39轟きに耳を塞げ
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ふと、目が醒めると、部屋の中の灯りがついたままだった。
……あのまま、寝ちゃったのか……。
上半身を起こしてぐいっと背伸びをしてから、ベッドを降りる。傍にあった携帯電話で時間を確認すると、七時半を回っていた。
この時間なら普通に学校には間に合うな。
「行きたくないな……」
そんなふうにこぼれ落ちた独り言。
高校に入ってからは今まで、そんなこと思わなかったのに。
中学まではほぼ毎日行きたくなかった。行く必要も感じてなかった。どうでもよかった。でも、高校に入ってからは毎日学校には行っていた。
寝坊しても、彼氏の家にいても。めんどくさくて遅刻ばかりだったけれど、高校をイヤだと思った事はなかった。
ゆっくりと立ち上がってそのまま制服に着替える。一階に下りると、誰の気配もなかった。ただ、テーブルの上にパンと卵焼きが置いてあるだけ。
今日はあたしが家にいたから、ご飯を用意してくれたんだろう。
こんなことしなくてもいいのに……。
きっともう仕事に行ったんだろう。誰もいる気配のないリビングに残された朝食は自棄に淋しく見える。
顔を洗ってから、とりあえずご飯に手をつけて、時計の針が動く音に耳を傾けた。
なんて、孤独なんだろう。
そう思うのは……被害妄想かな。
ひとりで自嘲気味に笑ってから、半分ほど残したお皿をそのまま流しに持っていって捨てる。なんの味もしない目玉焼きは今まで一番まずく思った。
制服に着替えたけれど、どうしても体が重く、学校に行く気にはなれなくて。かといって誰もいない家にいるのはもっと苦痛で、義一にメールをした。
『今から行く』
それだけのメール。電話でもいいかな、と思ったけれど、バタバタしていたら悪いし。
返事がこないまま、電車に揺られて義一の家に向かった。
どこにいってもひとりなら、狭い家に、狭い部屋に、いたかった。
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電車に揺られて、義一のマンションを目指す。
まだ、この時間なら家にいるかもしれない。携帯の時間を確認すれば、八時過ぎ。いつも半くらいには出て行っているから、会えるかも。
連絡はまだない……彼女と毎朝の電話をしてちゃんと届いていないのかも知れない。
会いたい。会って甘やかして欲しい。ほんの一瞬でもいいから。
義一に甘えているのかと言われるとそうでもない。甘えるようなキャラじゃないし。だけど義一は甘やかそうとしてくれる。
それでいい。そのくらいで丁度いい。
マンションが見えてきて、何となく心が落ち着いてくる。未だにメールの返事がないのは少し気になるけれど、昨日仕事が忙しいとか言ってたっけ、とそのまま部屋に向かって歩いた。
「——じゃあね」
エレベーターを降りて、彼の部屋に向かおうと思った時。
聞き慣れない女の人の声に瞬時に体が何かを感じ取って脚を止めた。
声のした方をみると、丁度玄関から女の人が出て来たのか中を見て誰かと話す姿。
間違えるはずのない、部屋の前で。エレベーターから右に行けば、一番奥が義一の部屋。その、部屋の前で。
頭で考えるよりも先に、慌てて通路を左に走って、柱の影に身を潜めた。
「仕事頑張って、行ってらっしゃい」
「義一もね、遅刻しないでね」
ふたりはエレベーター前までやってきて、声を掛け合う。
あたしの時は、こんな風に見送ってくれないのに。
どくんどくんと胸が響く。体全体に嫌な汗が流れる。
一体自分が何にこんなに動揺しているのかわからない。
あたしの存在がばれること? それとも、彼女を見てしまったこと? それとも——何?
微かに聞こえたリップ音に、ふたりが唇を重ねたことが分かった。
このまま、ふたりの前に出て行ったらどうなるのだろう。ほんの二、三歩前にでて、義一に笑いかければ……誰だってわかるはずだ。自分の彼氏が何をしているのか。自分の彼氏が、自分だけを愛でていなかったことが。
そんな思いを堪えるように拳を作って、息さえも止めて過ごした。
エレベーターが再びやってきて彼女を連れ去ってくれるのを待つ。
……早く、きて。じゃないと……自分が何をするのかわからない。
「じゃ、また週末に」
その言葉と同時に、ウィーン、とエレベーターが動く音が聞こえて、は、と息を吐き出した。乱れる呼吸が、あたしの心臓をより一層荒げる。
だけど、それが整うことを待つ余裕もない。
「……義一」
一歩前に進んで、部屋に戻ろうとしている彼の背中に呼びかけた。
彼は大げさにビクリと体を震わせてから、振り返る。その顔は、焦りと、驚きの、どちらも含まれていた。
「か、えで……びっくりした。いたのか」
「メール、したけど」
「ああ、あいつと一緒にいたから見てなかった。ごめん」
悪びれもなく、そう告げる。
ああ、この人も結局彼女が大事なのか。あたしよりも。
そりゃそうか。あたしはただの浮気相手だもんね。
そう思うと自嘲気味な笑みがこぼれて、無性に泣きたくなってきた。
悲しいわけでもない。ただ、空しい。
その感情が一番当てはまる。
分かっていたはずなのに、バカだ……あたしは。元々この人に恋だの愛だのを求めたつもりもない。ただ、居場所が欲しかっただけだったのに。
……ちがう。
求めても手に入らないから、求めないようにしていただけ。
今まで……そして、これからも、そうするのだろう。
「今日、家にいてていい?」
立ち止まってあたしを待つ義一に近づいて、俯きながら呟いた。顔が見れなかったわけじゃなく、顔を見られたくなかったから。
「あーそのことなんだけどさ」
言いにくそうに言葉を濁しながら、義一はあたしの肩に触れる。その手に視線を移してから、顔を上げて彼の顔を見つめた。
「当分、ちょっと、無理」
「——な、んで?」
「あいつに、疑われてる。昨日も……連絡なしに家に来て、多分疑ってると思う」
昨日の電話は、やっぱり嘘だったのか。
ふと、今更そんなことに気づいて絶望にも似た感覚が、あたしを襲う。
仕事で忙しい、そんなセリフを彼女に告げているのをあたしは何度も耳にしたのに、あたしは全く疑うことなく信じていた。あたしには、そんなことしないと思っていた。
「や、だ」
「楓、ばれたら、それこそ終わりにしなきゃいけないんだから」
「やだ」
両肩に手を乗せられて、義一は「楓?」「な?」と子供を諭すように何度もそう告げる。義一は動かない。それはつまり、あたしをここから先に行かせないためなんだろう。
「なんで、いやだ。そんなのいや」
「楓? 楓頼むから困らせるなよ。そんなワガママ今まで言わなかったのに、どうしたんだよ」
はあ、と困ったようにため息を零した彼に、体が強ばる。
ワガママ。そうだ、確かにこれはあたしのワガママ。今まで口にしなかったワガママ。
一度も言わなかった、だから……義一の傍にいれた。
傍にいるためには、ワガママは言っちゃいけない。
「ご、めん」
気がつけばそう呟いていて、一度俯いて、ゆっくりと目を閉じた。
こぼれ落ちそうな涙をぐっと堪えるように下唇をぎりっと噛む。そして、顔を上げた。
「ごめん、ちょっと嫌なことあって困らせちゃった。わかった。また、連絡して」
へらっと笑って勢いよく話す。
義一が話す隙を作らないように、必死で話して、そのまま「じゃ」と彼の手から逃げるようにして背を向けた。
「ごめんな」
謝らないでよ。その謝罪にはなんの意味も込められてないクセに。
謝ったところでなにもしないくせに!
「……彼女の方が、大事だもんね、仕方ないよ」
自分の吐き出した台詞が、ナイフになってあたしの胸に突き刺さる。
あたしよりも、彼女の方が大事。
そんなの当たり前で、そんなの今更で、それを分かってあたしは義一のそばにいた。
「楓はいい子だね」
ぽんっと頭に手を添えられて、ガラガラとなにかが崩れる音が響いた気がした。
今、義一がどんな表情をしてあたしを見ているのか見るのが怖くて、そのままやってきたエレベーターに足を踏み入れる。
——いい子ってなんなんだろう。
いい子でなんかいたくないのに。いい子でいたくないのに、みんな勝手にそんなことばかり。
「ふ、ふふ……」
ひとりきりになったエレベーターで、笑いがこみ上げた。
笑いながら、涙をこぼして、その場にしゃがみ込んだ。
何を泣いているのか自分で分からない。
いい子にしようと見せている自分がいるのだからなにも間違っていないはずなのに、なんでこんなにも悲しいんだろう。
あたしがいい子を演じるのは、嫌われたくないから。
父にも母にも、義一にも。
なのにどうして。こんなにも悲しいんだろう。こんなにも苦しくて、裏切られたような気がしてしまうんだろう。
——いっそ嫌われた方が楽なのに。
誰にも勝らない、あたしの存在は……一体なんなの。
大事にされてないわけじゃない。
そんな不満を言えるほど子供じゃない。
だけど、誰からも一番大事にされないのは、なんでなの。
心のどこかであたしは、義一の彼女をバカにしていた。
付き合っていたって……あんたの彼氏は浮気しているんだと。裏切られているのは彼女の方だと。彼女よりもあたしは義一と一緒にいる。肌も合わせ重ね、一緒に眠っている。
自分が彼にとって一番だと思ってるんだろう。
だけど一番の裏切りを、あたしと共に犯している。
「バカは、あたしだ」
結局義一は彼女を選ぶ。
どちらかを切り捨てるなら、彼は迷いなくあたしを切り捨てるだろう。
今日、あたしを拒絶したように。
裏切られても、一番大事にされているのは——彼女。
あたしは、都合のいい女だっただけ。
分かっていた、分かっていた、それくらい分かっていた! 分かっていたけど……それでも傍にいたかった。
誰かに必要にされたかった。
あたしだけを愛してくれれば、あたしは迷いなく愛するのに。愛する人に必要にされればなんだって出来るのに。
いい子になればなるほど……見向きもされないんだ。
悪い事をしたって……見向きもされないほどに。
いい子にしたかったわけじゃない。いつだって何も気にしないわけじゃない。そんな素振りをしていても、中身までそうなわけじゃない。
あたしはただ、気づいて欲しかった。
——『楓ちゃん怒っているの?』
友達に言われたセリフ。
きっとそのとき、あたしは怒っていたんだろう。何に怒っていたか何てもう覚えてないけれど……何かに不満を抱いていたんだろう。
けれどきっとあたしは『怒ってないよ』と笑って流したんだろう。
幼いながらに、何でもないことのように笑ったんだ。
本当は気づいて欲しかった。そう言って欲しかった。求めていたセリフに、あたしは甘えることもできないでそのまま流した。だから今もこのセリフが胸につかえているんだろう。
「怒ってる……」
ううん、違う。
本当は違うんだよ。
「……悲しい」
本当はそう、言いたかった。