41過ぎ去った嵐と消えない傷跡
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朦朧とした意識で、家までひとりで帰った。
呆然と立ち尽くしてなにも出来ないままのあたしを、トモが電車まで一緒に行ってくれた。
何か言葉を交わした気がするけれど、なにも思い出せない。
ただ、小毬に知られてしまったことだけが、頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
どうしたらいいのかわからない。
あたしは……何であんなことを。
何で、あんなタイミングで小毬が。
口にしなきゃよかったんだ、やっぱりそうなんだ。なにも言わなければよかったんだ。今までのように、気づかないふりをしてなくちゃいけなかったんだ、やっぱり。
何も口にしちゃいけない。
我慢しなきゃいけない。
人を傷つけるくらいなら。大切な人なら、なおさら。
あたしはいつもこうだ。口にしていつも、後悔してばかりだ。些細なことも大事な事も。
家に着いたことに気がついて、玄関に鍵を差し込んだ。
……けれど、かけられてない鍵に気がついて、そのままなんとなく疑問を抱きながらドアを開ける。
なんで、鍵、閉め忘れたっけ……?
ハッキリしない頭では今日の朝なんて思い出せるはずもない。
「あ、楓?」
中に入って、玄関に並ぶ靴が目に入ると同じタイミングで声が聞こえる。顔を上げれば……母があたしを見て「おかえり」と微笑んだ。
……まだ帰ってくるには早い時間なのに……どうして家にいるの? それに今日は……。
「な、んで? 今日……ふたりでご飯、食べてくるって……」
「まあ、そうなんだけど」
困ったように微笑む母に、今から出かけるのかなと思いながら靴を脱いでリビングに足を踏み入れる。
そこにはすでに父も帰宅してくつろいでいた。
ああ、出かけるから、ふたりも早く帰ってきただけなんだ。それだけのこと。ふたりの時間のためにたまたま、家にいただけ。
そう思い知らされると、ずしんと胸が重くなって息苦しくなる。
「お帰り、今日は早かったな。友達とご飯食べに行くんじゃなかったのか?」
「ふたりこそ……」
愛想笑いもできないまま、素っ気ない言葉を返す。
どうせ今日もひとりきり。……義一の家にだって行けないから、ひとりきりで過ごすんだ。
結局そんなふうに今日を過ごすなら、一瞬でも人といたくない。
そう思ってそそくさと自分の部屋に入ろうとすると、視界の端にリビングのテーブルが見えて、思わず脚が止まる。
……どうして?
今から出かけるんじゃないの? やめたの? そう聞きたくなるほど、テーブルの上に並べられた食事。
なんでこんなものが?
それとも、あたしも帰りが遅いから、ふたりで家でゆっくり過ごすつもりだったのかもしれない。
……だとしたら……あたしは邪魔かもしれない。自分の家の中ですら。
机を見つめたまま立ち止まるあたしの肩に母が手を乗せる。
揺れる瞳を向けると、にっこりと微笑んで「一緒に食べよう」と告げた。
「楓と、三人でご飯が食べたくて」
なにを……? 何で急に……そんなことを。
ほら、とあたしの手を引いて、「今日は楓が帰ってきてくれて嬉しいわね」とリビングにいた父と微笑みあった。
「楓がなかなか一緒にご飯食べてくれなかったから、寂しかったな」
「まあ、年頃的に……仕方ないとは思うんだけどね。あ、ちょっと待っててね、楓の分もすぐに用意するから」
「ほら、楓。今日は出来たてが食べれるぞ。いつもタッパーのご飯じゃ楓も家で食べるの嫌になるのもしかたないけど、今日は美味しいぞ」
なにを、言っているんだろう。
タッパーのご飯って……。
いつも冷蔵庫に入っていたもの。
ただ余り物を入れているだけだったんじゃないの?
中は確認していなかった。
だって家で食べるのは美味しくないし、いつもあるからよくわからない。気がついたら増えていて、そのときは食べたりしていたけれど……。
増えたり減ったり。それは……作られたものを保存していたからでしょう……?
残っていたご飯をふたりが食べたから、減っているのだと思っていた。
どれもがついでで、あたしのためなんかではないと、思っていた。食べたいなら食べてもいい、その程度のものだと思っていた。
ふらふらと冷蔵庫に近づいて、扉を開ける。
中にはなにも入っていない。代わりに、綺麗に洗われた空のタッパーが流しに並べられていた。
——いつも、毎日、詰め替えられていたの?
「……ふたりで、ご飯……いつも、行ってたんじゃ」
ふたりで出かけると、そう言った日。
あたしはたいてい家には帰ってなかった。
いつも彼氏の家に行ったり、小毬の家にも行ったことがある。深夜まで遊んで、夜遅くにこっそりと帰ってきたり。
「楓を誘っているのに、楓がいなかったら行くわけないじゃない」
なにを今更、と言いたげに笑う母。
大事にされたかった。一番になりたかった。心配されたかった。
心配はされてなかった。それは……あたしが大丈夫と笑うから。
一番にはならなかった。あたしが自ら離れたから。
大事にされてなかった。あたしが自ら手放していたのだから。
「楓!?」
驚きの顔を見せる両親が、視界から歪んでいく。
「う……うあ……。あ、あ、あー……」
子供のように、上を向いて、口を大きく開けて、ただ、叫ぶ。涙をぼたぼたと零しながら。
わかってほしかった。
本当はちっとも強くないし、えらくないし、いい子でもない。
悪い事だってたくさんした。それでもいい子だと疑わずに、何も言わない両親が嫌でたまらなかった。
気づいて欲しかった。
本当はいっぱいため込んでいて、苦しくて、悲しかったこと。
でも、気づいてはもらえなかった。
そうしたのはあたしだった。そしてその代わりに、あたしは……ふたりに、両親に、きっとたくさん悲しい思いをさせてしまっていたんだ。
追いかけて探しに来てくれた小毬。
離れたのに、あたしに言葉をかけてくれたトモ。
あたしにちゃんと“小毬を大事にする”と言った蓮。
彼女を好きだと、告げた蒼太。
あたしを、抱いて、そばにいてくれた義一。
みんな、あたしの行いに対して、みんななりに、あたしの想いに応えてくれていた。
大丈夫じゃないなら、そう言えばよかった。
無理をして勝手に辛い思いを抱いて、それでもいい子になりたくて、だけど心配されたくて。
口に出せない思いが勝手に自分を追い詰めていたから、こんな風に……子供の様に泣いてしまう羽目になってしまった。
みんなを、知らず知らずに傷つけてしまった。
もっともっと、向き合っていたら、素直になっていたらこんなになるまで自分を追い詰めず、人を傷つけることもなかったのに。
「うあ、あ……あ……」
両腕で顔を隠し、それでもこぼれ落ちる涙を必死に堪えても、想いが溢れるように涙も嗚咽も止まらない。
そばでオロオロする両親があたしに声をかけてくれたのに、それに反応することも出来なかった。
ただ言葉のしゃべることの出来ない子供のように泣き続け、いつの間にか抱きしめられた母の胸の中で、「ごめんなさい」と、しゃっくり混じりに、小さく、何度も、呟いた。
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空は晴れていた。
泣きながら寝たせいか、瞼が重く、腫れぼったい。
「おはよう楓」
母と父はそう言って、あたしにいつも通りに微笑みそれ以上なにも聞いてこなかった。
昨日も、始めはどうしたのかと口にしていたけれど……泣き続けるあたしを見て次第になにも言わず、ただ、抱きしめてくれた。
きっとこの先も、なにも聞いてこないだろう。
それがあたしの望んでいることだと、そう考えてくれているから。
だからもう、言われないから心配されていないなんて、あたしは思わない。いつか、言葉にできるようになったら、ちゃんと告げたいとは思うけれど……今はまだ上手く伝えられないし、今はこれで充分だ。
ため込んだ想いが常に心のどこかに塊になって残っていた。
気がつかない間に大きくなって、ふくれあがって。いろんなものにまで不満を抱いていた。
「行ってくるね」
昨日のあたしを見たから心配してくれていたのか、両親はあたしを見送ってくれた。
いつもは、朝起きたからいつもいないのに、今日はあたしのほうが両親よりも家を早く出る。
駅に向かう途中に、小毬にメールをした。
ただ、『昨日の話を、ちゃんとしたい』と、それだけの内容。
まだ、自分の気持ちが完全に晴れたわけじゃないし、自分の口にしたことで、小毬がどれほど今、苦しんでいるのかと思うと……またなにもかもを忘れて気づかないふりをしたいとさえ思う。
冗談だよ。
あれはあたしの憶測。好きにも色々あるじゃない。
そう、言えばいいのかも知れない。
でももう、傷つけたくない。これ以上。
知られなければこのまま、言わないでいただろう。けれどもう、自分だけを守りたくない。同時に、もう、自分が苦しいことはしたくない。
素直になって、言葉にして、気持ちを伝えていきたい。口にするから失敗していたけれど、大事な事を言わないから、あたしは後悔していたのかも知れない。
かっこ悪くても弱くても、みっともなくて、子供の様でも。思いを素直に告げて、そして相手の気持ちを素直に受け止めることが……したい。
「ごめんね」
空を見上げ、すかっと晴れた青空に小さく呟く。
そして、じわっと浮かんだ涙を軽く拭った。
わがままかも知れないことはわかってる。これが正しいかはわからない。また間違っているかもしれない。
だけど、これしか選べない。
ポケットに戻したばかりの携帯を再び取り出して、今度は義一にメールをした。
『大事にしてくれてありがと、大事に出来なくてごめん』
送信ボタンを押して、そのまま義一のアドレスを、消した。
好きだったよ。傍にいてくれて幸せだった。それを今度は、ちゃんと相手に告げられる、そんな人と過ごして素直に、口にしたい。
うるさいほどに、あたしの心の中で鳴り響いていた本音は、思う存分泣いて寝たら、ほんの少し、清々しい気持ちに変えてくれた。
またいつか、同じような気持ちになることがあるかもしれない。
そのとき、今日のことを思い出せたら、いいなと思う。雷鳴の日々のあとの、この晴れ晴れとした気持ちを、忘れたくないと、そう思う。