27今にも雨が降りそうな
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小毬と蓮と、当たり障りのない会話を心がけながら学校に向かった。
校内に足を踏み入れると、やっと解放されるのかと、ほっと胸をなでおろす。そう思った自分に驚いた。
今まで一緒にいると気が楽だったのに……そんな風に思ってしまう自分がイヤになる。
なんでこんな事になってしまったのかと、自分に問うてみても、答えなんか見つからない。それがなおさらボクの気分を下げていく。
「あ、いたいた!」
校舎に入ってクラスへと向かう途中で、引き留められる声が聞こえた。それが誰に向かってのものなのか分からず三人同時に振り返る。
けれど、美術の先生の顔を見て小毬と蓮はボクの顔を見た。
ボクに用事なんだろう、となんとなく気づいてボクらと同じように振り返っていた生徒達も前を向いて各々教室に向かっていく。
美術の先生ってみんなこんな風に汚れているのかな、なんて思いながら先生がボクのそばまでやってくるのを廊下の真ん中で三人並んで待つ。
本当にボクに用事があるのかどうかは定かではなかったけれど、先生の表情はボクを引き留めていた。ボクだけを真っ直ぐに見つめている。
「あー丁度よかった。今からクラスに行こうかと思っていたんだ」
「何ですか?」
最近先生に呼び止められる回数が増えている気がする。
受験が近づいているからかもしれないけど……この先生が受験絡みでボクに用事があるとは思えない。
油絵の具がそこら中についている汚いジャケットに、無精髭のこの先生とは、美術の時間で絡む以外の接点は殆どなかった。
今年になって口をきくのは初めてかも知れない。
一年の頃に美術部への入部をひどく勧められた記憶はある。アレは確か……ボクが去年の授業で描いた絵がなんかの賞に入ったときだった。
「お前、今度のコンクールに何か出さないか? ほら、去年も参加したやつ」
「……ああ、もうそんな季節でしたっけ? っていうか。あの作品って美術部のみんなは夏休みかけて制作するんじゃなかったでした? ボク何もしてないですよ。今は美術の選択もないし」
「まあ、そうなんだけど……あと一ヶ月もあるし、どうかなと思ってな」
一ヶ月も……って。他の生徒が二ヶ月以上かけているのに、ボクが一ヶ月で出来るとは思えないけどなあ。授業で一学期の間ずっと描いていた去年ならともかく。
うーんと、少しだけ悩むフリをして「すみません」と返した。
一ヶ月何も予定がないなら出来ないこともないだろうけれど……そろそろ受験だ。そんなことをしている場合じゃない。
絵は……描きたいけれど。
「そうかー……」
先生はあからさまにがっくりと肩を落とした。
美術部員は何人かいるだろうに、何でそんなことを突然ボクに言うんだろう。
ボクが賞をとれたのだって、たまたまだと思っている。あのとき、両親は褒めてくれたけれど、複雑そうな顔をしていたのも覚えている。
「あと、お前美大とかには興味無いのか?」
「え?」
背を向けようとした先生が、立ち止まって振り返った。と、同時に発せられた言葉に、思わず目の前が真っ白になるような感覚がボクを襲った。
美大……? ボクが?
「いや……ボクは……」
「まー……学年トップだもんな。お前を美大にそそのかしたら俺が他の先生に怒られるなあ。いや、去年の見ていたらやっぱり、いい絵だなあって思ってつい、我慢できなくてなー。授業中楽しそうに描いていた姿思い出してやってみたいんじゃないかと。まあ、気にするな」
ははっと乾いた笑い声で先生は再び背を向ける。
美大なんてボクが行けるわけない。美大に行くには……みんな必死に絵の勉強をしているんだろ? ボクは何もしてないんだからできるはずない。
いや、そんなこと関係なく、医者に……なるんだから。ならなくちゃいけないんだから。
でも、なんだか胸が苦しい。なんでなのかわからないけれど、目に見えない何かが頭上にあるような、気配に胸が高鳴る。
無意識にぎゅっと強く拳を握っていたのか、手には汗が滲んでいた。
「お前やっぱ医者になんの?」
先生の背中を見つめていると、背後から蓮がそう言った。
振り返れば、蓮はいつもの蓮で、自然体で、あるがまま、そこにいるように見える。
なんで、蓮は……そんなふうに真っ直ぐに立てるんだろう。蒼太のことに、悩んでいるようには見えない。いつも蓮は、自信に溢れている。
それが眩しく思えて目を逸らしながら「なれたらね」と明るく答えた。
「美大、行けばいいじゃねえか。お前絵描くの好きだろ?」
「趣味だよ……。この先もそれでいいって思ってるから」
乾いた笑いを零しながらそう返すと、蓮はそれ以上何も言わなかった。呆れたような顔をしているんじゃないかと思うと、顔を上げることはできない。
「やっぱりともろー家を継ぐの?」
「え? あ、ああ、うん」
そばにいた小毬がボクを見て首を傾げる。その姿に、少し後ろめたさを感じながら答えた。
「お医者さんかあー。ともろー頭いいもんねえ」
「絵すりゃいいのに」
小毬の言葉を聞いているのか聞いていないのか、蓮が素っ気なく言葉を発する。まるで独り言なんじゃないかと思える程、小さな声で。ボクの返事は期待してないように。
「蓮だって写真で進めばいいじゃん」
「オレの方こそ趣味だっつの。大学は行きたくねえけどな」
さりげなく話題を逸らすと、蓮は勉強するのはこりごりと言った風に項垂れながら教室へと向かい始めた。
「小毬は? 大学決めてるの?」
「私は短大かな。保育士になろうかなーって」
「そっか、小毬なら似合うよ。蒼太の妹……美紅ちゃんだっけ。仲良いんでしょ?」
手紙のやりとりをしているのを、屋上で見た気がする。蒼太が小毬に、妹からだと言って渡していたり、小毬が渡したり。
仲がいいんだなあって思っていた。
美紅ちゃんがいくつなのかしらないけれど……小毬ならきっといろんな子供に好かれるだろう。
「あー……うん」
一瞬曇った小毬の表情に引っかかりを感じたけれど、小毬はそのまま「じゃあね」と教室に入っていった。
「……お前、ずっと不思議な顔してる」
教室に入っていった小毬を見送っていると、蓮が笑いを含めたような声をかける。複雑な笑顔をボクにむけて。
「……そんなこと……」
「お前、顔に出すぎ」
ぶはっと吹き出した蓮は、自分の教室に向かって歩いていった。
分かっているなら……何で?
そう聞いても……いいんだろうか。
蓮のちょっと後ろを、足もとを見つめながら歩いていると蓮が小さく「大丈夫だから」と囁いて、ボクは顔を上げた。
「大丈夫だよ。傷つけない。もう、傷つかない。その為にそばにいるよ」
「そう、か」
前を見たまま呟くその言葉に、ボクは蓮の背中に向かって、蓮と同じくらいの小さな声でそう、答えた。
そうか。それじゃあもう……ボクは何も言わない。言わない方がいい。
それでも多分傷つくと思うけれど。そんなことは、もう言わない。
だけど蓮。“その為にそばにいる”その理由に、小毬のことが大事だから、は含まれるのかな。そんなことを考えてしまうボクは、嫌味な性格なのかもしれない。
けれど、蓮の後ろ姿は堂々としていた。
真っ直ぐに前を見ている。いや、前も見ていないのかも。どこも見ず、自分の思うように進んでいる。
なんて、自由なんだろう。
その姿にこんなことを思うのは失礼だって事くらい分かっている。蓮だって、蒼太への思いできっとたくさんの苦痛を感じている。出来ないこともたくさんあるはず。
なのに、それでも、ボクは蓮が羨ましいと思う。
それと同時に……多分、ねたましさもある。
蒼太への気持ちを抱いているだろう蓮に気づいたとき。ボクは間違いなく。どこかほっとした気持ちを抱いていたから。
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その日のお昼は、二日ぶりにみんながそろった。それだけで、屋上は遥かに賑やかに感じた。いつもよりも空が高くて綺麗に思えた。
「あー! もう無理!」
「ちょ、楓! ボクのノートなんだから!」
テスト範囲も発表され、みんなで何となく教科書を開くと、楓が一番にさじを投げる。と同時にボクのノートをぽいっと投げ捨てた。ボクに勉強を教えてって言い出したのは楓なのに。
テストまで一週間。楓の追試がどうなるのかが一番心配なんだけどなあ。授業もさぼりがちだし、来ていたって寝ていることが多い。今までのテストはいつも赤点ギリギリだ。
「もう何も頭に入らないよ。無理無理。赤点免れたらもうなんでもいい」
「それすら危ねえんじゃねえの?」
ボクの言葉に、楓が空を仰ぎながら文句を返した。
それに対して、一番早く反応したのは蓮。
蓮の場合は、テストは大丈夫だろうけれど、出席日数が危ないだろうけど、そっちは大丈夫なんだろうか。
いつものようにフェンスにもたれ掛かってボク等の様子を眺める蓮は、そんなこと気にしてないのか、余裕たっぷりの表情だ。
「俺は何とでもなるよ」
じいっと見つめるボクの視線に気づいた蓮が、にやりと笑って告げる。ボクの考えていたことまで、蓮にはバレバレだったみたいだ。
「でも卒業できないかもしれないじゃん」
「そんときは速攻学校やめて、どっかの写真家のアシスタントでもするかな」
……そんな……簡単に……。
軽く告げられた蓮の台詞に、言葉が詰まる。
「蓮やっぱり写真に進むのかよ」
「いや、別に。それしかないならそれでもいいかなと思って」
蒼太と蓮の会話に、ボクは何も言う事が出来なかった。
そんな風に……軽く決めて、進めるわけじゃないじゃないか。蓮の写真のレベルなんてボクにはわからないけれど……少なくとも、そんな思いつきでできるものじゃないだろ?
口を開けばそう言ってしまいそうな自分がいる。
「まあ、蓮なら何とかしてでも生きていけそうだよなあ」
「あー分かる。生きるためなら何でもしそうだし。変な余裕もあるしね」
「変なってなんだよ」
楓や蒼太、蓮の会話を、ボクはただ聞いていた。
いろんな思いがむくむくとボクの胸の中で沸いてくる。黒い雲が、ボクの心を覆い隠す。いや、染めていくのかも知れない。
「ともろー?」
「え?」
小毬の声に慌てて振り返ると、小毬が少し心配そうに首を傾げてボクを見ていた。その表情に、ちくりと胸が痛む。
「どうしたの? こわい顔してる」
「……いや、ちょっと、寝不足かな……」
眉をへの字にしてボクを見る小毬を直視できずに、適当に笑って返す。そんなボクの返事にも、小毬は眉を下げたままだった。
「勉強のしすぎじゃねえの?」
蒼太が真面目な顔をして、隣の蓮は「ホントだ。顔色わりーんじゃね?」と言う。
ふたりは、何でこんなに余裕なんだろう。今度のテストにしても、焦った様子は全くない。そして、進路にだって。
ボクは……。
「そんなことないよ。でもちょっと……保健室で痛み止めでも貰ってくるよ、頭も痛いし」
口から出任せを並べ、ボクはゆっくりと立ち上がる。別に頭なんか痛くないのに。何でボクはこんなことを言ってしまっているんだろう。そう思っても、立ち去ろうとする自分の体を止めることなんか出来ない。
何も考えたくない。
今ここにいることだけを考えていたい。今まで考えて、過ごしてきた自分を信じていくしかないんだ……ボクは。
そうなることを、誰もがきっと望んでいる。それでよかった。それでよかったはず。ボクだってそんなことに不満なんか感じてなかった。なのに。
——『こっちで、医大に通う』
「……ホントに……頭痛くなってきた……」
階段をひとりで降りながら、苦笑混じりに呟いた。