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青に侵された屋上  作者: 櫻いいよ
Ⅴ黄色の雷
35/53

35稲妻は遥か遠く、だけどそこに




「——で? 楓?」

「……ん?」

 体を揺さぶられて、そして微かに聞こえてきた呼びかけに、視界が開かれる。

 霞んだ視界の先に、スーツ姿の義一が腰を折ってあたしを見下ろしていた。

「制服のままソファで寝て、風邪引くぞ?」

「……あ、おかえり」

「ったく……ただいま」

 会話の成り立たないあたしを見て、義一が呆れ気味に笑い、あたしの頭を撫でる。

 言葉は素っ気ないけれど、仕草がいつもあたしを甘やかしてくれる彼に、寝起きに誰かが傍にいるのっていいなと毎回感じる。

 だからあたしはここに通ってしまうんだ。


 いつのまに眠ってしまったんだろうと思いながら、腰を上げるとスカートはしわくちゃになっていた。

 近くにあったいつものジャージを手にとって皺になったスカートを脱いでまだぼんやりとした頭で着替え出すと、「なにそれ、誘ってるの?」と義一の声が聞こえて顔を上げる。あたしを見て微笑む彼と視線がぶつかった。

「勝手に誘われてるだけでしょ? それとも義一が誘ってるの?」

 下半身だけ下着姿になったまま、堂々とそう答えると、ネクタイをほどいた義一がそばに寄ってくる。

 太ももにふわりと触れるその手は、あたたかい。

 意地っ張りで負けず嫌いのあたしの性格をお見通しかのように、義一は優しく微笑んで、あたしの肩に優しい口づけを落とした。

 どういうつもりでそんなことをするのかは分からないけれど、嬉しそうな彼を見ると、こんな素直じゃないあたしでもいいんだと言われているような気がする。


 義一は優しい。優しい上に充分すぎるほどの愛を注いでくれる。それはあたしだけじゃないだろうけれど……。

 こんな人が二股してる、なんて彼女も知らないんだろうな。

 そんな彼を知っているのは……あたしだけ。

 そんなことに優越感を抱くなんて、なんてバカなんだろう、とは思う。


 "一番"じゃない。だけど……あたしが一番傍で、あたしだけが全てを知っている。



「楓、ご飯食べる?」

「うん」

 ジャージとTシャツに着替えた義一がキッチンに立ってあたしに声を掛ける。その姿を見て素直に頷くと、義一は満足そうに笑ってから冷蔵庫を探りはじめた。

 ビールを一本取り出してから、野菜を取り出して慣れた手つきで作っていく。

 その姿を見るのが、すごく好き。

 あたしの為に料理を作ってくれている姿は、すごく幸せな気持ちにさせてくれる。

「何? じろじろ見て」

「今日はなんのご飯かなって思って」

 いい匂いが部屋の中に充満している。

 ニオイからして……鶏肉かな。

 大人しくソファに小さくうずくまって、キッチンを忙しなく動く彼の背中を見つめながら満たされた気持ちを抱いた。



「ごちそうさまでした」

 数分が経って出て来た料理は、あたしの予想通り鶏肉の炒め物。

 程よい色つきが食欲をそそって、一気に食べ尽くすと、義一がクスクスと笑った。

 その笑顔が好きだ、なんて……柄じゃないから口にはしないけど。

「楓は美味しそうに食べるよね」

「だって美味しいし」

 食べ終わった食器を一緒にキッチンに運ぶと、途中の壁掛け時計が目に入る。時間は既に、十時過ぎ。

 もうこんな時間になっていたのか、とカバンの中の携帯電話を取りだしてみるけれど、誰からも連絡は入ってなかった。

 ……いつものことなのに。何であたしは気にしちゃうんだろう。

 未だかつて、あたしを心配するメールが入ったことなんか一度もないって言うのに。

 携帯をパタン、と閉じると、それを分かっていたのか義一が「今日はどうする?」と声を掛けてくる。

「……泊まる」

 泊まるつもりはなかった。けれど、今、帰る気持ちになれない。

 あたしの返事に義一は「じゃあお風呂入るか」とあたしを手招きした。

 自分でも説明出来ない気持ちを分かっているかのように、いつも以上にあたたかい笑みとともにあたしの手の握る。

 それが、どれほどあたしを癒してくれているのか、彼はわかっているんだ。


 義一と共に過ごす時間は、落ち着く。

 あたしを手招きして、あたしのことを気にしてくれる。あたしのままでいいと言ってもらえているみたいに。あたしが必要だと、あたしはあたしでいいのだとそう感じるくらいに。

 そんな時間を与えてくれるから、あたしは彼の傍にいたいと、思ってしまう。

 顔も知らない“彼女”を傷つけていることに気づきながら目を閉じて、耳を塞いで。刹那の癒しに縋ってしまう。


「携帯、鳴ってるよ?」

 バスルームに行く途中で義一の携帯電話が机の上で震えているのに気がついて声を掛ける。きっと彼女からのメールが電話だろうな、と、何も気にしない素振りをしながらも、複雑な気持ちになった。

「ああ、いいよ別に」

 そう言ってあたしの肩を抱く。


 彼女のいる人と付き合っていることに、自分で嫌悪感を抱くこともある。

 惨めだなとか、滑稽だな、と思う。

 だけど、だからこそ、彼女よりもあたしを優先してくれるような言動ひとつに、こんなにも幸せになったりするんだ。

 ……彼女よりも大事にされて嬉しいとか、バカじゃないのあたし。


 こんな時、普通のかわいい女の子ならどうするんだろう。愛されることが当たり前の女の子達はどういう反応をするんだろう。

 小毬も……こんな気持ちだったのかな。

 ずっと愛されていると思っていた。間違いなく愛されていると思う。

 けれど、蒼太の気持ちが真っ直ぐに向けられないから……蓮と付き合ったのかな。


 蓮が悪い奴じゃないことくらい分かってる。

 二年近く一緒に過ごしてきたんだから、そんなことはわかってる。

 何にも興味がないフリはしているけれど、何気なくみんなのことを気に掛けているのも蓮。興味がないのは適当に付き合ってきた彼女たちだけだろう。

 誰とでも付き合うクセに誰にも興味を示さない。


 そんな蓮にとって、多分あたしは唯一の“女友達”として特別な存在だったと思う。

 そして小毬は、その友達という枠に当てはまらない、もっと特別な存在だった。

 ただ、それを恋愛感情と結びついたものだとは……思っていなかった。

 だから、蓮には気をつけろって言ったのに。


 ……それでも。

 隣にいる義一の寝顔を見つめて小さなため息をつく。

 それでも。あたしが義一のそばにい続けるように、小毬も誰かにすがりたかったのかも知れない。かといって、あんなに恵まれている小毬が好きではない蓮と付き合うなんてことを納得出来るわけじゃないけど。


 小毬は今、何を思っているんだろう。

 あたしとの関係も微妙になってしまった今。

 そして、蓮が常にそばにいて、蒼太もいる今。

 何を感じているんだろう。

 そう考えると心がずしんと重くなった。



.

..

 。




「ああ、おはよう」

 遠くで声が聞こえる。

 耳に届く声に意識が目覚めて、瞼に光を感じた。

「わかってるって。大丈夫だよ」

 優しい声が聞こえる。ゆっくりと瞼を開いて声のする方に視線を動かすと……そこには義一が携帯を片手に誰かと話している姿が見えた。

 毎日毎日、マメだな。

 義一があたしに対してマメに連絡を取るのも、“彼女”と付き合っているからなのかも。


 私に背を向けてコーヒーを涌かしながら携帯電話で義一が彼女と話をするのはいつものこと。優しい声で、時折甘い台詞を見えない彼女に告げながら、苦いコーヒーを煎れる。

 そしてそれはあたしのためのもの。

 義一の家に泊まると、必ずいつも煎れてくれる。

 あたしのためだけじゃなくて、義一も飲むからだってことはわかっている。けれど、一人分から二人分に増えたことに、意味を感じるのは馬鹿げているだろうか。

 ゆっくりと物音を出さないようにベッドから腰を上げると、義一は携帯電話を耳に当てながら振り返って、あたしに『おはよう』と告げるかのように微笑んだ。


 優しい人。優しい仮面を常に被り続けているのかもしれない。だけど優しいことには何らかわりない。

 私はそれを何よりも求めているのだから。


「ああ、じゃあ、頑張って」

 最後にそう告げて携帯電話を机に置くと、義一はあたしのためだけにその声も顔も神経も使ってくれる。

「おはよう楓」

「ん、おはよう」

 毎日本当に仲良しね、なんて、皮肉を口にしたら、義一はどんな顔をするだろう。

 服を身につけないままベッドに腰掛けたままのあたしに、コーヒーの味のするキスをして、舌を絡める。

 私の冷たい素肌に、義一のあたたかい手が添えられると、体の芯が熱を帯びた。

「ご飯出来てるよ」

 そう、告げる唇はあたしから離れて、ほんの少し淋しい気持ちを抱く。

 それを悟られないように、昨晩脱ぎ捨てた下着を手にして「うん」と返事をしながら立ち上がった。

 椅子に座って、義一の作ってくれた朝ご飯を口に運ぶ。


 ——プルルルル

 あたしの向かいに腰を下ろした彼と、他愛もない話を交わしていると、机にあった携帯電話が再び鳴り始める。

「はい?」

 最近は、義一のその出方一つで相手が誰なのかわかってしまう。わからなくていいことまでわかってしまうんだから、面倒でしかたないったら。

 せっかく……気分よく学校に行けるはずだったのに。

 そんな文句を心の中でぶつぶつ言いながら、半熟の目玉焼きにフォークを突き刺した。

 今日は何で彼女と二回も電話するんだろう。いつもは朝だけなのに……。

 気を遣っているのかキッチンに向かう義一の背中を見つめながら思った。


「ごめん」

 ほんの数分で電話を終わらせて、あたしに軽く頭を下げる。

 ごめん、なんて短い台詞でこの気持が払拭できるはずはない。けれど、そんなこと言えない。そんなこと言ったら、義一は困るでしょ? だから『なにが?』とでも言いたげににっこり笑った。

 机の上の朝ご飯は、あたしの分だけなにもなくなった。

 一人で食べた朝食はなんの味もしない。義一の作る料理はなんだっておいしいはずなのに、今日のご飯はいつも家で食べるご飯と同じ味だった。


「ほんと、いい子だね楓は」

 そんな安心して笑わないで。

 いい子なんかじゃないのに。不満も不安もたくさんある。だけどなにも思ってはいけない立場だってことをわかっているから、黙っているだけ。


 彼女がいる人を好きになった。それが隠されていたからとは言っても……それを知って今なお関係を続けている私は、許されることじゃない。

 今まで浮気をされてばかりだったあたしが、今度はする立場にいるのだから、自分の身の程くらいはわきまえてる。


 ——ただ、それだけ。

 本当のいい子はね、彼女のいる人とこんな関係、続けたりしないんだよ。

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