31みんな目を瞑って傾いている
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チャイムが鳴り響いて、長かった今日が終わった。
はあっと深い息を吐き出して、やっと学校から出ることが出来るんだと思った。
さっさと帰ろう。テストの復讐もしなくちゃいけない。いつもならほんの少し屋上で気分転換もしていたし、連や蒼太と出かけたりもしていたけれど……そんなこともう、出来るはずがない。
あんなふうに言葉を投げ捨てて背を向けたボクが、どんな顔をして屋上に行けばいい? いや、そもそもボクは行きたいと思っている?
先生が教室を出て行ってすぐに、机に掛けてあった鞄を手にして廊下に出る。その途中に楓の視線を感じたけれど……ワザと見ないようにして、気づかないようにして背を向けた。
お節介な楓のことだ。
きっとボクに屋上に行くように言ってくるだろう。屋上に行けばいつも通りだよって、きっと言う。
多分楓の言うようにその通りだろう。ボクが気にしていることなんて、どうでもよかったんだ、と感じる程みんなはボクに笑いかけるだろう。ボクが怒った事実は無かったかのようにどうでもいいことを話して、ケラケラと笑い合うだけ。
——それじゃボクがもう、いやなんだ。
なかったことになって、何もかもを流せることが出来るほどボクは器用じゃない。ただひとり、ボクが感情的になっただけ。それだけで終わってしまうなんて、本当に馬鹿みたいじゃないか。
ぐっとカバンを持つ手に力を入れて、歯を食いしばりながら靴箱に向かった。
「智郎」
ぐいっと肩を引かれ、振り返れば蓮の視線とぶつかった。
……蓮がボクを引き留めるのは、さすがに予想外だったな、と意外と冷静なボクの頭が告げる。
いや、でも、考えて見れば不思議な事じゃない。ボクを心配して来てくれたんだろう。だけどそれ以上に……蒼太のことを思って、ボクを追いかけたんだろ?
もしかしたら怒っているのかもしれない。蒼太にあんな事を言ったボクのことを。
どっちにしたって蒼太のため。ボクのためなんかじゃない。
蓮の顔をじっと見つめていると、蓮はどんどん苦しそうな顔になっていった。
ボクの考えていることが、目で伝わってしまったのかも知れない。
微かに震える唇に、何かを言いたいんだろうけれど、言いにくいんだろうな、と察して「……屋上、行く?」と問い掛けた。
ボクの言葉に、蓮はこくりと、小さく頷く。
「智郎、明日は、屋上に来るのか?」
「……行かない」
屋上に足を踏み入れるや否や、蓮が口にした言葉に、ボクは一瞬間を置いてから返事をした。
気持ちは迷っていないけれど、それを伝えるのはなかなか勇気がいる。それでも、もう嘘でも『行く』なんて言えない。
口にすれば、きっと蓮は、いや、みんなは引き留めるだろう。だけど引き留めたところで気持ちは変わらない。だからこそ、引き留められることすら、苦痛なんだ。
かといって、その場しのぎの嘘をついてまで、気を使うのも疲れてしまった。
「このままだと……お前が来づらくなるだろ」
ちがうだろ? 屋上が気まずいんだろ。
自嘲気味に笑ってみせると、蓮は痛々しい物を見るかのように一瞬ボクを見てから視線を逸らした。
「蓮は、蒼太に何も思わないの? 蒼太だって気づこうと思えば気づけるはずだ。蓮が誰を見ているのかってことも、小毬が誰を欲しているのかも。それを見ないで気づかないでへらへらしている蒼太を、どう思うの」
「……オレ、は」
「きっと蓮が蒼太に何を言っても蒼太は何も変わらないで笑ってるだろうね。笑いながらその場限りの"ごめん”を口にするんだろ。ボクの時のように。ボクが何に対して怒ったか、なんて考えてないよ? ボクが悪い事にも気づかないで、見ないふりしてるだけじゃないか」
蓮がどんどんと言葉を失っていく。
……こんなことを蓮に告げて、ボクはどうしたいんだろう。自分の仲間を見つけたいのかな。ボクだけが屋上を去るなんて、悲しいから。ボクと同じように、何かに失望して、何かに苛立って、あの場所を壊してしまいたいのかな。
ボクだって、あの場所は大事だったんだよ。みんなと同じくらい、大切で楽しい時間だったんだ。
「どうしたんだよ、お前」
「どうもしないよ。ずっと感じてたことを口にしてるだけ。うんざりしただけ」
「そんなに負けたことが悔しいのかよ」
ぴくり、と自分の眉が小さくひくついた。
「……それだけじゃ、ない」
「それだけじゃなくても、それが一番の原因だろ。蒼太に負けたのが悔しいだけだろ。蒼太なんかに負けたのが。そう思ってた蒼太に負けたことが。それを蒼太のせいにしてんじゃねえよ」
「うるさいな……!」
——わかってる、そんなことわかってる。わかっててもどうしようもないんだ。
どうしたらいいのか、誰でもいいから教えて欲しい。誰でもいいから、ボクはどうしたらいいのか、教えてよ。
「蓮はただ、蒼太が大事なだけじゃないか!」
わからないんだ。自分がどうしたいのか。
みんなが何を求めているのか。
ボクのしてきたことはなんだったのだろう。ボクが望んだ物はなんだったんだろう。
一番になること? 兄さんの代わりになること? 求められること? 褒められること? 求めても求めても手に入らないものばかり?
「小毬だって、蓮だって、自分のことばかりじゃないか! 好きな気持ちを隠して自分が楽になることばかり! 蒼太に何も言わずに、ウソばっかり! 何で求めないんだよ……。がむしゃらになればいいじゃないか。蓮だって、自分の気持を、蒼太に好きだっていえば良いんだ。言わないのはただ逃げてるだけだろ! 小毬を傷つけて、自分を守って、自分すら傷つけて。誰が得するんだよそんなこと!」
「自分への不満を、オレにぶつけるなよ」
蓮の返事に言葉を失って、自分の目に涙が溜まっていることに気がついた。
……分かってる。全てが自分に言いたい言葉だ。
ボクの言っていることなんてただの正論で、どうしようもない蓮の気持ちだって分かってるのに、なんでこんなことばかりを口にしてしまうんだろう。
人を傷つけて、自分を守っているだけ。
自分への不満を、蓮に向けて、自分の代わりに蓮を傷つけているだけ……。
そんな自分が、ひどく惨めに思えて、唇を噛んだ。
目の前の蓮は、そんなボクに対して憐れみの目を向けていた。ボクに対して傷ついたはずなのに、ボクのことを見てくれていることは、分かってる。
その先に蒼太がいることだって分かっているけれど。それでも。
「——ごめん」
小さな、小さな声で呟いて……蓮の横を通り過ぎた。
「智郎……」
引き留める声には振り返らずに、そのまま屋上から立ち去る。
一刻も早く立ち去らなくちゃ。逃げなくちゃ。守るために、傷つかないために。
もう、ボクはきっと屋上にはこない。来ちゃいけない。
守りたかった、大好きな屋上だった。それを壊したのは自分だ。ボクがこの手で、あの屋上を穢した。
だけど多分もう、みんな分かってる。あの屋上のあの時間は、とても脆く、とても歪なことに。
そうしたのはボクたちだ。嘘ばかりで作り上げてきたからだ。
「トモ……」
ボクを呼ぶ声が聞こえて、虚ろな瞳で振り返ると……そこには楓がいた。
戸惑った顔でボクを見ていて、そんな楓にボクは微かに微笑むことしかできなかった。
自由でいるみんなが好きだった。
自由だから眩しかった。
求めたのはボクがそうじゃなかったからなのかもしれない。
自由を求めたわけじゃないけれど。それでもボクにはないものだったから、ボクは屋上に来ていたんだろう。
屋上に出たところで、ボクの気持ちが晴れるわけでもないのに。
結局、全部まやかしだったんだ。
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家に帰るのは億劫だった。
テストの成績を報告しないといけないから。
報告を義務づけられているわけじゃないけれど、報告しないわけにもいかない。
今までは普通に毎回告げていたのに、何も言わなかったらそれこそ上位にすら入らなかったと思われてしまいそうで。
「ただいま」
ひとりでふらふらとほっつき歩いて、家に帰ったのはもう日も沈んで暗くなった頃だった。玄関を開ければ、兄さんの靴が目に入って億劫な気持ちに拍車がかかる。
「お帰り、智郎」
「遅かったわね」
リビングで、両親と兄、三人が何か話していたのだろう。その光景に心臓がぎりっと握られたかのように痛む。
「……ん……ちょっと……」
立ち去りたい。
とりあえず報告は今日じゃなくてもいい。明日だっていい。今日のこの気分で報告なんて出来そうもないし、三人のいる場所で口にするのがひどく惨めな気がしてボクはそのまま自分の部屋に戻ろうと思った。
「智郎、話があるんだ」
びくっと大げさに体が跳ねる。そんなことに気にする余裕もなく、戸惑いを露わにしながらボクはゆっくりと声をかけてきた兄さんに顔を向けた。
「ちょっとだけ、いい?」
そんなボクの気持ちを悟ってなのか、母がボクに微笑む。それがなおさら怖くなるなんて、きっと知らないだろう。