくちゃいけない。

 自分のためじゃない。美紅のために。

 そのためなら、どんなことでも俺はしてやりたい。


 家は、暗かった。電気がついているのに、こんなに暗くなるのだと……どこか冷静な俺は思った。

 時間はすでに十時を回った頃。

 母さんは父さんに話しただろうか。そんなことを考えながらリビングに足を踏み入れる。

 ソファに腰掛けるふたりの姿を見れば、どこまで話が進んでいるのか、何となく理解が出来た。

「蒼太……!」

 俺の姿を見て、勢いよく腰を上げた父さんに釣られるように母さんも俯いていた顔を上げた。

「美紅……は」

「小毬の家に泊まらせた」

 ほっとしたような、心痛めるような父さんの顔が無性に腹がたつ。


 ……きっと何も知らなかったんだろう。

 俺と同じように。何も知らないで過ごしていたんだろう。

 だけど全ての原因は父さんにあるんだ。父さんが、原因を作った。

「俺に、ちゃんと話してくれないか……」

 立ちすくむ父さんを通り過ぎて、ソファに腰掛けた。

 父さんと母さんの顔を見ることなく、自分の手元をじっと見つめたまま……耳だけを傾けた。

 

 美紅は、父さんの浮気相手の子供だと、告げられた。

 母さんが家を出て行ったのは、浮気が発覚したからだと父さんは少しずつ俺に言った。

 浮気相手が妊娠した。その、浮気相手の子供が、美紅。

 父さんと母さんが美紅を受け入れるまでの会話は俺には分からない。

 ただ、浮気相手の女の人は育てる気がなかったらしい。

 その人が誰なのかは知らない。

 今はどうしているのかも。父さんも母さんもそれを口にしなかったから、きっと近くにはもう、いないんだろう。

 生まれた美紅に罪はないのだと、何度も話し合った結果、母さんは美紅を受け入れた。

 でも、全てを許し、忘れ、我が子のように思うのは……母さんには無理だったんだろう。

 ずっと一緒にいる美紅に、ふと、嫌悪感を抱くのだと、母さんは泣いた。

 自分と全く似ていない一面を見るたびに、名前も知らない女の人への嫌悪感が自分の感情を支配するんだと。


 その話を、俺はただ手を握りしめて聞くことしか出来なかった。

 美紅だけが何も悪くないこの状況で、美紅だけが傷ついている。

 何も知らずに傷ついて、それでも……誰にも、何も言わなかった。


 次の日、迎えに行った美紅は、とてもとても嬉しそうな顔をしていた。

 楽しかった? と聞けば、初めて見るほどの笑顔で、俺に「うん」と言った。

 手を繋ぐとほんの少し頬を赤らめて、俺を見てはにかんだ。


 だから、俺は、美紅だけは守ろうと、そう思った。

 美紅がもう、傷つかないように。美紅の為に笑顔になろうと。

 重苦しい雰囲気の家では、美紅も気を使うのをわかっている。

 今までのことがあったからか、場の空気に敏感な美紅が、必死に俺らに笑いかける。

 そんな笑顔を作らせちゃいけないんだ。

 美紅は何も悪くないんだから。


 だから、笑った。

 ことを荒げないように、父さんにも母さんにも、俺は笑いかけた。

 父さんのことも母さんのことも許せない。

 俺は多分ずっと許さないだろう。

 身勝手な行為で、みんなを傷つけた、一番の原因はどう考えても父さんだ。

 怒鳴り散らしたい気持ちはあった。

 何を考えているんだと、俺らの事をどう思っているんだと、答えを求めずただ、感情を吐き出したいと思った。


 だけど、それはしちゃいけない。

 これからの家族のために。

 家族ごっこでもなんでもいい。

 この場所を美紅のために壊す訳にはいかない。そんなことになったら、美紅は自分を責めるかもしれないから。

 今はわからなくても、いつか、そんなことに心を痛めるかもしれない。

 そしてなにより、俺は父さんと母さんの子供で、俺も知らなかったとはいえ俺だって自分勝手だったんだから。文句を言える立場じゃない。

 だから必死に感情をかみ殺して笑顔を常に作った。


 母さんに、働きに行く事を提案したのは、俺が高校に入ってからだった。

 俺はなるべく美紅のそばにいることを選んで過ごす。

 美紅の送り迎えは俺が進んでやり始めた。

 そのために志望校も当初よりいくつかランクアップして、家からも、美紅の学校からも近いところを選んだ。

 そんな俺に気がついたのか父さんも協力してくれた。

 きっと母さんは、自分が美紅にとって傍にいないほうがいいのだと思っているのだろう。何も言わずに、ただ頷くだけだった。


 この関係が一番いいとは全く思ってない。

 けれどこの状態でないといけないとも思っている。

 言いたい文句はたくさんある。あの頃よりも年を重ねるたびに、不満は膨れあがっていく。何も言わずに笑うたびに、心を殺しているような気さえする。

 それでも。

 笑っていれば何とかなる、そう、思っている。




「どうかしたの?」

 美紅の声にはっとして足下に視線を移すと、美紅が心配そうな顔を俺に向けていた。

 ……何を、考えているんだろう。

 一緒にいるのに上の空になったなんて美紅に申し訳なくなって、頭に手を乗せて「何でもないよ。暑くてへばっちゃっただけ」と笑った。

「……うん」

 それでも、笑わない美紅。そんなに思い詰めた顔をしていただろうか。

 美紅が、この話のどこまでを知っているかは知らない。けれど……俺も父さんも、恐らく母さんも、美紅には何も伝えないだろう。

 何か聞かれるときがいつかくるだろう。それでも俺は何も言うつもりはない。

 美紅が泣くのを分かっていて、そんなこと言えるわけがない。

 一生隠し通すつもりだ。

 どんなことをしてでも、ごまかしてでも、今を守りたいんだ。

「最近小毬がいないから、お菓子が恋しいか?」

 俺のせいで沈んだ顔の美紅を元気づけるようにそう告げると、美紅は「……うん」と小さな声で返事をした。

 いつもは……小毬の話をしたら嬉しそうな顔をしていたのに、どっちかというと暗くなった。

「どうかしたのか? 小毬と喧嘩でもしたのか?」

「そんなことしてないよ」

 力なく微笑む美紅に、それ以上何も言わずに「今日は学校で何があった?」と話題を変える。

 ……何か、あったんだろう。

 小毬のことを大好きだったはずなのに。そう言えば最近は手紙も受け取らないし、話もしてない。

 実の姉のように慕っていると思っていたのに。いつ、どこでなにがあったのかは俺には皆目検討がつかない。

 ふたりは……最後にいつ会ったっけ?

 遊園地のときかな。そんなに違和感を抱くような事はなかったと思うけれど。あのとき、なんかあったっけ?

 疑問を抱きながら、これ以上美紅が俺に気を使わないように、他愛ない話題を続けた。

 笑いながら。美紅の頭を撫でて、今日の学校の話を聞く。


 小毬のことは、今度小毬に聞いてみよう。

 美紅に聞き出して、辛そうな顔をするのを、俺は見たくないから。


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