28霞みも目を閉じれば
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家に帰ってきてから早速テスト勉強を始めた。
けれど……集中できないまま、刻々と時間がだけが進んでいく。
かれこれ三時間以上は机に向かってはいるけれど、英単語のひとつも今日のボクには記憶できていないだろう。寧ろ忘れていってしまっているんじゃないだろうかと思えるほどだ。
教科書の英語は全て意味の分からない文字にしか見えない。
はあーっとため息を吐き出すついでに、ぐいっと大きく背を逸らした。ポキポキっと小さな音が響く。
「……体がだるいな」
蒸し暑さを感じて、立ち上がり窓に手をかける。
九月も終わって、いつのまにか十月。けれど、まだ蒸し暑く感じる日々。地球温暖化はだてに進んでない。
いい加減に涼しくなってくれたらいいのに。
包まれる熱に体が重くて身動きが取れなくて息苦しくなってくる。毎年訪れる夏なのに、どうして今年はこんなにも憂鬱な気分になるんだろう……。
窓を開けれればほんの少し風が部屋の中に入ってきて、少しだけ息を吐き出すことができた。
空を見上げれば、星一つ見えなかった。
……明日は曇りかもしれない。
「もうちょっと……がんばるか」
テストまで一週間もない。
寝てる場合じゃない。勉強したって何も頭に入らないから諦めて布団に入ってしまおうかと一瞬頭をよぎったけれど、その考えを振り払って再び椅子に腰を下ろした。
兄さんだったら……こんな風に勉強しなくても、トップの成績を残せるんだろうな。
毎日十二時から一時まで勉強して。テスト前は大体三時まで。
それだけ勉強してボクはやっと、学年でトップになった。けれど、毎回トップなわけじゃない。五番以内をうろうろしている感じだ。
模試でトップになんてなったこともなければ、十番にさえ入ったことはない。最高で二十番だったかな。
兄さんは、どれだけ勉強していたんだろう。
当時のボクはあまり気にしていなかったけれど、それでも……今のボクほど必死になっていたようには思えない。それでも……兄さんはボクと違って、模試でトップを取る。それも、確実に。
——『お前、今度のコンクールに何か出さないか?』
先生の言葉を思い出し、隣の棚にあったスケッチブックのうちの一冊を取り出して、パラパラと捲った。
五冊並んだうちの右からふたつめ。中学のころのスケッチブックだ。
今のボクの絵とは少しちがって、線も荒い。けれどこの時期が一番絵を描いていたような気がする。現に五冊あるうちの四冊は中学時代のものだ。
いつからか描き始めた絵を、こうして時々気分転換のついでに捲って眺めていた。なぜかわからないけれど、それをするだけで、すごく心が落ち着いてくる。
「よくこんなに描いたよなあ」
ぽそっとつぶやいて、眺める。
そして、何かがむくむくと自分の中に沸き上がってくる感情に、なぜだか笑みがこぼれた。
クレヨンで描かれた空は、カラフルに彩られている。自分の絵だけれど、今の自分には描けそうもないほど、キラキラしてまばゆく思える。
この頃のボクは何も考えていなかった。好きなように笑っていた。それが良かったのか悪かったのかは分からないけれど、それでも多少のうらやましさを抱く。
蓮や、蒼太に抱く思いと似ているかも知れない。
そして……やっと先生が今日言っていた去年の賞の下書きを見つけた。
これのテーマはなんだったっけ……?
去年描いた絵は、授業の一環だった。選択授業で美術を選んだ生徒はみんな、同じ賞に参加した。その中で、ボクは優秀賞。最優秀賞ではなかったことに、ほんの少し不満を抱いていたことなんて、誰も知らないだろう。
窓からみた鳥。
だけどどこか抽象的に描いたその自分の絵。
「楽しかったんだ」
ぽつりとつぶやいて、無性に泣きたくなる。
何で……こんな気持ちになるんだろう。
……今ならどんな絵をかくだろう。
何でもいいよと言われると……今は難しいかもしれない。
参加するだけなら、たぶん、できるだろう。勉強の合間に描けばいいだけ。昼休みに時間を作ることだってできる。勉強する時間は確かに減るかもしれない。ボクの成績だったら、簡単に十番は落ちるだろう。
だけどボクがそうしないのは、勉強のことだけじゃない。
今度参加しても、賞には入れないかもしれない。去年は優秀賞だったのに、今年は選外かもしれない。
その方が、怖いんだ。
考えたことがないわけじゃない。
もしも兄さんがずっと日本にいたら。あのまま何事もなく医者を目指していたら。
ボクはなにになろうとしたのだろう。何になりたかったのだろう。
じゃあ、兄さんが帰ってきた今……ボクは……何になればいいんだろう。
考えたって意味がない。そんなことはもうわかっている。
「智郎、まだやってたのか」
トントン、とノックする音と同時にドアが開かれる音がしてスケッチブックを慌てて閉じて顔を上げる。
今帰ってきたのだろう兄さんが、ドアのすき間からボクを見て驚きの表情を作っていた。
「もうすぐ、テストだから……」
驚くのも無理はないだろう。
兄さんがいるときはこんなふうに勉強をしていたことなんて一度もない。いなくなってから、はじめたこと。
そのまま部屋の中に入ってくる兄さんに、ボクは体ごと振り返った。
ちらりと時計に目をやれば、既に十一時過ぎ。
兄さんは、今までどこに行っていたのだろう。晩ご飯の時はいなかった。けれど……それを両親に聞くことがボクにはできなかった。
兄さんが帰ってきたことを一番喜んでいるのは、父と母だろうと思う。そんな両親に“兄さんはどこいったの?”なんて口にしたって、嬉しそうに“こっちにいるんだからいいじゃないか”と言われるのがオチだ。
医者になる勉強をするんじゃなかったっけ? なのに、どこに行ってるんだろう。日本で何をして過ごすつもりなんだろう。
もしかして予備校を探しに行ったのかな、と思ったけれど 手にはなにも持っていないことを確認して、思わずため息が漏れそうになる。手ぶらで図書館に篭って勉強していた、なんてことはあり得ない。
アメリカに行って自由になれてしまったのかも知れない。メールで語っていたように、好きなようにやりたいことを思う存分楽しんでいたんだろう。
いいな……気楽で。
だけどそれ以上に、そんな兄さんでも、ちょっと勉強するだけでも今のボクよりも成績は上だろうということに悔しさを感じてしまう。
「智郎、そんなに勉強好きだったっけ?」
好きなわけないじゃないか。兄さんが、いなくなったからだよ。
「医者目指しているんだって?」
兄さんが、放棄したから。だからボクが代わりにならなくちゃいけないんだろう? それをみんなが求めているんだろ。兄さんだって、わかってたんだろう? わかっていて、大学をやめたんだろ?
ボクのそばにやってきて、ボクの机の上にあった教科書をぺらぺらとめくる兄に、なぜか苛立ちと恐怖心が芽生えてきた。
なにもできなかったボク。
期待されていた兄さん。
そんな兄さんがいなくなって。ボクは、そんな兄さんの代わりを務めているんだ。みんながそれを求めている。
「——智郎は、他にしたいことがあったんじゃないのか?」
兄さんは、パタンと教科書を閉じて口にした。
「父さんと母さんが、智郎は……急に勉強をするようになったって……言ってたけど。お前、それがしたいことだったのか?」
責めるような口調に聞こえるのは、ただの被害妄想なのかな。
……何で急にそんなことを言うの。父さんも母さんも、そんなふうに思っていたの?
いい点数を見せたら喜んでくれた。その心の奥で“お兄ちゃんよりも低い”と思っていたかもしれない。いや、思っていただろう。それでも喜んでくれていたと、信じたかった。
「あまり、無理をするなよ?」
「無理って、決めつけないでよ……」
頑張った。頑張った。
それは無理をしているわけじゃなかった。苦痛だと、思わないわけじゃなかったけれど、イヤだと、こんなのやめたいだなんて思ってなかった。
勉強を無駄だと思ったこともない。やればやるだけ結果が出るのはうれしくもあった。自由な時間は確かになくなったかもしれない。絵を描く時間だってなくなった。
だけど。それでも。
「でも、お前……、俺がいなくなってから無理して医者を……」
「無理してないって言ってるだろ!」
気がつけば、ぎゅうっと拳を作っていて、声を荒げていた自分に気づく。
気づいたところで、どうすることもできない。今更感情を抑えることもできない。
「兄さんが、勝手にいなくなったんだろ!? なにもかもを投げ捨てたのは兄さんじゃないか……! ボクのことも、父さんのことも母さんのことも。全てを投げ出して、勝手にやめたんだろ!」
兄さんがいたら、きっとボクはこんなことしてない。
だけど、兄さんがいたら、ボクはこんなにも頑張らなかった。
なにも考えてなかったボク。
何かを考えるようになったボク。
必死に考えて、ボクは——。
「でも、それじゃあやっぱり智郎……俺の代わりに……。そんなこと、しなくても」
やめてよ、頼むから。
「ボクの、選んだことを……バカにしないでよ……」
拳だけでは感情を抑えることができなくて、唇を噛む。奥歯がかくかくと震えるのが自分でわかった。
高ぶった感情で、涙が溢れそうになって必死に堪える。
言葉を発したボクに、兄さんがどんな顔をしているのかはわからなかった。
もう放って欲しいんだ、ボクのことなんて。
帰ってこなければよかったんだ兄さんなんか。
なにもかも投げ捨てたのに、そしてボクは、ボクためのためじゃなく、いろんなことを考えて選んだ道を進めばいいだけだったのに。
好きにするのは、兄さんでいいんだと思っていたのに。今までボクが自由だったから、それが交代しただけ。
「もう、出てってよ! 邪魔だから……!」
なにも言わない兄の顔を見ることもなく、背中を押して、無理矢理部屋から出した。
出てって。自由にするならすればいい。その代わりにボクのことは放っておいて。
部屋の外に出して、ドアに手をかけたボクを兄さんがひどく悲しげな顔で見つめていた。
「とも——」
「ボクは……、この道を、ちゃんと選んだんだ。ボクが」
そう言って、パタンとドアを閉める。
その音と同時に、自分の胸に何かが突き刺さった。
「……勉強、しなきゃ」
ドアにくっついたんじゃないかと思うほど、ぴったりと添えていた手をはがし、ゆっくりと背を伸ばした。
そうだ、勉強しなくちゃ。もうすぐ中間テストが始まる。
机に向かう途中に、本棚のスケッチブックが視界に入ったけれど、ボクは見なかったふりをして読めない言語に埋め尽くされている教科書をただひたすら眺めた。