26風は雲だけを取り残す
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日が沈むのが徐々に早くなっているような気がする。
と言っても、予備校が終わったこの時間、十時にもなれば暗くなるのも当たり前か。
さすがにちょっと疲れが溜まってきたな……とため息を零しながら、肌寒くなってきた夜道をひとりで歩きながら家を目指した。
学校が終わって、すぐに予備校に行って、もうすぐやってくるテストに備えて予習。そしてまた学校に行って授業を受ける。高校が始まってからは大体そんな毎日だ。
蒼太たちと遊ぶことだって一ヶ月に一回あるかないか。
そんな毎日を過ごすことを、辛いとは思っていない。しなくちゃいけないことだと思っているから。
だけど、疲れないっていうわけじゃない。
それに加えて、最近睡眠時間が短くなっていたからか、こめかみが少し痛む。
今日は早めに寝ようかな。
「ただいま」
今日は教科書をひらくのもやめておこう。
……蓮たちのことを考えるのも。
そう思いながら家のドアを開けて、声をかけながら階段を登ろうと思ったとき。
「あ、智郎、お帰り」
聞こえるはずのない声に、思考が停止した。
……この、声は?
ゆっくりとリビングの方に視線を動かす。
そこには、リビングから出て来たところなのか、兄さんが、ボクを見て立っていた。
ボクの記憶にある兄さんよりも、少し、男らしくなった兄さんの姿がそこにあった。
「ど、どうして」
「や、この場合は俺が“ただいま”って言った方が正しいのかな」
そんなこと聞いてないよ。
ボクが驚いているのを気にもしないで、無精髭をさわりながら、兄さんはおどける。
まるで昨日も家にいたかのような、自然な兄さんの姿に、ボクのほうがおかしいのではないかと思った。
おおきくなったなーなんて言葉を吐き出し、ボクの姿をまじまじと見つめる視線が気持ち悪い……。
なんでそんなことが言えるんだろう。昨日まで兄さんに対して抱いたことのない感情が自分の中にわき上がってきて、そんな自分に嫌悪感を抱く。
「なんで……」
「とりあえず、着替えてきたら?」
ボクの質問の意味を分かっているクセに、兄さんは唖然とするボクをみてクスッと笑ってから言った。
落ち着いたら話すから、と言っているのだろうか。けれど兄さんの言葉から確実に分かったことはといえば、兄さんは、すぐには帰らない、それだけ。
なんで、どうして……急に帰って来たんだろう。
まだハッキリしない頭で、兄さんに言われるがまま自分の部屋に戻り、のろのろと部屋着に着替えた。
昨日、メールが届いた。でも、そこには何も書かれていなかったし、そんな雰囲気もなかったのに……。なんで何も言わずに、こんな真似を?
何故か胸騒ぎが収まらない。
嬉しいはずなのに。兄さんが帰ってきて、喜ぶことはあれど、こんな風に不安を感じる必要なんてないのに。
ふるふると頭を振って、自分の不安を誤魔化してから階段を降りた。
「お、智郎降りてきた。ご飯にしようか」
ボクの姿をいち早く見つけた兄さんが、母にそう提案して、次々と料理を並べていく。
きっとボクの帰りを待っていてくれていたんだろう。
あまりに豪華なご飯をみて、両親は、兄さんが帰ってくることを知っていたのだろうか、と思った。
なんで、何も言ってくれなかったんだろう。
兄さんが今日、何時に帰ってきたのか知らない。けれど今日突然帰ってきたのだとしても、これだけ料理を用意する時間があったのなら、連絡くらいしてくれたらよかったのに……。
にこにこと、嬉しそうな顔ばかりの家の中にボクだけがついて行けない。
呆然と立ち尽くすボクを見て、兄さんが「座れよ」と椅子を引いた。
その席はいつも空白の席で、ボクがいつも座っていたのは、今兄さんが座ろうとしている席だ。兄さんは、きっとそれを知らないだけ。それなのに、厚い雲がボクに覆いかぶさるような、息苦しさを感じた。
それを自然に受け入れる両親の顔を、見ないようにして……以前のボクの席に腰を下ろす。
久々に埋まった四つの席。
ボクを除くみんなが、嬉しそうな顔をして箸を動かした。
「どうして……急に?」
しばらくして、ボクはやっと、聞きたかった言葉を兄さんに投げかけた。
ボクの言葉に、一瞬箸を止めて、優しく微笑む。
「当分、日本にいるよ」
当分、ということは。いつかは帰るって言うこと?
「こっちで、医大に通う」
——……え?
言葉を失うって、こういうことなんだろう。
目の前が真っ白になったような気がして、体がふわり、と浮いたような気がした。
「まだ決定じゃないけどな。ちょっと落ち着いて考えたくなって。智郎のことも気になっていたし」
「智郎はお兄ちゃんっこだったものね」
「いつも後ろについていたなあ」
賑やかな食卓が目の前に広がっている。今までの食卓。あるべき姿だ。ボクはこの時間が大好きだったはず。
いつもこの時間、ボクは毎日目を輝かせ、兄さんや両親に今日遊んだことを口にした。兄さんの成績の報告に感心してボクが自慢げになったりしていた。
兄さんがいなくなってからの食卓は、暫くとても静かだった。
やけに目につく兄さんの座っていた席。そこにボクが座るようになって、いつのまにか寂しさも薄れ、三人でご飯を食べる毎日が普通になった。
違和感がなくなったわけじゃないけれど、それが普通になっただけ。
兄さんのことが好きだった。ボクに限らず両親だって。
だからこの状況に喜ぶのは当たり前のことで、ボクは誰よりも喜ぶべき弟だった。
なのに、食卓が遠く感じるのは、どうしてなんだろう……。
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「行ってきます」
今日もまだ暑そうだ。玄関を開けてそんなことを思う。真夏の暑さに比べたらまだましだけど……。長袖だとさすがに厳しい。
「お、行ってらっしゃい」
背後から寝起きの兄さんの声が聞こえて、ボクは曖昧にほほえみ返すしかできなかった。
あんなに心配していたはずなのに、どうして今のボクは、兄さんの姿を素直に受け入れられいなんだろう。
自分でも言葉にできない、よこしまな感情が兄さんに伝わってしまいそうな気がして、すぐさま目をそらして背を向けた。
そんなボクを、兄さんはどんな顔をしてみているのだろう。
晴れた空の下なのに。どこかくすんでいるボクの周り。……いつからだろう。気がつけばずっと、そんな気がする。
じわりと浮かび上がる汗を拭いながら空を見上げた。
電車とバスを乗りついで学校に向かうと、同じ学校の制服が増え始める。
バスにも同じ制服は多くいるんだけど……バスで見るよりも道に同じ制服があふれていることの方がおもしろく感じる。同じ方向に進む同じ服に身をまとった人たち。
道を紺色で塗りつぶそうとしているみたいだ。
アリみたい。なのにアリじゃない。
この画を、絵にするなら……ボクはどうするだろう。
グレーの道路に、紺色の制服。そして青空。その絵には……何色があうだろう。
このまま描いたらきっとおもしろくない。せっかくいろんな人がいるんだから、いろんな色を使ってみたいな。
ぼんやりと思い描くボクの絵だけが、晴れて感じる。
「あ、ともろー!」
背後からの声に我に返って振り返った。
そこには、ボクを見て手を振る小毬と、その隣で眠そうに歩く蓮。
「……珍しい組み合わせだね」
思わず朝の挨拶よりもそんな言葉が口からこぼれる。出来るだけ狼狽せず、いつも通りに笑顔を向けて。
「蓮が遅刻しないことも驚きだけど」
「まあ、たまには」
ボクの言葉に、蓮はいつも通りに少し素っ気なく答えた。だけどそれに救われる。
あんな話をしてしまってから、蓮と話すのは初めてだったから、どんな反応をされるのかと不安があった。
今日の昼にも来てくれなかったら、蓮に会いに行かなくちゃとまで決めていたのに、蓮はボクと目を合わして、言葉を交わしてくれる。
目の前の蓮は、いつも通り。
ボクと話なんかしたくなければ、蓮はきっと、ボクの目を見てくれなかっただろう。
素っ気なくとも、それはいつものことで。それでもボクの目を見てくれることにほっと胸をなで下ろした。
「待ち合わせしたんだけど、時間通りにきたんだから。待ち合わせた私もちょっと驚いたんだよ」
小毬の明るい声に、ボクは「そりゃ、蓮は遅刻の常習犯だからね」と返すと、蓮が「うっせえな。もう時間なんかまもらねえよ」と面倒そうに文句を呟く。朝から小毬にそうとう驚かれたんだろう。
待ち合わせして一緒に学校に来る。それだけ、二人はつき合うということに進み出したってことなんだろう……。
小毬は今まで、蒼太と一緒に来ていたのに。
小毬は今まで、蒼太だけを見ていたのに。
何で……急に。
そんなことを思いつつ、ボクはそんな思いを悟られないように二人に笑顔を向けた。
疑問を抱いたところで仕方ない。きっと二人にはそれぞれ思うことがあるんだろう。ボクが何かを言える立場でもない……。また、蓮を苦しめるかも知れない。
だったらなにも言わず、こうして話が出来る状態でいるほうがいい。
正直、この前蓮と話した雰囲気から、二人はもう別れるんだと思っていた。なにがどうなって付き合ったままなのかは、気になるけれど、気にしない方がいい。
でも、小毬は……蓮の本当に好きな人を、蓮の蒼太への感情を知ってるのかな……。
そんなことを思いながら、余計な事は口にせずに学校へと向かった。
どっちがシアワセかなんて、ボクには決められないから。
蓮が普通に話してくれたのだから、蓮はこの道を選んだってことだ。自分の気持ちを切り捨てようとしているのかもしれない。なにかを決めて、小毬と付き合うんだろう。
多分、それは小毬も。
ただ、二人が傷つかないことをぼくは願って応援するしかない。
ボクが、傷ついて、寂しくならないために。
つまりは、ボクのために。