03屋根の下の家族
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「あ、じゃあここでね、美紅ちゃん、蒼太」
分かれ道に辿り着くと、小毬は美紅にそっと封筒を手渡して俺たちに大きく手を振って自分の家に向かって歩き出した。俺の家に寄るかと聞いてみたけれど、今日は課題があるからと断られたのだ。課題のために直帰するとか、どこまで真面目なんだか。
美紅は小毬から受け取った手紙を大事そうに胸元で抱きしめてはにかんでいる。
「美紅、小毬とそんなに文通してなに書いてんの?」
いつからか忘れたけど、ふたりはこうして文通めいたものをしている。毎週のように手紙を交換し合って…、なにを話すことがあるんだろうか。その間もちょくちょく会って話もしているのに。
「んふふー秘密—」
「えーお兄ちゃんには話せよー」
「やだよー小毬ちゃんとの秘密だもん!」
ふふっと小さく笑って大事そうに手紙を握りしめる美紅を見て、のけ者にされたさみしさを抱きつつも、美紅の嬉しそうな顔に喜びを感じる。
俺が相手じゃこんな顔はしないだろう。改めて、小毬がそばにいてくれてよかったと、頬が緩んだ。
「いつか教えてくれよ?」
「えーやだよー」
「ちぇー」
大げさに拗ねてみると、それを見て美紅はよりくすくすと笑って俺の手をぎゅっと握りしめる。
美紅にはこのままでいて欲しい。汚いものも狡いこともなにも知らないで笑っていて欲しい。せめて、これからは。
その為に俺はいるんだから。
「ただいまー」
そう言って自ら鍵を開けて、誰もいない家の中に向かって美紅と叫んだ。
この時間はまだ誰もいない。母親も父親もまだ仕事で帰ってくるのはきっと日が沈んでからだろう。
「お兄ちゃん、宿題見てくれる?」
「ああ」
手を繋いだまま家の中に足を踏み入れた美紅は、少しだけ気を遣うような笑みで言う。
そんなこと気を遣わなくてもいいのに。そう伝えるように俺は嬉しそうに笑ってから美紅の頭を撫でた。
俺の部屋に入ると美紅はテーブルの前に座って荷物を広げる。俺は制服から楽な格好に着替えて、美紅の正面に腰を下ろした。教科書を手にして「どこだったかな」とページを捲る美紅に、焦らなくていいよ、と声をかけてテーブルの上の美紅のノートを手にした。綺麗に丁寧にまとめられていて、小毬みたいだな、と思った。きっと先生が黒板に書いたものを必死に書き写しているのだろう。
俺はそういうのほとんどやってなかったなあ。今もノートは落書きばかりだ。
「お、このテスト九十点じゃん。美紅すげえ」
いらないものかのように放り出された一枚の紙は、“よくできました”という言葉の書かれたテストだった。小学生のときは今みたいに期末とかないんだっけ。
「すごくないよー」
「すごいよ。もっと自慢しながら見せればいいのに。ほら、九十点、すげえだろ!」
俺が自慢げに美紅にそのテストを見せると、元々大きな目をくりっと大きく見開いて、そしてくすくすと笑った。
きっと、俺が見てないテストもいっぱいあるんだろう。点数がいいものも、悪いものも。もっと見せてきたらいいのに……。
ぽんぽんと「すごいな美紅は」そう言いながら頭をなで回すと、美紅の頬は真っ赤に染まって照れくさそうに笑う。
俺が小学生の頃なんて、自慢ばっかりだった。誰よりも早く走れたとか。先生に褒められたとか。友達と喧嘩したけど仲直りしたとか。毎日毎日自慢げに両親に話した。それを両親は嬉しそうに聞いてくれたから、俺は毎日飽きもしないで話し続けたのだろう。
だけど、美紅はなにも話さない。聞いたらちゃんと話してくれるけれど、自分からはなにも言わず、俺が褒めると恥ずかしそうに頬を染めてはにかむだけ。
「で、どこがわからないんだ?」
「えっとね」
美紅はゆっくりと分からないところを話し始める。小学生の算数なんか簡単だと思ってたけど、なかなか難しいことを最近知った。昔の記憶を引っ張り出して、なんとか美紅に教えると、「お兄ちゃんすごい!」と大げさな程に感心して、次の応用問題を解きはじめる。
ふたりで教科書を見ながら、時々俺は自分の参考書を開いたりして時間を過ごす。美紅いなかったら俺もこんなふうに学校が終わってから勉強をするような毎日を送ってなかっただろう。そもそもどこにも立ち寄らずに家に帰ってくることもほとんどなかったかもしれない。そのせいか高校に入ってからは成績も右肩上がりだ。
美紅は勉強なんてしないで友達と遊んだり、テレビを見たり、なんてことを自分からは絶対に口にしない。俺が誘うまで、ただひたすら真面目に机に向かうだけ。
「ただいまー」
一階から母さんの声が聞こえて、美紅と同時に顔を上げて階段を下りる。買い物袋を三つも下げて重そうに玄関に置いた母親が「あーもうあっつい」とひとりで怒り出した。
「お帰り」
「お帰りなさい」
階段の途中で声を掛けると、汗で化粧も少し崩れた母親が俺の顔を見る。
「ああ、ただいま。今からご飯作るから」
「急がなくていいよ、勉強してるから」
床に置かれたスーパーの袋を二つ、そして美紅が残りひとつを手にして靴を脱いだ母さんの前を歩いてキッチンに運んだ。
「美紅、また蒼太と勉強してるの?」
「あ、うん」
肩こりがひどいのだろうか。肩をボリボリとならしながら母がリビングのソファにどさっと腰を下ろす。
「蒼太も受験近いんだから、邪魔しないでよ?」
「別に関係ないよ。美紅が俺の邪魔するわけないじゃん。俺の成績だって別に問題ないし」
またはじまった……。
母さんの言葉を遮るようにへらへらと笑うと、「ったく、そんなふうに余裕出して。三年になるとみんな一気に成績があがるんだから」と愚痴をこぼす。
あーはいはいはいはい、と母さんに見えない視界で舌を出してめんどくさそうな顔を作る。
飽きもしないで文句ばっかり。疲れているからって八つ当たりするのはやめて欲しい。かといってこれを口にしたら余計にめんどくさいことになるのは目に見えている。
そっとそばの美紅に視線をむけると、しゅんと頭を下げていた。ぽんっと頭に手をのせて「さ、勉強しようか」とそのまま美紅を抱きかかえる。後ろにいる母さんの顔を見ないまま。
小学二年生にもなればそこそこ重いけど美紅まだ小さい体は俺の腕にすっぽりと収まる。子供独特の日向の匂いもする。
「いいの?」
「気にすんな気にすんな」
「……ったく、もう」
後ろで母親の呆れた声が聞こえたけれど、聞こえなかったかのように振り返ることなく美紅の顔を見て微笑む俺に、美紅は戸惑いながらも笑った。
そのまま再び二階に上がって再び机の前に美紅を下ろすと、美紅はそのまま黙って勉強を始めた。ここどうしたらいいの。ここってなんてかいてあるの? さっきまで聞かれた質問を一切しなかった。
……気にしてるんだろうなあ……。
ほんっと、母さんはなんでああ余計なことばっかり口にする。むしろ美紅がいるから勉強してるっていうのに。そんなことわからない、というはずもない。ただの嫌味だ。
「美紅、今度の土曜日遊園地でも行こうか」
「——え?」
ばっと顔を上げた美紅は、ものすごく嬉しそうな顔をしていた。そのわかりやすい顔に思わず噴き出してしまう。
「なんで笑うのー?」
ぷくっと膨らませた美紅の顔に、笑いは止まらない。
「ごめんごめん」
可愛いのもあるけど、その顔が嬉しかったから。そう言っても美紅にはわからないだろう。
本当に、美紅がいる限り他の女の子なんか興味も出ない。いや、それは嘘だけど。それでも可愛い妹は、特別だ。多分、彼女なんかが出来ても、俺は美紅を優先すると思う。いや、絶対する。
「小毬も誘って行くか?」
「……いいの? お兄ちゃんのお勉強……」
あからさまに行きたい癖に変なところで気を遣う。
「大丈夫、母さんは心配しすぎてるだけだから。兄ちゃん頭いいから大丈夫」
そんなによくはないけど。かといって行ける大学がないほどでもない。
「——うん」
少しだけ考えた後、美紅はとびっきりの笑顔を見せた。
「蒼太—、ご飯—」
二時間ほどしてから母さんの呼ぶ声が聞こえて美紅と共に簡単に部屋を片付けて一階に向かう。
「ただいまー」
階段を降りながら聞こえた声に目の前の玄関を見れば、丁度親父が少し疲れた顔をして中に入ってきたところだった。
「お、出迎えか?」
「まさか。ご飯だって。お帰り」
俺の言葉に続くように美紅が親父の傍に駆け寄って「おかえりー」と笑顔で告げた。父親は嬉しそうに美紅の頭を撫でながら「ただいまー」と笑顔で返す。
親父は美紅に甘いと思う。俺が言うのもなんだけど……。美紅の笑顔を見るだけでなによりも幸せそうな顔を作る。
そのまま親父はひょいっと美紅をだっこして母さんの待つリビングに向かった。
「あら、お帰り」
「ただいま」
へらっと笑う父親は俺と似てるなと、我ながら思う。美紅に対する態度もだけれど、見た目も。
四十歳の親父は年の割には若く見える。身長だって高くて、何で俺の背が平均なのか疑問になるくらいだ。白髪のない髪の毛は染めているのだろうか。濃いめの茶色の髪の毛は昔から変わらない。
「ほら美紅、お父さんも疲れているんだから」
「美紅を抱くぐらい疲れには入らないよ。むしろ癒しだ」
母さんの小言に親父は美紅を抱いたまま「なあ美紅」と同意を求めるように微笑んだ。母さんは呆れたようにため息をついて「さっさと着替えてきてよ」と返す。
こうやってみていると親父にも母さんにも、十七歳になる息子がいるようには思えない。母さんも年の割には同じように若い。働き出してから余計にそう思う。化粧をして、服装だって気を遣うようになった。髪の毛は俺と同じように色素が薄い。その髪には昔はちらほらと白髪が見えたのに、最近ではなくなった。染めているだけだろうけれど。
俺は、今の状態でよかったんだと思うんだ。親父は昔に比べて会社の愚痴が減った。帰りだって早くなった。
母さんも……少し、明るくなったと思う。
一緒に着替えにいくか、と美紅を抱きかかえたまま寝室に向かおうとする親父を母さんが引き止める。
「美紅、手伝って」
「別にもう手伝うことなんかないだろう。料理だって並んでるじゃないか。そんなに焦らなくても」
「——ちょっと……!」
母さんの言葉に、親父は美紅だけをみて笑う。そして母さんには困ったように、拗ねたように口を結んでふたりを見つめた。
「まあまあまあ、手伝いは俺がするからいいじゃん、ほら、ご飯食べないと冷めるよ? せっかく親父も帰ってきたんだし食べようぜ」
ふたりの間に割り込んで俺が笑うと、ふたりは共に仕方がないなと言いたげに背を向け合った。
疲れているからってそんなつまらない喧嘩なんかしないでほしい。なんで大人ってみんなこんなに要領が悪いのか不思議になる。なによりも美紅を挟んでつまらない言い合いをするなと言いたくなってしまう。美紅のいる場所で、そんなもの見せんなよ、と怒鳴りたくなる。でも、そんなことしたら美紅はもっと悲しむから、俺はこうやって仲裁役をかってでる。それで美紅が笑ってくれるなら我慢なんかいくらでもしてやる。
おろおろしている美紅に大丈夫だよ、と目で伝えて「なにしたらいいの?」と母さんの隣に並んだ。
「蒼太はほんっとにのんきね」
キッチンの棚から箸を取り出す俺に、母さんが呆れた様にそう呟いた。
——母さんにそんなことを言われたくないけどな。
その言葉を飲み込んで俺は「なにが」と意味が分からないように告げると、それ以上母親はなにも言わなかった。
母さんは常にイライラして、親父はそれをわかった上でのんびり振る舞いながら美紅をかばう。そして俺が母さんのご機嫌取り。そういう役割分担ができているような気がする。それを、母さんが不満に思っていることも気づいているけれど。
もっと楽に生きたらいいのに。つまらないことで腹を立てないで、笑っていりゃあいいんじゃないか? その方が周りだって楽だろう?
心の中で母さんに語りかけるけれど、当然聞こえることはない。
料理が並べ終わると、ジャージに着替えて親父が戻ってくる。リビングのダイニングテーブルに四人が並んで座り、いつものようにご飯を食べた。
今日のご飯は鶏肉のパン粉焼きにマッシュドポテトにサラダ。
母さんの手料理は昔からずっと美味しい。働きだしてからも以前と変わらないメニューがテーブルに並ぶことを考えると、母さんの頑張りが透けて見えてくる。それに、なんだかんだいつもどこか一品に美紅の好物を入れているのは母さんなりのご機嫌取りなのだろう。
不器用で、面倒、だけどそういう一面があるから俺も親父も母さんに文句を言えない。
「今日会社の佐山さんがね……」
「そういえば同僚の玉木が……」
「蓮がまた新しい彼女を……」
会話は常に飛び交う。俺の話に母さんが驚いたり、美紅が笑ったり、親父が興味を持ったり。母さんの話に親父が相づちを打ったり。話がつまらないから、多分俺と同じように親父もよく聞いてないんだろうけれど聞いているアピールは親父のほうがうまい。
「あ、そういえば今日美紅の算数のテスト、九十点だったんだぜ」
「お兄ちゃん……!」
俺の言葉に、美紅が少しだけ驚きと焦りで俺の名前を呼んだ。
「おーすごいな美紅—」
俺と同じように親父が大きく口を開けて驚いたように美紅を見ると、美紅は真っ赤になって少し恥ずかしそうにうつむいた。
「お前は勉強全然しなかったしなーテスト見せて貰ったことないくらいだもんな」
うるせえよ。と親父の言葉に心の中で舌打ちをする。
確かにテストも殆ど見せたことがない。勉強なんか大嫌いだったのでテストはいつも隠していた。おまけに中学では荒れていた。家にもいない時間が多かったくらいだ。
そう考えると高校生になってからの自分の変化は大きい。テストも全部じゃないけれど見せているし、通知表も渡している。人って変わろうと思えば変われるものなんだというのを、美紅に教えてもらった。
「美紅すごいのねー」
母さんが少し大げさに驚きながら美紅を見る。美紅も同じように少し驚いて、その後でさっき以上に顔を赤くして恥ずかしそうにうつむいた。けれど、
「——私数学苦手だったのに、誰に似たのかしら?」
そんなことを言って、場の空気をしらけさせる。
女は本当にめんどくさい。でも、それは全て、男のせいだ。