30ドアの先は幻
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中間テストが終わって、ほっと一息をつく暇もなくテスト返却が始まった。
帰ってくるテストを見るたびにため息を零す。安堵なのか、それとも自分の力なさのせいなのかが自分でもわからなくなるほど、自分の感情も見えない。
ボクの風邪はテスト二日目から徐々に快復していった。
それでも二日間のテストは最悪だっただろう。二日間で平均点をどれだけ下げたのかと思うと一気に気分が重くなる。
テストの返却が始まると同時に、どこかのタイミングで上位二十名の名前が学年の掲示板に張り出される。
今まで中間はそんなに気にしていなかったけれど、さすがに今回は気が気じゃない。上位二十名にも入っていなかったらどうしよう。
そればかり考えていた。
そのせいか、屋上に行く気分になれない日々。
みんなと何も考えずに笑える自信がなくて、あの風邪の日以来、一度も脚を踏み入れなかった。
あんなにも大切に思えた場所だったのに。あんなに、ボクが心休まる場所だったはずなのに……。
今は屋上に向かおうと思うたびに足が地に貼り付いたように動かなくなる。
でも……きっと順位が出れば。とりあえず二十位以内に入ってさえいれば……元に戻るはず。きっとまたボクはあの空の下に逃げることが出来るはずだ。
風邪を言い訳にするのは悔しいけれど、それでもその成績なら……。
「トモ、まだ体調悪いの?」
「……まあ、ちょっとだけ」
最近ボクが屋上に行かないことを、みんなはただの体調不良だと思っている。その方が都合がいいから否定する気もない。ただ、聞かれたときに自分がどんな顔をしているのかは……わからない。上手く顔の筋肉が動いていないことだけは、確かに分かる。
「今日のお昼はどうする?」
「あ、え、と」
どうしようか。そう返事をしようと思ったとき。
「張り出されたってー」
「見に行く? 名前ないのは分かってるけどさー」
そんなクラスメイトの言葉が聞こえて、楓が傍にいることも気にせず、勢いよく席を立ってすぐさま掲示板に向かった。
廊下に出れば、掲示板に人だかりが出来ている。
そこだけを目指していく。
——どうか。
それだけを祈りながら。
人混みの中にさりげなく入って、名前が見やすい位置まで入り込む。すぐ傍に人がいて、騒がしいはずなのに、どの声もボクの耳には届かなかった。
下から順番に名前を見ていく。いつもなら上から見ていくのだけれど、さすがに今回はそんな余裕がない。
とりあえず早く。早く。自分の名前を見つけたかった。
自分の名前が出てこないことに安堵して、この先もないんじゃないかという不安を感じながら視線を上に移動させていく。
「トモ?」
楓の声が聞こえたのと、同時だった。
十二番という数字の隣にある、自分の名前を見つけたのは。
「よか……た」
小さな声で、吐き出した。その声と同時に身体から力が抜けて、今すぐここに腰を下ろしたくなる。
本当に……よかった。いつもよりも大分下がってはいるけれど、風邪だったし。
自己管理が出来てないことには変わりないけれど、ここに名前があるだけで今は充分だ。
——やっと、屋上に笑って、入れる。
「すごいじゃん、トモ。あの風邪で十二番とか。脳みそ半分わけてよ」
「やだよ」
隣に並んだ楓の言葉にだって、自然な返事が出来る。笑顔までつけて。
きっと、ボクは久々に笑っただろう。ほっとしたような楓の表情に、心配させてしまったことを今更申し訳なく感じた。
ついさっきまで、人の事を気遣う余裕もなかったのに。
「あれ、蒼太じゃない?」
けれど——。
楓が指さした方向に視線を向ければ、そこには楓の言うように……蒼太がいた。正確には、蒼太の名前。
ボクの順位よりも、四つ上、八番に、蒼太の名前があった。
なんで……こんなところに、ボクよりも上に、蒼太の名前があるんだろう。なんで……今まで、載ったこともなかったのに、どうして。
目の前が、霞んだ気がした。
雲が視界を埋め尽くして……何も見えなくなるんじゃないかと……。
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「お前なんなの。マジで。何急に勉強してんだよ」
「たまたまだって。ヤマが当たった」
屋上は、案の定その話で盛り上がっていた。
ドアを開けて、すぐさま聞こえてくる会話に、無意識に唇を噛む。
蓮はやる気をなくしたかのようにしかめっ面で蒼太に文句をずっと言い続けていて、蒼太はずっと笑っている。そんなふたりを小毬は何も気にする様子を見せずにお弁当を食べていた。
「あ、智郎。お前すげーな。何であの体調で上位に名前のるんだよ」
ドアの音で気がついたのだろう。蓮がボクを見て声を掛ける。
ボクはどんな顔をすればいいんだろう。
笑う事も、いつも通りに聞き流すことも、できそうにない。そのくらい、ドロドロだ。胸の中の何かがドロドロに溶けて、息もできない。息苦しい。
「ともろー?」
反応に困っているボクに、一番に気がついたのは小毬だった。
首をかしげて、ボクを見上げる小毬に無性に腹が立つ。八つ当たりだこんな気持ち。
なにも知らない小毬。
なにも知らされてなくて、さしのべられた手にすがりついた小毬。なにも知らない小毬に、真実を突きつけたくなってしまう。
八つ当たりどころじゃない。吐き出してすっきりしたいだけ。ボクよりも苦しんで欲しいだけ。
そんな自分に吐き気がするほど嫌悪感を抱くのに、そんな思考がなくならない。
ぐっと拳を作って、小毬から視線をそらした。
「……蒼太の名前、見たよ。すごいね」
棒読みだったかも知れない。口にして、みんなが言葉を失ったのを感じた。
「たまたま、だよ。俺なんか。智郎のほうがすごいじゃないか。あの体調でもあれだけの成績を残せるなんて」
「そーだよ、トモ。体調のいい私よりも成績がいいんだから」
みんながボクに気を遣っているのがわかる。
楓も蒼太も、ボクの機嫌を取るようなテンションで語りかけてきて、それが余計に惨めに思える。
どうせ心の中では思っているんだろ?
あんなに勉強していたのに、って……。
そんな思いを飲み込んで、地面に腰を下ろしてお弁当を広げる。
ああ、こんなことならやっぱり屋上なんて来なかったらよかった……。
あのまま楓の勢いにつられてここまで来てしまったけど、やっぱり保健室に駆け込むなりする方がよかったんだ。
「ほら、お前が急に勉強するから」
蓮は相変わらず物事をズケズケと口にする。けれど、蓮はきっとそういうことで、ボクの気持ちをフォローしてくれているのだろう。
それをわかっていても、今のボクは……そんな蓮に対して思ってしまう。
——余計なお世話だ。
こんな自分が一番醜い。こんな自分がいやでたまらなくて、ますます感情がぐちゃぐちゃになる。
「ほんとだよ、ボクは勉強したのに」
そんな気持ちを悟られないように、必死に嫌みを返す。嫌みを返すことで、このまま笑い話にでもなって、この会話から逃げ出したかった。
「ともろー本当につらそうだったよね。もう大丈夫?」
「あ、ああ」
目の前のご飯も、喉を通らない。こんな事今まで一度もなかったのに。風邪でもないのに食欲がない。今すぐ吐き出してしまいたいくらいだ。吐き出したいのは、食べ物なのか、気持ちなのか、言葉なのか。
「そういえば、そろそろ進路希望書、配られるらしいよ」
「えーもうなんでもいいよー」
小毬が思い出したようにそう告げると、誰よりも早く楓が反応する。そう言えばそろそろか……三年のクラス分けにも影響するとか言ってたっけ?
国公立か私立かで、授業内容も変わるとか。それだけ授業内容に力を入れる私立の学校だから、ボクはこの高校を選んだんだけど。今はそんなこと考えるのも億劫だ……。
「小毬はいいよねー決まってて」
決まっていたって、決めていたって進めるとは限らない。大学に行ってから挫折する人だっている。兄さんのように。医者になりたい人なんてごまんと居るのに、なれない人がいて、なれるのにならない人もいる。
なんって理不尽なんだろう。
「蒼太はどーすんだ? せっかく勉強したんだからそこそこいいところいけるんじゃね?」
「んー……わかんねーなあ。とりあえず実家から通える大学ならどこでもいいかな、俺は」
“どこでもいい”なんて、なんでそんなことが言えるんだろう。どうにも出来ない人だっているのに……。
奥歯を噛んで、必死に思いを堪える。俯いていたらみんなに変に思われるかもしれないと、顔を上げてみたけれど、屋上はひどく澱んでいた。
霧に包まれたみたいに、全てが霞んで見える。空をは間違いなく快晴なのに……何でこんなにも薄暗く見えるんだろう。
そんな世界から目を逸らしたくて、やっぱり俯く。俯いても目を閉じても、常に曇ってはいたけれど。
「せっかく勉強していい成績取れたのに、もったいない」
「そんな事言われてもなあ……。そんなこと言い出したら、勉強もしないで成績のいいともろーのほうがよっぽどすげーよ」
「——してるよ!」
思わず口から出た大きな声に、自分でも驚いた。
はっとして顔を上げると、ボク以上に周りにいたみんなは驚きを露わにしてボクを見ていた。
なにをムキに……なっているんだろう。こんなこと、自分から言う事じゃないのに……。
言ってボクはどう思われたい? 頑張ったねって? そんな言葉は何よりも嫌いなのに。
なのにどうして。
「……あ、いや、ボクも……勉強くらいはしてる、よ」
誤魔化しながら、ぎゅっと箸を握りしめる。
そうだ、ボクだってしてる。必死にしてる。そんな風に見えないようにしていたのは自分だけれど……だけどボクだって。
勉強しなくても勉強ができたら、どんなによかったか。
「そりゃそうでしょー。蒼太が馬鹿みたいなこというから」
「あ、え……あ、ごめん」
「勉強なにもしない人がいるわけないじゃん。そうでなくてもトモのノートはすごいキレイなんだから」
楓の言葉に、蒼太が戸惑い気味に口にした。そして、蒼太の顔を見て一気に自分の感情がはじけるのがわかった。
「——なんっで……笑ってるんだよ!」
蒼太は、笑ってた。
確かに申し訳ないような顔はしていたけれど……それでも、笑っていた。いつものように。
言うつもりじゃなかった。だけど言ってしまったボクの思いなんて、どうでもいいかのように、へらへらと笑っていた。
何で何で、そんなふうに笑ってるんだよ……!
「とも……」
「なにわらってんだよ! 馬鹿にしてるの!? あんなに勉強しても蒼太に負けたボクのことを……! それとも何? 勉強してたのかって? 影で勉強してたことに対して笑っているの?」
もう止められない。
自分でも何を叫んでいるのかもう、わからなくなってきて……、泣き出してしまいそうだ。泣くもんか、そればかりで、口走っている言葉の意味はもう、わからない。
全てが被害妄想なのかも知れない。
だけど、だけど……。蒼太の笑顔が今は何よりも許せない。
「ちょ、待てって……」
「笑ってんなよ!」
ガシャン、とお弁当がひっくり返る。
ボクの足下には、もう食べることの出来ないご飯が散らばった。
すくったってもう、食べられるはずもないご飯。ボクの今の状態を表現しているのかと思うと、やりきれない気持ちになる。
覆水盆にかえらず、とはこのことだ。
もう、何もかも取り返しがつかない。
それでも困ったように笑う蒼太に、怒りだけじゃなくて、空しさまで沸いてくる。
なんで……何でこんな時でも、蒼太は笑ってるんだよ。
ボクは何? 怒ってるボクは何なんだろう。
「蒼太はいつもそうだ……いつも笑って……何で笑えるんだよ。楽しいのかよ! 何が楽しんだよ!」
「とも……」
「何も考えてないんじゃないか! 何も言えないんだろ! 蒼太は笑ってるだけで何も考えてないんじゃないか! ボクの気持ちだって、みんなの気持ちだって……。自分のことしか考えてないんじゃないか! 笑って人を騙して誤魔化して……もう、うんざりだ!」
力の限り叫び、そのまま逃げるように背を向けた。
まだ笑ってる蒼太の顔を見るのが、怖かったんだ。見たら、ボクはもう二度と……ここに来ることが出来ないんじゃないかと、そう感じたから。
怒ったボクが正しいなんて思ってない。八つ当たりだって言うことくらい分かっている。
だけど……怒っているボクに対して、何も言わずただ笑っている蒼太が許せなかった。
怒ってる。
なのに何も響いていないだろう事が悲しい。
せめて……蒼太が怒ってくれたらよかった。馬鹿なことを言ってるんじゃないと。そう怒ってくれたらよかった。
笑うのであれば、思う存分馬鹿にして笑ってくれたほうが、マシだ。
ボクの気が済むのを待つように、ただ、笑ってる蒼太が、許せなかった。
バタン、と扉が閉じられる。
大きな音が階段に響き渡って、振り返ればいつものドアがあるだけなのに……もう二度と、開かれることない鉄の扉のように見えた。