29空に向かって悪態
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今日は、暑い……。
暑いのに、背中がぞくぞくする。考えたくないけどどう考えてもこれは……。
屋上で膝を抱えて座りながら自分の体を抱きしめるて小さくなりながら、必死に“気のせいだ”という言葉を呟いていた。
「大丈夫か?」
朦朧とする意識の中に、蒼太の声が響いた。
ゆっくりと顔を上げると、頭上にある青空が、ぐにゃぐにゃに歪んで見える。蒼太の声も、どこか遠いところから聞こえてくるみたいだ。
ああ、やっぱりこれは……。
「風邪だよね……」
小毬がボクの手に冷たい手を当ててつぶやく。
できれば口にしてほしくなかったんだけどな……。そんな気持ちを込めて力なく微笑むと、小毬は眉を下げて心配そうにボクを見つめる。
「勉強しすぎだっつーの」
「あたしの痛み止め飲む? 薬局で解熱の作用もあるとか言ってた気がする」
そして隣では蓮があきれ気味につぶやいて、楓がポケットから取り出した錠剤をボクの手に渡してきた。
テスト一日目。
ふらふらになりながら学校に来て、やっと三時間のテストを乗り越えたボクに、誰もいたわりの言葉をかけない。でもこの感じがボクらっぽい。
ちょっとは心配してほしいけど。
三日くらい前からボクの体調は崩れだした。
最近食欲もなかったから、体力が落ちていたのかもしれない。
それでも無理して勉強して夜更かししていたのも問題だったのかも。体調が悪いから記憶力も集中力もなくなって、それがかえって寝るのも不安にさせて、ゆっくり休むことも出来ないんだから、悪循環としかいい様がない。
こんなに悪化するならさっさとましな時期に無理矢理でも早めに寝て風邪をなおしておくべきだった。
今更だけど。そんなこと自分が一番よく分かっている。
身体の節々も痛く、頭痛までする。
楓にもらった薬を飲んで今日も早く寝たいけど……。こんな日に限って、明日のテストはボクが一番苦手な物理だ。数学は好きなのに、物理はなんだかボクにはあわないらしい。
一番不安な教科の前日に、勉強もせずに眠るなんてできるはずもない。これが悪化させる原因だと言うことは分かっているのに……寝るなんて選択肢はボクの中にはない。
でも、さすがに仮眠くらいはとろう。座っているのも辛いくらいだし、ちょっと横になりたい。
屋上はコンクリートで寝っ転がっても余計に気持ち悪く感じた。
「さっさと帰れば?」
「……帰れる元気が復活したら、すぐにでも帰るよ」
蓮の言葉にそう返すと「なるほどね」と蓮がなおいっそうあきれるそぶりを見せた。
勉強なんて気にしない蓮にはきっとわからないだろう。そんな嫌みまで口からでそうになってしまう。
勉強なんか気にしないくせに、それでもいつも上位にいることをボクは知っている。本気で勉強したら、もしかしたら蓮はボクなんかよりも上位になるかもしれない。
教科にムラはあるだろうけど、それでも。
「とりあえず、今日は体、治せよー?」
蒼太の言葉に「うん」とだけ小さく返す。
ボクの返事にへらっと笑う蒼太。
何で……笑っているんだろう。ボクがこんなに辛そうにしているのに、どういう意味で微笑みを向けているのだろう。
体調が悪いからか、些細なことが気になって仕方ない。蓮の言うようにさっさと帰った方がいいかもしれない……。
自分で自分が嫌になってしまう前に。
と、思っても見ても身体がだるくて動く気にはなれなかった。
はあっと、熱っぽいため息を吐き出してから再び蒼太に視線を移す。霞んだ視界の先には、相変わらず蒼太の笑顔があった。
蓮と違って蒼太は多少の勉強はしているんだろう。最近徐々に成績が上がってるとか楓が前回の期末で言っていた気がする。
今まで楓のちょっと上くらいだったはずなのに、気がつけば離されていた、と怒ってたっけ?
家で勉強ができる蒼太を想像すると、ボクもやっぱり、寝てる場合なんかじゃない。
今日の教科はボクの得意な教科ばかりだったけれど、今回トップは難しいだろうな……。朦朧としていたから、どんな答えを書いたのかも思い出せない。自己採点もできそうにない。
そんなことを考えるだけで、今日の空は曇って見える。
今回は二年の二学期、一回目のテスト。いい成績を残したかったのに……。いや、残さないといけなかったのに……。
兄さんの帰ってきた今、ボクもできるんだよと、言ってあげなきゃいけなかったかもしれないのに。言わなくちゃいけなかったのに。
あの日から、避けている兄さんに、成績を見せてあげたかった。
ほら、大丈夫だろ? って、そう言ってやりたかったのに。そしたらきっと兄さんは、笑ってくれるだろう。仲直りができるだろう。
苛立って八つ当たりした。だけど謝ることができるほどボクは大人じゃない。意地だってある。だから、ちゃんと証明して、また兄さんに、好きなことをして欲しい。
その気持ちに嘘は、本当にないんだ。
「あ、彼氏だ! んじゃあたしは帰るねー」
携帯を取り出したのだろう楓が、そういってボクの隣を慌てて通り過ぎる。
顔を向けて挨拶しようにも、ボクの頭はくらんくらんで、動かすことができなかった。
軽く手を挙げて左右に小さく降る。それを楓が見ていたかどうかはわからないけれど、バタン、とドアが閉まる音が響く。
彼氏に会うのはいいけど、勉強もしてくれたらいいのに……。
楓だって勉強すれば赤点に悩むなんてことはなくなると思う。楓はああ見えて、一途すぎるところがあるから。こうしてテスト中だって言うのに、彼氏からの連絡が来ればすぐさま向かう。
どんな人と付き合っているんだろう。楓は本当に……自分のことを後回しにしがちだ。
元の薬を見つめて、ボクは半分だけにして貰えば良かったな、と思った。そういえば、今日、楓はお腹が痛いとか言っていた。だからこの薬も持っていたんだろう。なのにボクに渡すんだから。
「んじゃ、俺らも帰るわ」
「ばいばい」
続いて帰ろうと声をかけてきた蓮と小毬に、顔も見ないまま手を振った。
ふたりはどんな表情を蒼太に向けているのだろう。そんなことどうだっていいのに。ボクが気にしたって仕方ないのに。
「おー」
そして蒼太は、どんな表情で二人を見送っているのだろう。
「……蒼太は、いいの?」
ぽつりと、小さくつぶやいた。聞こえなくてもいいかな、と思いながら。
だけどボクと蒼太しかいない屋上には、ボクのふらふらになった声も届いたみたいで、蒼太は「え?」と返す。
だって……蒼太も、小毬のことが。
そういいたい気持ちをぐっとこらえる。我慢すると、代わりの言葉も吐き出すことはできなかった。
静かな沈黙が降りる。
目を開けていると視界がぐるぐる回って気分が悪くなるから、ボクはずっと目を閉じていた。
楓にもらった薬を先に飲んでおいたほうがいいかもしれないけれど、水を手にするのも億劫。
「智郎は、本当に、みんなのことをよく見てるよな」
みんなが見てないだけだよ。何でみんなわからないんだろう。
「……彼女と、うまくいってるの?」
「まあ、悪くない」
よくもないってことか。
蒼太の声からは、いつもの飄々とした雰囲気を感じることはなかった。
「蓮なら、小毬も、幸せだろ」
何を根拠にそういうのかわからない。何でそんな思考になるのか。
小毬の幸せを願っていることは、そのセリフがなくても充分わかっていた。過保護すぎるくらい。四六時中と言っていいほどそばにいて小毬を大事にしていることはみんな知っていること。
こっそりと小毬に嫌がらせする女の子達にも釘を打っている。ボクはそれを知っている。
小毬の幸せを望むのならば、自分でしてあげればいいのに。なんで、それを拒むのか……ボクには全くわからない。
そもそもその蓮にとっても、蒼太は……酷なことをしているって言うのに。
蒼太の行動や思いが……小毬を不幸にしていることに、どうして気づかないんだろう。だって、 小毬自身は、蒼太のことが好きなんだから。
さすがにボクの口からそんなことはいえないけど。
蒼太の考えていることはわからない。わかるのに、その奥底の気持ちが全くわからない。
思っていることは分かる。わかるのに、蒼太の行動はいつも理解出来ない。
いつも笑っている。笑っている姿しか思い出せないくらい、蒼太は笑顔。何で、笑えるんだろうと思うときもあるくらい、蒼太は、笑顔を崩さない。
ボクが風邪気味で朦朧としているからなのかもしれないし、顔を見ていないからかもしれないし、そんなもの関係なく、ボクは蒼太のことをわかるなんてできないのかもしれない。
みんな、何でそんなに……自分勝手なんだろう。
蓮も、蒼太も、小毬も、自分のことしか考えてないんじゃないか。
楓は楓で、自分のことを考えなさすぎる。それも結局自分のため。それが悪いと思っている訳じゃない。
だけど……。
うっすらと目を開くと、さっきと変わらずぐにゃぐにゃになった空は、ボクがいつも見ていたはずの屋上の空とは違って見えた。
「帰る」
むくっと起き上がって、揺れる頭を支えるようにしながら立ち上がった。
ダメだ。このままひとりで、屋上にいたら……どんどん最低な人間になってしまいそう。ここにいるとどうしても……みんなのことばかり考えてしまう。
何で今更こんな事を考えちゃうんだろう。今に始まった事じゃないし、そんなみんなを好きだったはずなのに。
風邪のせいだ、きっと。
早く風邪を治さなくちゃ。
「大丈夫か?」
「ん」
ふらふらと出口に向かうボクの背中から、蒼太の声が聞こえて小さく返事をした。
ちらりと霞む視界で蒼太を見れば、さっきと変わらない姿でボクを見つめる蒼太の視線とぶつかる。
「……蒼太は? 帰らないの?」
「美紅を迎えに行くには、まだ早いから」
ああ、妹か。テスト期間だって言うのに、テスト勉強もすることなく屋上で時間をつぶせる蒼太が羨ましいな。
「……蒼太は、彼女のこと、好きなの?」
気がついたら口にしてしまったけれど、焦る元気もなかった。
ボクの言葉に、蒼太は笑顔を崩すことなく、だけど確実に間を置いてから、さっき以上に微笑みながら言葉を発した。
「……好きだよ」
——嘘つき。
そう言いたげに微かに口端をあげたけれど、蒼太はそんなボクの反応にすら、笑顔を崩さなかった。
蓮よりも、蒼太の方が……タチが悪いのかもしれない。
そんなこと思って、屋上を後にした。
バタン、と重い扉が閉まる音が、ふらふらで散らかった頭の中にしっかりと届く。
心なし、心が軽くなったのは……なんでだろう。




