32雲の下と雲の上
あがる心拍数を必死に悟られないように、平常心を装いながら着替える事もなく、兄さんの隣に腰を下ろした。
ソファではなくテーブルで話をしていたって事はやっぱり……それなりに大事な話だったんだろう。
心の準備をする時間も含めて、一旦部屋に戻って着替えたかったけれど、それを口に出せる雰囲気ではなかった。
「なに?」
恐る恐る声に出すと、目の前の両親は何かを考えるように視線を逸らし、そして、ゆっくりと口にする。言葉を選ぶように。
「智郎、好きな事やしたいことがあったら、していいんだぞ?」
その言葉に目の前が真っ暗になる。
自分の体がぐらりと揺れて、座ったまま倒れてしまうかと思った。
ボクの顔を見ずに、申し訳なさそうな顔をする両親に、胸がギシギシと悲鳴を上げる。
「……なに、それ」
「智郎、俺が昔聞いた言葉覚えてるか? 大きくなったら何になりたいかって、聞いたときのこと覚えてるか?」
「そんなの、覚えてないよ。昔のことだろ? ボクが今でもそんな昔の夢を見てるって思ってるの?」
口を挟んできた隣の兄さんに思わずくってかかる。
いくつの時の話をしているんだよ! そんなのもう、覚えてないし、関係ないだろ?
「お兄ちゃんに言われて気がついたの。智郎、もう気にしないでいいの。好きな事していいのよ?」
「——なんだよ、それ!」
「もっと早くに、ちゃんと言えばよかったのよね」
「やめてよ! ちがう! やめて!」
なんでそんな目をするの。謝らないでよ。
俯く母に、ボクは必死で叫ぶ。
お願いだからそんなふうに言わないで。そんなふうに悲しませるために……ボクは勉強していたんじゃない。そんな顔をさせたかったわけじゃない。
「やめてよ……ちがう。やめてよ……」
「智郎」
「やめてって言ってるだろ! 何を言ったんだよ! 父さんと母さんに何を……!」
立ち上がったボクを落ち着かせるように振れてきた兄さんの手を思いきり払いのけて向かって叫んだ。
何でこんなことになってるの? 何で急に父さんと母さんがこんな事を言いだしてるんだよ。兄さんが何を言ってこんなことになるんだよ。何でボクの意見を聞かないで決めつけるの? 結局兄さんの言葉を聞いて、決めつけてるんじゃないか!
ちがうちがうちがう、ボクはそんなつもりで、こんなふうに哀れんでもらいたかったんじゃない。褒めて欲しかったわけでもない。
だけど。
「やめてくれよ……。ボクがしてきたことを——否定しないで……」
ボクはボクの意志で、この道を選んだんだ。ボクはボクの力で出来る事をしたかったんだ。
父さんと母さんと、兄さんのために。
「なんで……そんなことを言うの? ボクじゃ無理だから? 兄さんみたいに頭が良くないから? 兄さん以上に勉強しても……兄さんの成績を越せないから? だからムダだって思ってるの? ボクがいままでしてきたことはムダだったの? ボクじゃダメなの?」
かすかに震える声で、溢れる思いを告げる。
ボクは今、どんな顔をしているんだろう。両親や兄さんの顔を見る事も、怖くてできない。なのに、溢れ出した思いが止まらない。
「医者になって欲しかったんだろ? 兄さんに。だけど兄さんがいなくなって、泣いてたじゃないか。だからボクが医者になればみんな、笑ってくれると、そう思ってたんだ。ボクが決めた。ボクは頑張った。兄さんを超すことは出来なかったけど、それでも——」
ぐっとのどが詰まって、ただぼろぼろと涙がこぼれる。言葉にできない想いが涙になって、溢れる。両親の前で、兄さんの前で、涙を見せるのはきっと初めてだ。
こんな風に泣きたくない。かっこわるくて仕方ない。
だけどボクぐらい泣いてあげないと、今まで頑張ってきたボクはどうなるんだよ。
勉強することを苦痛だなんて思ってない。そりゃ楽しくはなかった。それでも目標がちゃんとあったから、そのための勉強はイヤじゃなかった。
ボクはボクの選んだ道を求めてた。
それを望んでいる両親の気持ちだってある。
それを託していった兄さんの為でもある。
だけどボクはそれ以上に。
「ボクは父さんと母さんに、求められたかったのに」
兄さんだけじゃないよ。ボクだっているんだよ。
ボクのことを見てくれなかったとかじゃない。だけど、兄さんの代わりになりたかった。求められて、期待されて、見て欲しかった。
兄さんがいなくなっても、ボクがいるよ。
だから、安心して欲しかったんだ。
「……ボクじゃ、やっぱり無理なの?」
褒められたかっただけなのかも知れない。ボクは何て……子供なんだろう。
「そんなはず——ないじゃない!」
ガタン、と音を出して母さんが立ち上がる。驚いて顔を上げると、目の前に母さんの潤んだ瞳があった。
「どうして……そんな風に思ってるの? そんなことしたつもりはないわよ!」
「だって……」
だって? だってなんだろう。
自分の言葉なのに、それ以上先の言葉が思い浮かばない。
言葉を失ったボクの肩に、今度は父さんが立ち上がって手を置き、そしてボクに座るように促す。すとんと、腰を下ろしたボクに、今度は兄さんが肩に手を置いて、泣きそうな顔をしていた。
その瞬間に、また胸が痛む。
ボクは、こんな顔を兄さん達にさせたかったわけじゃないんだ。ちがうんだ。だけど何がちがうのか自分でわからない。
「智郎が、ボク等の為に勉強をやっているのはうすうす感じていた。無理をさせてるんじゃないかと、そう思っていたのも事実だ」
父さんは、母さんに小さく「な」と同意を求めて、その言葉に母さんが何も言わずにこくこくと何度も頷いた。
「智郎は、昔から自由だった。お兄ちゃんとちがって、毎日遊んでた。勉強も全然出来ない。ただ誰よりも友達が多くて、誰よりも笑顔で、誰よりも絵が上手かった」
ずっと絵を描いてた。
勉強する兄さんの隣で、ボクは絵を描いてて、その絵を見せたら兄さんはいつも褒めてくれた。
その絵を父さんにも母さんにも、ボクは嬉しくて何度も見せた。そのたびにみんな笑ってくれて、ただ褒めてくれた。
「お兄ちゃんは勉強が出来た。智郎は絵が出来た。お兄ちゃんには医者になって欲しくて、確かにそう言ったこともあるけれど……それを智郎がそう受け取ってしまったのかも知れない。現にお兄ちゃんは、それがイヤだったのだろうし……」
兄さんに求める物を、ボクはボクにも欲しかった。兄さんがいないならボクが代わりにならなくちゃと思っていた。
「だけど智郎は智郎のやりたいことをやっていいんだ。お兄ちゃんと智郎は一緒じゃない。智郎には智郎の得意なことも好きな事もあるだろう? お兄ちゃんはお兄ちゃんで得意なことがある。それが勉強で、それが智郎にとっての絵だった。ボク等はそう思ってた」
「でも……ボクは……医者に」
「智郎がなりたいのならなっていいんだ。なろうと思えば、今の智郎だったら出来るよ。なれるよ」
なりたかったのかな。そう言われるとわからない。
だけど——。
“なれるよ”その言葉が、すごく嬉しかった。
涙腺が崩壊して、涙がぼろぼろと溢れてしまった。
「ボク等がちゃんと智郎に言えばよかったんだけど、頑張っている智郎に言えなかった。ムダなんて思ってないよ。医者になってくれたらもちろん嬉しい。だけどそれはボクらが医者になってほしいから嬉しいわけじゃない。智郎が、智郎で選んだことを、やり遂げたことが嬉しいんだよ」
ボクはずっと、両親はボクに医者になって欲しいと、そう思っていると思っていた。
そう思って欲しかったのかも知れない。そう思って貰うためにも、ボクは医者になりたかった。兄さんが出て行ったのも、ボクに全てをたくしたんだと思っていた。
「俺は、医者になるよ。それは……昔みたいに医者になれるからって、そう言われたからじゃなくて。俺が、自分で決めたから」
みんなの気持ちを、ボクは決めつけていた。
「智郎が、医者を目指すなんて思ってなかった。智郎は、智郎の好きな事を続けてくれると、思ってたから……俺が何も言わなかったから、ごめんな、智郎」
ぶんぶんと、頭を左右に振るしかできなかった。
決めつけたのはボクだ。聞くこともなく、分かったフリをして、ボクは自分で自分をカゴの中に閉じ込めた。それが不幸だなんて思わない。
だけど、ちがう道も間違いなくなった。その道がよかったのか悪かったのかなんて、今のボクにはわからないけれど、少なくとも……こんな風にみんなを悲しませることはなかったはずだ。
「智郎は、どうしたい?」
.
..
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。
・
○
。
ボクの頭上はまだ灰色だ。
まだくすんでいて、晴れるにはまだまだ時間がかかると思う。
まだ見つけられないことがたくさんあるから。
「トモ」
教室に入ると、珍しく朝から来ていた楓がボクを呼んで引き留めた。
「おはよう」
いつも通りに、今までのように楓に声を掛けると、楓はほっとしたようにボクに「おはよう」と微笑んでくれる。
ボクは楓の気持ちも決めつけていた。
楓はきっと、依存してると思っていた。
ボクと同じように、屋上や彼氏に依存していると。今でもそう思う気持ちはあるけれど、その先にある楓の気持ちはわからない。
ボクは何でも分かっているようなフリをして決めつけて、そしてボクはその中で過ごしてきた。
蒼太に言ったように、ボクもみんなと向き合ってなかったんだ。向き合おうとすらせず、そうしていない自分にも気づいていなかった。
きっと蓮も、小毬も、ボクが思っている以上に何かを感じているのだろう。
蓮の気持ちも小毬の気持ちもボクにはわかる。
だけどその先のその奧の事までボクは見えてない。蒼太に関してだって。何を考えて何を思って何を感じているのか。
ボクが思うことが全てじゃないんだ。ボクはそんな分かること全てが、全てだと、そう思っていたんだ。
「……また、屋上、行くよね?」
ボクの様子を探るように、楓がボクを覗き込む。
いつも強気な楓らしくない行動に、楓も何かを思って、屋上に“みんな”がそろうことを期待しているんだろう。
ボクに来て欲しいのは……楓も、ボクと同じように、あの場所に何かを感じているからだと思う。あの場所に何かを求めている。何かが壊れそうな気配に、不安を抱いている。
ボクがまた笑って屋上の扉を開けたら……きっとあの場所には青空が広がっているだろう。だけど、きっとボクの気持ちは灰色のままだろう。
ほんの一瞬、自分をごまかすだけ。
それじゃなにも変わらないんだ。
「行かない。もう、行かない」
行けない、じゃなくて行かない。
ボクの気持ちでそれを選んだ。
それが悲しくないわけじゃない。みんなと笑えるあの場所は、間違いなくボクにとって安らぎで宝物だった。
今の自分になんの不満もないと思っていたけれど、心のどこかで気づいていたんだ。
必死だった。がむしゃらだった。
だけど常に曇っていたのは、ボクはいろんな物を見ないようにするためだったんだ。自らボクはボクの視界をくすませていた。
見ないために灰色の中に飛び込んだ。だからこそ、青空に憧れた。
傷ついた顔をする楓に、心を痛ませながらボクは背を向けてすぐに教室を後にした。
屋上にもう行かないボクに、裏切られたように感じたのかも知れない。ボクは自分の為に楓を傷つけたのかも知れない。
蒼太も、蓮も傷つけた。心の中で小毬も傷つけた。
楓にとって、おそらくあの関係の中でのボクは、特別だったと、思う。あの三人の中には、恐らくボク等が入れない何かがある。楓も恐らく気づいている。だけど、やっぱり、ボクはもう、行かない。
もうごまかすのは、やめたいんだ。
ちゃんと、青空を求めようと思うから。
この選択が最良だなんて思ってない。だけどこうする以外にボクはボクを守れない。
——『智郎は……大きくなったら何になりたい?』
——『ボクは——……』
「——先生」
美術室に足を踏み入れて、準備室にいるであろう先生に声を掛けた。
「お、どうした?」
ボクの声に、準備室からひょこっと顔を出した先生は、ボクの姿に驚きと、そして少し嬉しそうな表情をみせてから近づいてきた。
ボクは何になりたかった?
「先生、ボクに、絵を教えてください」
勉強を諦める訳じゃない。今までしたことはボクの一部だ。
だけど……だからこそ。まだ決められない。
だから探すしかない。
今度は捨てるんじゃなくて、忘れるんじゃなくて、選びたいんだ。無数の可能性の中から、挑戦して、自分で見つけたいんだ。
分厚い雲の先には、青空があるって信じて。
きっと、それをボクは手に入れられる。まだ踏み出したばかりだけれど、そんな確信があるんだ。
いつか、ボクはこの日のボクを、愛おしく思い出す予感が、あるんだ。