37東の空は暗黒
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「やっぱりいた」
四時間目を抜け出して、屋上に行くと、そこには蓮がひとりで煙草を吸いながらカメラを手にしてフェンスにもたれ掛かっていた。
いればいいなと思ったけれど、本当にいるなんて。あたしの出席日数も危ないけど、蓮もいつ授業に出ているのが疑問で仕方ない。
「よ。今来たのか?」
「タバコの吸い殻ちゃんと処分してよ? 屋上立ち入り禁止になったら困るんだけど」
タバコをくわえたまま、驚く様子もない蓮に、思わずため息が漏れる。
そのまま蓮の隣に並んで、同じように空を仰いだ。蓮はなにも言わずにカメラ越しに空を見つめて、今日は雨が降るかもなあ、なんて小さな声で呟きながらシャッターを切った。
雲が流れていく。じっと見ていると、わずかに少しずつ、視界から消えてゆく。
「雨降るかもな」
「……蓮、そんなのわかるの?」
「毎日見てりゃなんとなく」
あたしも空は毎日見てるけど、わかんないや。
蓮の目には、この空はどんな風に映っているのだろう。彼の写真を見ればわかるのかな。
「どうしたの、急にカメラなんか持ってきて」
「んー、なんとなく」
「前は結構撮ってたけど、久々じゃん。どういう心境?」
問いかけると、蓮は意味深な微笑みをあたしに向けた。
「蓮は写真好きだったね」
「いろんな日を一度に眺めることが出来るからな」
「最近撮ってなかったくせに」
「はは、まあな」
バカにしたけれど、正直意外にちゃんとした理由があって驚いた。
いろんな日々を一日で見ることが出来る。
蓮はそんな事を考えながら写真を撮っていたのか……。
だけど、蓮の性格を考えれば、妙に納得する自分もいる。
蓮にとって、今の日々は何度も過ごしたいほど大事な日々なのかも知れない。こうして傍に居続けることが出来る日々。そこに理由はいらなくて、それだけで愛しいのかもしれない。
そんな風に思えるなんて、羨ましい。あたしの毎日とは大違いだ。
「ねえ、蓮」
「ん?」
静かな屋上に、あたしたちの大きくもない声は、とてもよく響き渡った。
「どうして、小毬と付き合おうと思ったの?」
「……なにそれ」
あたしの真面目な視線に、蓮が苦笑を零す。
「この前、ここに来ようとしたとき。蓮とトモの会話、聞こえたの」
蓮の目を真っ直ぐに見つめたまま語り続けると、蓮の顔がみるみる固まっていく。
こんな顔できるんだ。
いつも飄々として、動揺することなんてないと思っていた。なんだ、人間らしいじゃない。
でも、あの日。
トモとの会話で聞こえてきた蓮の声は、とても感情的だった。
そう、あの日。
聞くつもりはなかったけれど、聞こえてしまった会話。
信じられなかったと同時に、ああ、そうなんだと、やっぱりかと、心のどこかで思った。
「蓮が好きなのは、蒼太なんでしょ? それ聞いて、今までの不思議な感じに納得できた。蓮はいつも二人をみてたものね。あたしずっと小毬のことを意識してるんじゃないかと思ってた。好き、とはなんか違うんだけど」
あたしの視線から、逃げ出すように蓮が地面を見つめる。
このまま見つめ続けたら泣いてしまうんじゃないだろうか。微かに震えている気がしたのは、あたしの気のせいかな?
「……お前に、関係ないだろ」
「小毬は、あたしの友達だもの」
蓮は苛立ったように、タバコを落として乱暴に踏みつけた。
なんで苛立たれなくちゃいけないのよ。
むっとしてそのまま蓮を睨み付けると、蓮は「く」とのどを鳴らした。
「じゃあなに? 小毬と別れろってこと?」
「そんなこと言ってないけど。小毬がそう決めたなら、蓮もそう思ってるなら好きにすればいいけど……ただ、気になっただけ。蓮は……小毬と付き合っていくつもりなのか」
「お前のお節介もここまで来たらあっぱれだな」
蓮は皮肉めいて笑う。その表情にはほんの少し自嘲もこもっていたような気がする。
本当なら、知らないふりをしていた方がよかったのかも知れない。
蓮だって知られたくなったに違いない。
だけど……。
ただ、蓮の口から聞いてみたくなった。
これもお節介かも知れないけれど……それでも黙ってられなかったんだ。
どうして小毬を? なんで小毬を? どういうつもりでこれからを過ごすの?
「小毬が当てつけなら……」
「……ちゃんと、付き合うよ」
思いの外、真面目な台詞が返ってきて、思わず言葉を失った。
真面目な台詞に、真面目な表情。そしてどこか、優しそうにも見える。
蓮がこんな顔をできたことも、驚き。
「ちゃんと、小毬を大事にするつもりだ」
「そっか」
なら、よかった。
ああ、よかった。
それでいいのに、なんだろうこの心にぽっかりと穴が空いたような気持ちは。
・
窓の外から、生徒が帰っていく様子を眺める。
みんなアリみたいで気持ち悪い。一定方向にみんなが動くから余計に思えるんだろう。
制服も黒っぽいし。見てると気分が悪くなってきて視線を外すと、丁度教室を後にしようとしているトモの背中が目に入った。
大きな荷物もってどこに行くんだろ。
窓に肘をのせてぼんやりと眺めていると、トモはあたしの視線を感じたのか振り返って、そしてあたしを哀れむような視線を向けてから……再び背を向ける。
——置いて行かれた。
ふと、感じて一気に焦りを抱く。
なんでこんな思いをしなくちゃいけないのか分からない。そもそもなにに、どうして置いて行かれた、なんて思うのか。
自分でも分からない。
ゴロゴロゴロゴロ……と、晴れた空に音が響いた。
蓮の言ったように、今日は午後から雨らしい。
毎日見つめている、と自分で言うだけあって、天気予報士になれそうだ。
蓮との会話を思い出すと無性にむしゃくしゃして、カバンを肩に引っかけて廊下に出た。
こんな気分になる自分が一番むかついてくる。
なんで苛立ってしまうんだろう。
とりあえず、帰ろう。今日はお母さんから帰りが早いとかメールが届いていた。お父さんもきっと早いだろうし、家にいてのんびり過ごせば……きっとどうでも良くなるに違いない。
「あ、楓、帰り?」
廊下に出るとすぐに聞こえた小毬の声に振り返ると蓮と並ぶふたりの姿に、思わず脚が止まった。
蒼太といるだろうと思ったのに、蓮が隣にいることに驚いた。
なぜかふたりの姿を直視できなくて、明後日の方を見つめながら「うん」とだけ返す。
小毬と付き合っているのは蓮なのだから、なにもおかしことはないのに、なんで見ることが出来ないの? なんで、違和感が拭えないんだろう。
ちらりと視線を向けると蓮と目が合って、どこか気まずい気持ちになる。
——『ちゃんと、小毬を大事にするつもりだ』
それでいいのに、どうして、あたしはその言葉によかったと、心の底から思えないんだろう。
それ以上になにを望んでいるんだろう。
大事にするならいいじゃない。
それとも……小毬のことを好きじゃないってことを知っているから、信じられないのかな。
「ふたりで帰るの?」
遠回しに蒼太はどうしたのかという意味を込めて聞くと、小毬は「蒼太は、デートだって」と微笑みながら言った。
複雑そうな微笑みで。
……それを見て、蓮はどう思うんだろう。
自分も一緒だから別に構わないとか思うのかな。
小毬は……そんな表情をしている自分には気づかないの? 隣の蓮がそれを見てどう思うのかとか、考えないの?
「じゃあふたりもデートってわけか」
「なんか恥ずかしいからやめてー……」
顔をまっ赤にして慌てる小毬に、蓮は相変わらずの表情で「楓も行くか?」と聞く。
ほんっとバカじゃないの?
「行かないし。邪魔もの扱いされたくないもん」
「そんなことしないよ。映画行くんだけど、楓もおいでよ」
「楓挟んで三人並ぼうぜ」
ばーか、と最後に付け足してふたりに「いってらっしゃい」と言った。
なんでそんなもんにあたしが参加しなきゃいけないんだか。このふたりは本当になに考えてるんだろ。意味わかんない。
ふたりとも「来ればいいのに」「気にしないでよ」と何度か言っていたけれど、あたしが笑って手を振るとなにかを話しながら背を向けた。
……今までだったら、どうしていただろう。
あのふたりがどこかに行くことなんてなかったからわかんない。
これが蒼太と小毬だったら……あたしは気兼ねなくついて行けたかも知れない。それとも、蓮と今日、話なんかしなければよかったのかも知れない。
——蓮はどうして、小毬を選んだんだろう。
蒼太のことがあるからといっても、小毬を選ぶ理由にはならない。蒼太のことを同じように好きな小毬を選んだのは……なんで?
同類だから? 報われない物同士手を取り合いましょうって?
「くだらない」
ふ、とひとりで鼻で笑った。
そんなの意味がないのに。バカみたい。
大事にするって口先だけだ。
蓮が蒼太を好きってことはさすがに驚いたけど、やっぱり結局そんなに好きでもなかったんじゃなかな。だって今まで女と付き合ってきたし、今だって小毬と付き合ってる。
それで実は——なんて。そんなのおかしいじゃない。
「あれ? 楓も今帰り?」
びくっと大げさに体が飛び跳ねると同時に、隣にひょいっと蒼太が現れた。諸悪の根源、というべきなのかもしれない。今は。
こんな日に限って次から次へと呼びかけられるなんて、心臓がいつか止まってしまうかも知れない。
「なにびびってんの?」
「気配なく、近づいてくるから」
ははっと笑って隣で足を止める蒼太に、いつも通りに返す。あのふたりの姿はもう見えなかった。
ふたりを蒼太が見たらどう思うんだろう。
そう思うとなんだか落ち着かなくて、ふたりがもう見えないことにほっとした。だけど、なにかがきっかけになってこの気持ち悪い関係を破壊してくれたらいいのにと願う気持ちもある。
「駅まで一緒に行く?」
「デートじゃないの?」
「よく知ってるな。でも駅までだし関係ないだろ」
そう言ってそのまま歩いて行く蒼太は、あたしがついてくるのをわかっているかのように自然だった。
だけど、どこかその後ろ姿に、ついてきて欲しい、と言っているような気がして、ひとりになりたかったけれど仕方なく蒼太の隣を歩く。
今までと違う。
ただ、そう感じた。
蒼太とふたりになるのが初めてだからとか、そんな分かりやすい理由じゃなくて、ただ、なんとなく。
蓮と小毬は付き合った。
きっかけはどうであれ。ふたりの本当の気持ちはさておき。付き合ったことには変わりない。
そして、蒼太は他の彼女が出来た。
高校に入ってから、誰かに告白されても、断っていた蒼太が。
「どうして」
零れる。言葉と気持ちが。零れてしまう。
「ん?」
「どうして、彼女なんか作ったの」
蒼太は小毬が好きだったはず。
確かめたことはないけれど、そうだと信じている。いや、確信している。蓮だってトモだってわかっている。
小毬だって心のどこかでわかっているはず。
なのに。どうして。
言葉を発した後に蒼太の顔を見るためにゆっくりと、顔を上げると……蒼太は、笑っていた。
「……好きだったから、だよ。なに言ってんの、楓」
「嘘つき」
気がついたらそう声にしていた。
だって笑ってるから。笑えるはずがないのに。おかしいじゃないそんなの。
「……違うよ」
「なにが違うのよ。メンドクサイ。ふたりとも、いや三人ともメンドクサイったら。中途半端はやめてって言ったら彼女作るとか。なんでそんな選択を選ぶのか全くわかんない。バカじゃないの?」
イライラが募っていく。
ぷいっとそっぽを向いて文句を垂れると、蒼太は「あはは」といつもの声を出した。
「楓はいつも怒ってるなー」
それは、あんたたちが煮え切らないからよ。
中途半端なことばっかりして。なにがしたいのかわからないから。蒼太の他人事みたいな言葉に、イラッとする。
「蒼太はずっと、小毬だけを大事にするんだと思ってた。それがどんな形であれ」
「大事だよ」
間髪入れずに蒼太は柔らかい微笑みとともに、そう、迷いなく答えた。
「大事だから、蓮と付き合ってよかったと思ってるし、俺も千晴ちゃんと付き合ってよかったんだ」
意味がわからない。みんな理解不能だ。
大事にするってなんなんだろう。そんな風に大事にしかできないなんて、大事にしてないのとなにが違うの。
だけど。それでも。
蒼太と蓮にとっての大事な存在は間違いなく小毬なんだ。
それは——あたしじゃない。
じゃああたしは……?
「あ、千晴ちゃん」
いつのまに駅に着いていたのか。
その間になにかを話はしたと思うけれど……きっとあたしは上の空で返事をしていたのだろう。
蒼太の声に顔を上げると、駅前にかわいらしい女の子がこちらを見て微笑んでからぺこりと頭を下げた。
あたしを見て、誰? と問いかけるような視線に気づかないようにしてあたしも軽くお辞儀をして「じゃあね」と蒼太に声をかけてから背を向ける。
確かに可愛い。文句のつけようもない。
彼女のことを可愛くないなんて言うのは、ただの嫉妬にしか聞こえないくらい可愛い。
しばらく背を向けたまま歩いて、ちらっと後ろを見ると、ふたりは仲よさげになにかを話しながらあたしから遠ざかっていく。
きっと、彼女は誰? とかそんなことなんだろう。
あの子は、本当に蒼太のことを好きなの?
なんで、いつ、どこで、蒼太を好きになったの?
合コンで出会ったからとか、電車で見かけていたからとかそんなことを蒼太が言っていたけど……。蒼太は本当にその子が好きなの? その子も本当に好きなの?
ふたりの後ろ姿に疑問を抱く訳じゃない。誰がどう見たって仲のいい恋人同士だ。
——蓮と、小毬だって。
あたしはなにが不満なの。
ぶんぶんと、長い髪を振り乱すようにして首を振って、ふたりの背中から目をそらした。
帰ろう。意味わからないのは自分の感情だ。
「生理前かな」
この前来たばっかりなのに情緒不安定だ。なにに苛ついているんだろう。