34鼓膜を壊せばなにも聞こえない
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屋上の扉を開けると、今日も定位置に蒼太がいて空を見上げていた。
暫くなにも言わずに見つめていたけれど、あたしに気づくことなく空を仰ぐ姿がなぜか哀れに見えてきて、わざと足音を大きく出しながら近づいて声をかけたる。
「またひとり?」
振り返り、あたしの方を見て「よ」と返事をする蒼太は、ほんの少し陰りが見えた。けれど、それには気づかないふりをして蒼太の近くに歩み寄る。
「今日もいい天気だなー」
……ほんっと、脳天気なんだかアホなんだか。
へらへらと笑いながら空を見上げて呟く蒼太に、怒りを通り越して呆れてしまう。
何を考えているんだろ。小毬のことも蓮のことも、トモのことも。まるで何もかもどうでもいいかのように見えてしまう。
実際どーでもいいのかもしれない。
トモのことだって、蒼太はなにも言わない。蒼太のせいでもあるのに……どうして、自分の口で、脚で、トモに歩み寄ろうとしないのか。少しは気になる素振りでもしてくれればいいのに。
よく考えれば……蒼太はいつも受け身だ。
新しい彼女だって、彼女の方から付き合おうとか言ったんじゃなかったっけ? 小毬と蓮のことだって、蒼太の本心ではどう受け止めているんだろ。
言われるままに受け入れて、笑っているだけ。
「……蒼太、お昼もう食べたの?」
「四時間目さぼったから、もう食べたー」
「あたしがサボると口うるさいのに、蒼太も結構サボってるよね」
「俺は計算してさぼってるし。お前は全然計算してないだろー。遅刻も多いし」
あたしの言葉に、蒼太は明るく笑う。
なんだか、作り物の笑顔を顔に貼り付けているみたいに見える。
……いつからこんなに適当な笑顔ばかりを見せるようになったんだろう。こんな、当たり障りのない会話に、なんの意味があるんだろう。
今までは、どんなことを、どんな気持ちで話していたんだっけ? 前から会話の内容なんてないようなものだったのに、今日は非道く空しい。
「トモ、もう、こないって」
蒼太の笑顔の仮面を無理矢理でも剥がしたくなって、蒼太が避けているだろう話題をワザと口にすると、一瞬笑顔をやめた蒼太に罪悪感を抱いた。
「そ、か」
また笑顔であたしに返事をしたけれど、今にも泣き出しそうな笑顔に胸が痛む。
……ああ、また、やってしまった。
口にした後でいつも後悔してしまう……。口にするときは言った方がいいと思うのに、口にせずにはいられないのに、口にして、初めて自分がどれだけ無神経だったかを知る。ひどい自分の衝動に、後悔が募る。
——『楓ちゃんには、気を遣う』
そう言ったのは……中学の時の同級生だったっけ?
後ろめたさに耐えきれず蒼太の顔を見ることが出来なくて、俯いてご飯を食べ続けるけれど、あたしたちの間に流れる雰囲気はとても重かった。
このままここを立ち去りたいくらいだけれど、そんなことは出来なくて、静かな時間を苦痛と共に過ごす。
自分のせいだということは分かっている。けれど、謝ることもおかしくて、かといって明るく話を変えることができるほど器用じゃなくて。
重苦しい雰囲気に押しつぶされそうになりながらただ黙々とご飯を食べた。
今、蒼太がどんな顔をしているかも、見ることが出来ない。
笑顔であれば安心する? いや、きっとそれも苛立ってしまうだろう。
「あれ? ふたり?」
ドアが開く音が聞こえたと思ったと同時に、蓮の声が聞こえて振り返ると、予想はしていたけれど……その蓮の背後に小毬の姿があった。
「ともろー、いないのか……」
ぽつりとこぼした蓮の言葉に、誰も返事はしなかった。
小さな言葉で、返事を求めない雰囲気の蓮はそうなることをわかっていたんだろう。そのままご飯を食べ続ける。
「あ、楓、飲み物買ってきたけど、いる?」
「ん、ありがと」
あたしの隣にぺたんと腰を下ろして微笑みかける小毬に、あたしも曖昧に笑ってジュースを受け取る。
会話は普通なのに、どこかぎこちない関係に、反吐がでそうだ。
……何でこんなに、気を使っているんだろう。
気を、使われているのがわかるから……あたしもあわせてしまっているのかもしれない。
小毬と会ってから、屋上に来て、蒼太や蓮や、トモと一緒に過ごすようになってからは、気を使うことなんてなかった。
昔はそれこそ毎日のように気を使っていた。友達はあたしの顔色をうかがい、あたしは友達が傷つかないように最大限気を遣って振る舞った。それに疲れて、距離を保つようになった。
だけど、ここに来るようになって、変わった。
なんでも言い合える関係。気を使われることも使うこともない居心地のいい場所。
なのに、今は正直息苦しさまで感じてしまう。
目の前では、蒼太と蓮が他愛もない話をして盛り上がっていて、小毬はそんなふたりを見て笑っている。
こんなこと今日が初めてなわけじゃない。
トモがいないことだって、今まで何度かあった。
その都度多少の疎外感は抱いていたけれど、気にするほどのことでもなかった。だって、次の日は来るのがわかっていたから。今日だけだ、そんな気持ちを抱いていたから。
時々、小毬があたしを見て「ね?」と同意を求めることすらも、疎外感に拍車をかける。
変な三人。何もかもを知っているのは、あたしひとり。
だけど、おまけのような、あたしの存在。
どうして良いか分からず手元に視線を移して、貰った紙パックを見つめて無駄にいじる。
小毬から受け取った、グレープフルーツのジュースは、飲むたびに酸っぱくて、ほんの少しだけ現状の心地悪さを忘れることが出来た。
……こんなものを、何で急に買ってきてくれたんだろう。
ジュースを買ってきてくれることは何度かあったけれど、このジュースを買ってきたことは初めてだ。
別にグレープフルーツは嫌いじゃない。だけど、好きでもない。
私が飲むのはいつだってミルクティーとかカフェオレ。それを、小毬も知っていたから今までは同じようなものばかりを買ってきてくれていた。
それに、小毬だって、グレープフルーツが好きなわけじゃないと思う。
今まで一度も見たことがないし、今日だって紅茶。けれど、何となくすっきりしない今日には、この酸っぱいジュースがぴったりのような気がした。
三人の様子を見つめながら、言いようのないグダグダした自分の気持ちをごまかすかのようにジュースを飲み続けていると、スカートのポケットが小刻みにふるえ始める。
ポケットの携帯電話を取り出して確認すると、義一からの『今日くる?』とだけの簡単なメール。
連絡はマメだけれど、内容はいつも短い。
『彼女がこないなら』と、嫌みのメールを返しても、義一の返事は『大丈夫。勝手に入ってて』といったあっさりしたものだ。
嫌みが通じないんだから言い甲斐がない。
午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いて、目の前の三人は重そうに腰を上げた。
「楓?」
三人の様子を座り込んだまま眺めていると、小毬が腰を折ってあたしをのぞき込む。
「どうしたの? 授業始まるよ?」
「あー、うん……」
授業、か。よっこいしょ、と小さくつぶやい立ち上がる。
今から……授業とか、考えるだけで気が重い。屋上のドアをくぐる三人の後ろ姿を眺めて、脚を止めた。
「……楓?」
「あーごめん、先行ってて」
立ち止まって振り返る小毬に、ひらひらと手を振る。
今から授業なんて受ける気にもならない。受けたところで、頭には何も入ってこないだろうし……。それに、トモにどんな顔をして会えばいいのかもわからない。
何を気にしているのかも自分で分からない。
ポケットの携帯電話を再び取りだして、『今から行って待ってる』と義一にメールをして、授業開始のチャイムが鳴り響いてから屋上を後にした。
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義一の家は、学校と家の丁度間にある。
途中の駅で降りて、住宅街を徒歩十分。
キレイでもなければ汚くもない普通のマンションの最上階が彼の部屋。
貰った合鍵でエントランスの鍵を開けてそのまま部屋に向かった。
「相変わらずキレイにしちゃって」
部屋に足を踏み入れて、誰にも聞こえない皮肉を口にしながらキッチンを通り過ぎてソファに腰を下ろす。
今日の朝まで一緒にいたから、特に何かが変わったことはない。
常に、キレイに保たれているだけ。
彼を見ている限り、彼はそんなのきれい好きじゃない。ゴミはゴミ箱に入れないし、靴下だってたまにその辺に転がっている。
あたしが家にきたときはたまに片付けるけれど、それだけでこんなにいつもきれいでいられるはずがない。
きっと休日にやってくる本命の彼女が掃除しているんだろう。
八畳のワンルーム。
見る限り彼女の私物は見当たらない。けれど、彼女はこの家に来ているんだろう。
あたしが義一と会えない土日に。
一週間で一緒に過ごしているのは明らかにあたしの方が長いと思う。けれど、それはいつも平日で、いつも、夜。それが、あたしたちの関係だ。
部屋の中のひとりがけのソファに腰を下ろして、傍にあったクッションをぎゅっと抱きしめて顔を埋めた。
狭い部屋の中で、小さくうずくまって目を瞑ると、少しだけ気持ちが楽になる。昔から、あたしはこうやって夜をひとりで過ごしていたっけ。
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義一との出会いは、コンビニだった。
当時、あたしが付き合っていたのは合コンで出会った一つ年上の男。
そいつの家で、たまたま浮気現場を目撃して別れた直後のこと。
むしゃくしゃして、お酒でも飲んでやろうかと制服のままコンビニのアルコールの並ぶ棚を見つめていると、背後から声を掛けられた。
『さすがに制服で買うのは、まずいと思うよ?』
振り返った先にいたのが義一で、その優しい雰囲気に別れた直後なのにときめいたっけな。
短めの黒髪は誠実そうに見えた。
綺麗な二重の瞳はほんの少し目尻を下げて優しく微笑んでくれたときは、不覚にもときめいた。
数十分前まで彼氏がいたっていうのに。
多分、あたしは荒れていたんだろう。
どうしようもない彼氏だったけれど、一緒にいて楽しい人だった。
調子がいいだけの男だったかも知れない。けれど、やっぱり好きだったんだろう。
浮気現場、しかも最中。そんなものを目撃して、泣きもせず、叫びもせず、恋心なんて冷め切ってなくなったと思っていたけれど、思った以上には傷ついていたんだな、と今は思う。
『どうしても飲みたいなら、おれの家来る?』
見え見えの誘い。
手にした買い物かごには、いくつかのビールと缶チューハイ。
『……うん』
そんなものに乗るなんて、本当にバカだよなーと思う。
だけど、どうしてもひとりにはなりたくなくて。
誰もいないだろう家に帰りたくなくて。
誰かがいてくれるなら、なんでもよかった。あとは、義一が好みだったから。
未成年をお酒に誘うなんて、よく考えればろくでもないことなんか考えればすぐ分かる。だけど、見かけが誠実そうだから、あまり深く考えていなかった。
そのまま、お酒を飲んで。
そのまま、寄り添って。
そのまま一夜を共に過ごした。
気がつけば合鍵を貰って、平日はほぼ毎日義一の家に通いだした。
多分、付き合っているんだと思っていた。会う度に好きだと言ってくれるし、私を甘やかしてくれる。
そして一ヶ月位してから知らされた事実。
『今度の日曜日、出かけたい』
『日曜は無理だって。彼女が家に来るから』
義一は休日に会ってくれなかった。
社会人だから、忙しいだけだと、そう思っていたかった。
なのに。
部屋で抱き合いながら、悪びれもなく告げられた言葉に、体の熱は一気に下がっていく。
固まるあたしに、義一が腰の動きを止めて首をかしげた。
『あれ? 言ってなかったっけ?』
言われてない。そんな事実は知らなかった。
だけど、薄々は、気づいていた。もしかして、他に女がいるのかもしれないと、感じていた。
浮気なんてする男は嫌いだ。
しかも悪いとも思っていない笑顔を向けるなんて最低のやつ。
だけど……義一と一緒にいた時間が長すぎて。与えられた甘い行為を捨てることが出来なくて。
いつも一緒にいてくれた。いつでも私のことを気にしてくれて、いつだって私に微笑んでくれた。
『じゃあ、仕方ないね……』
あたしの返事に、義一はにっこりと満足そうに微笑んで、そしてあたしの痛んだ髪の毛とリップクリームをふんだんに含んだあたしの唇にキスをした。
あれから、一年弱。
何であたしは今も義一のそばにいるんだろう。
本命の彼女でもないのに、何で義一はあたしに愛の言葉を囁いてくれるんだろう。
聞き分けのいい、オトナのフリをして義一のそばにい続けて、あたしはどうしたいんだろう。
本命の彼女になりたい? ちゃんとした彼女になりたい?
都合のいい女が、今更何をしたからって、どうなるわけでもないのに。