43偽りの過去 虚像の幸せ
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小学六年生になると、いろんな事に違和感を抱きはじめていた。
いや、本当はずっと前から気づいていたのだろう。けれど……俺は笑って知らないふりをしていた。
母さんが実家に帰った一年。
父さんとふたりきりだった一年。
心のどこかに不安を抱きながら、三年を過ごして美紅は三歳になった。
小さな美紅を見て、守ってあげようと思った気持ちは嘘ではない。
けれど、俺には俺のすべきことがあった。その全てはただ単に友達と遊ぶとかそう言うことだったんだけど。それでも俺には大事な毎日だった。
美紅はかわいかった。それは間違いなく。
家にいるときは面倒を見ることはあった。一緒に遊んだり、お風呂に入ったこともある。
だけど、そのくらいだ。
家にいるときだけ。友達と遊ぶ予定がなかったときだけ。
それに、専業主婦で四六時中家には母さんがいるんだから、俺がすることなんて特にない。できることだって限られている。
美紅が生まれてから、父さんは父さんで不思議と帰宅が早くなっていた。以前は一日顔を合さないこともしょっちゅうあったのに。
だから俺はそのままでいいと思っていた。
家の中のどこか、重く冷たい空気を気にする事なく、笑っていれば、と。
「——どうしてよ!」
深夜。ふと目が覚めた瞬間に、母さんの声が響いた。
大声ではなかったけれど、それでもよく響いた。低く、震えていたのを、俺は今でもよく覚えている。
そのまま再び目を瞑って眠ってしまう事もできたのに、落ち着かなくて布団から出てゆっくりと、足音を消しながら一階へと向かった。
両親の喧嘩なんて、特に珍しいことでもなかったのに、俺は何かを察したんだろう。
いつもと違う母の声色に、不安を覚えたんだろう。
「あなたが、浮気なんて……」
“浮気”
その言葉の意味が分からないほど俺は子供じゃなかった。
リビングの閉じられたドアのガラスから、中のふたりを覗き見る。
ふたりは向かい合っていて、母さんはただ父さんの胸を何度も叩いていて、父さんは何も言わずに俯いていた。
多分、母さんは泣いていた。
泣き顔も涙も俺の居場所からは見えなかったけれど、いつもと違う母さんは、やっぱり泣いていたんだと、思う。
——父さんが、浮気した。
その詳細はわからない。
だけど父さんは俺を裏切ったということだけはわかった。
どうすればいいのか、自分にはわからなかった。
ショックなのか、怒っているのかも、よくわからなかった。
わからなくて、ただ、怖くて。何かが怖くて、俺はそのまま自分の部屋に閉じ籠もって布団を被った。
目を固くつむって、必死に夢だと、そう言い聞かせて暗闇に閉じこもった。
結局一睡もできなかった俺を起こしにきた母さんは、いつもと変わらない笑顔を顔に貼り付けて「いつまで寝てるの」と声をかける。
一階に下りるといつものように新聞を広げる父さんが「おはよう」と言葉を投げる。
昨日の事は本当に夢だったのかと思うほどの日常に、安堵と、苛立ちの両方を感じた。
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父さんが浮気した。
ぼんやりと抱く浮気に対する俺の認識は、中学校に上がる頃には明確になった。
父さんを信じることが出来なくて、家にいる時間が減った。
それを小毬は毎日のように不安そうな顔をして注意してきたけれど、へらへらと笑ってやり過ごすだけ。
当時から蓮とつるむようになったから、小毬は蓮の影響で俺が変わったのだと思っていただろう。
そうじゃないとは言い切れないが、それが全てじゃない。
「蓮、たばこある?」
「おー」
学校をサボって、蓮と一緒に人気のない屋上や非常階段で煙草を吸い始めたのは中学二年の頃。
俺よりも一歩早く煙草を吸い始めていた蓮は、初めて煙草を吸ってむせた俺をケラケラと笑った。
蓮といるのは気楽だった。
今でも不思議だけれど、蓮となら何でも出来るような気がしていた。現にいろんな事をした。
それまで学校の授業をさぼる事なんてしなかったのに、さぼりがちになったし、煙草はもちろんお酒だって始めた。
夜になるまで蓮と遊びまわっていた。先生に目を付けられるようになっても、気にしないで。
当然成績は右肩下がりで、両親は渋い顔をしていたけれど、そんなことどうでもよかった。
ただ、家にいたくなかった。
家にいると、気持ち悪くて仕方なくて、何もかも忘れてバカなことして笑っていたかった。
「彼女また変わったのか?」
「ああ、かわいかったからなー」
その頃から蓮は女遊びが激しくて、誰彼構わず手を出していた。
週代わりのように彼女が変わって、それを悪びれもなく口にする。それは父さんをどこか思い出させるのに、それでも俺は蓮が好きだった。割り切っていたからなのか、それとも、そこまで素直に行動に移せる姿が好きだったのか。
そういう蓮だからこそ、好きだったのかもしれないと思うときもある。
「蒼太、また授業さぼってたでしょ?」
いつものように口を尖らせて、俺と蓮がたまる屋上にやってきて小毬が文句を告げる。
真面目な小毬には授業をサボるなんて理解が出来ないんだろう。
ほんの少し蓮を睨んでいる姿に、俺も蓮も苦笑をこぼした。
「ちょっと休んでただけじゃん」
「どうしたの中学に入ってから。かっこつけちゃって」
「バーカ。そんなんじゃねえよ」
今のこの言葉に出来ない苛立ちや不安が、かっこつけたいだけ、それだけならよかったのに。そう心から思っていた。
文句を言っても響かないと思ったのか、諦めと呆れを含ませた顔で「もう、程々にしなよ」と背を向けた小毬の姿に申し訳ない気持ちを抱きつつ、どこかほっとした。
「いいのか?」
「なにが?」
背中を見つめていると、蓮が意味深に笑いながら告げる。
その理由をわかっていながら、俺はとぼけた返事をかえした。
「蒼太って、小毬と付き合ってんじゃねえの?」
「……幼なじみだよ」
蓮は俺が何度“そんなんじゃない”と言っても信じなかった。
信じるつもりはなかったんだろう。
そして、求める返事を待っているかのように何度も何度も口にする。
蓮に限らず、誰も彼もが俺らに対してそう聞いてくる。
確かに傍にいすぎだったかもしれない。
だけど、俺にとって小毬は家族に誰よりも近かった。
父さんのことも母さんのこともよくわからなくて、一緒にいるのが苦痛だった中学時代の俺にとっての小毬は、特に唯一の存在だった。
そこに恋愛感情というわけのわからないものはなかった。
そう、思っていただけだったのか、その時は確かになかったのか……今ではわかるはずもない。
小毬との事を考えると、いつも両親の事を思い出す。
父さんは何を思って浮気をしたんだろう。
母さんは、そんな父さんをどう思っているのだろう。
父さんは俺を大事だといつも言っていた。
母さんと一緒に三人でよくご飯を食べに行った。父さんは仕事が忙しくて、平日はいつも深夜に帰宅していたから、俺と顔を合わせないまま一週間を過ごすことだってあった。けれど、休日はいつも一緒にいた。
父さんと母さんだって、仲がよかったはずだ。常に一緒にいたし、些細な喧嘩に俺が呆れるくらいだった。
嘘だった。その全てが嘘だった。
家族でいる間は、俺を含めてみんな、いつも通りだった。それを壊したいわけじゃないのに、そうあることに不満が募る。
母さんにどう接していいのかわからない。俺が浮気を知っていることなんて父さんも母さんも知りはしないだろう。何も知らないと思って……普段通りに接してくるふたりに、どうしたらいいのかわからないんだ。
一緒になって笑い合う事もできない。
引きつっているのが自分でもわかる。
そもそもなんのために俺は笑顔を作らないといけないんだろう。
あの日の口論は、ただの夢だったんじゃないかと思う程、何もないように振る舞う両親。
俺が知らないと思って嘘っぱちの笑顔を俺に見せつける。
それに同じように嘘っぱちの笑顔を返す自分。
——それが無性に腹立たしい。
小毬だけが変わらない。
小毬だけが俺にとって家族だ。
幼い時からそばにいて、バカでお人好しな小毬は、どこか妹のようにも思えた。そんなことを小毬に言ったら怒るだろうと口にしたことはなかったけれど。
冷やかされても、誤解されても。小毬と離れようと思った事は一度もなかった。それが自然だったから。そうしないほうが気持ち悪くて仕方ないから。
『いつかどっちかに恋人出来たらどーすんだよ』
蓮が確かそんなことを何度か言っていたけれど……。その時はその時で、そうなったからって何が変わるのかは俺にはわからない。
多分、いろんな事に俺は鈍感だったんだろう。
今敏感になったのかと言われるとわからないけれど、あの頃よりはマシだと思う。
あんなにも蓮が俺に小毬の事を伝えてきたのも、今なら分かる。
小毬が、俺に対していつもどんな顔をしていたのか。
それが他人とどう違うのか。
分かっていれば何かが変わっていたのかも知れない。
それでも、結局こうなっていたとも思う。むしろ、悪化していたかもしれない。
そう思えば……あの時何も気づかなくてよかったのかも知れないと、本気で思う。
美紅のことだけを除いて。