24空を隠す雲
ボクの視界は、いつからこんなにくすんでしまったんだろう。
目に見えるものがそうなのか、それともボクの目が、心がそう見せるのかどっちなんだろう。
周りを見て、目の前だけを見て、先を見つめて。
それが出来れば上手くまわるんだと、そう思っていたのに。いや、上手くいっているのに。
どうしていつも、灰色なんだろう。
自分が何を望んでいるのかもわからないんだ。
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○
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Ⅳ灰色の雲
。.。。O。・.。*。.。。O。・.。*。.。。O。・.。*。.。
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「紙切れ……」
机の上で、九十八点の答案用紙をぺらぺらと揺らしながら呟いた。
小テストですらこの点数。あと二点。しかも簡単な足し算で間違えている。どうしてボクはこう、いつも詰めが甘いんだろう。いつもこうなんだから。
——『智朗すごいじゃないか!』
——『さすがね、智朗』
晩ご飯の時にそう言った両親の顔を思い出す。
口ではボクを褒めてくれるけれど……実際には『なんでこんなところで間違えているんだ。なんで百点じゃないんだ』なんて思っているに違いない。
……自分でだってそう思うんだから。
百点じゃない答案用紙なんか、ゴミだ。
たかが小テスト。されど小テスト。このくらいで百点も取れないなんて。
はあっともう一度ため息を落としてがっくりと机の上でうなだれた。
医者の息子、なんて……本当に迷惑な肩書き。
先が決まっているから、“将来が分からないどうしたらいいの”なんて悩んでいる同級生に比べたら楽なのかも知れないけどさ。
なんの意味もない紙くずをぽいっとその辺に放り投げてから、机の隣にあるPCの電源を入れると、しばらくして画面が起動を知らせた。同時に“ポン”と軽快な音が響き、ボクは迷わずPCのメールを開く。
差出人は……恐らく兄だろう。時間は既に十一時。きっとラスベガスにいる兄が起床と共にボクへの返事を送ってきたに違いない。
想像通り、兄からだったメールは、PCの画面上でボクには輝いて見えた。
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ボクには七つ年上の兄、英郎がいた。
明るくて、優しくて、ボクなんかよりも頭だっていい自慢の、兄さんだ。
必死に勉強している姿は見たことがない。けれどいつもテストは満点で、それをひけらかすことはしなかった。勉強だけじゃない、スポーツだって何をやらせてもうまかった。
天才って兄さんのためにあるんじゃないかと、幼い頃のボクは本気でそう思っていたし、今も思っている。
なにを聞いても答えてくれるし、ボクに出来ない事をなんだってこなしていた。いつも友達に囲まれていて、誰もが兄さんを好きで、それが嬉しくてたまらなかった。
そんな兄さんが大好きで、ボクはいつも兄さんのあとを追いかけて過ごしていた。なにをするにも一緒じゃなくちゃいやだと思っていたくらいに大好きだった。
今思えば、七歳も年下のボクがいることを鬱陶しいと思っていたかも知れない。けれど、兄さんは一度だってそんなことを口にはせずに、遊んでくれた。嫌な顔ひとつしなかった。
兄さんはいつも父や母に『今度のテストはどう?』『家庭教師と塾とどっちがいい?』なんて聞かれていた。
ボクはそんなこと一度だって言われたことはない。
それを聞く度に、『さすがお兄ちゃん』なんていう単純な思考しかなかった。
「智郎は……大きくなったら何になりたい?」
兄さんからそんな質問を投げかけられたのはいくつの時だっただろう。
ボクはまだ小さくて。何も考えていなくて。
「ボクはーー……」
ボクの返事を聞いたときの兄さんの顔だけは、今でもはっきりと覚えている。とても、悲しそうで、今にも泣きそうで、だけど「そっか」と言って笑った。
なんでそんな顔をするのか、幼かったボクにはなにもわからなかったけれど、今ならわかることがいろいろある。
兄さんはきっと、いろんなことを考えていたのだろう。幼かったボクには想像もできないことを、想像もできないほど。
模試ではいつも上位に兄さんがいた。高校入学時は首席入学だったと、当時母が鼻高々にボクに言っていた気がする。それは、ボクが受験することを諦めた、私立の有名進学校だ。兄さんの入学生代表の挨拶は、さぞかし輝いていただろう。
そのころ、まだ九歳だったボクは、好き勝手遊んでいた。
勉強はそこそこできたけれど、クラスで一番を取るほどでもなかったし、スポーツだって人よりも特別できるなんてこともなかった。
ただ毎日遊んでいて、好きな事をして、笑っていた。
そんなボクに、両親は何も言わなかった。勉強を強要されたことは思い出す限り一度もない。
好きなことをしていればよかった。
勉強は嫌いだったし、遊ぶことが大好きだった。だからなのか、兄さんほどじゃないテストの点数でも“頑張ったね”と褒めてくれた。
兄さんだったら、“次頑張れ”というような点数なのに。その代わり、兄さんがいい成績だったら、ボクの話なんてそっちのけで褒めちぎっていた。
兄さんがいるから、ボクの成績はあまり気にしなかったんだろう。ものすごく褒められたこともなければ、怒られたこともない。
そんなことは気がついていた。それをイヤだと思ったこともないし、両親に愛されていないとも思わない。
だってそのくらい兄さんはすごかった。そんな兄さんと比較されたらボクだって困る。だってボクは兄さんじゃないし、兄さんと同じにしろなんて言われたって出来るはずない。
逆に、そんな自分の立場を気楽に思ってさえいた。
でも、何となくわかっていたんだ、本当は。
両親が兄さんに寄せる期待の大きさにも、それに兄さんは応えようと人知れず努力していたことも。
そして、それを知っているのに大変だなあ、なんて関係ないフリをしていた自分にも。
好きなことをさせてもらえるのは兄さんがいるからだってことをボクは充分理解していた。
兄さんがいなければボクがその期待を押しつけられていたかも知れない。
でも、ボクは好きなことがしたい。何がしたいの明確にはわからないけれど……少なくともそれば勉強じゃない。
ボクはボクのポジションを満喫し、自分を守るために、家族の中でボクは常に、害にならない存在であり続けた。空気のように、邪魔な存在だけにはならないようにつとめた。
兄さんを尊敬し、両親に怒られない程度に遊ぶ。そこそこにバランスを保つこと。
ボクはそれをしていればよかった。
中学二年になるまでは、そんな風に、好きなようにしてきたんだ。
ボクは兄さんにすべてを押しつけて、すべてを託していただけ。
大学三回生になった兄さんが、突然、家を出るまではーー。
「おれ、海外に行くよ」
一人暮らしをしていた兄さんが夏休みに家に帰ってきて、突然そう告げた。
医大に入って、そのまま父の病院の跡を継ぐのだと思っていた。兄さんがそんなことを言い出すなんて晴天の霹靂ってこういうことなんだ、なんて思ったのを覚えている。
もうすでに大学に退学届を提出したあとで、兄さんはそのまま反対する両親と話をすることなく大きな荷物を抱えて家を出て行った。
母さんは泣いて、父さんはずっと怒っていた。
そして、ボクは……。
兄がさんどういう経緯で、どんな思いがあって家を出たのか。それを聞いたことはない。
その日が訪れるまで、そんなことになるなんて誰が想像出来ただろう。そのくらい兄さんはいつも前を向き、笑っていたのだから。
あれから三年が経った。
たまに送られてくるメールを読んでいると、兄さんは、自由を得たかったのかもしれないと思うことは出来るけれど、そんなの今更だ。当時の兄さんが自由でないとは、思った事はないのだから。
けれど、今、誰よりも自由だ。
家にも時々ポストカードが届くことがある。それを父さんも母さんも、大事に置いてあるのを知っている。
あの日から両親と兄さんが顔を合わせたことはないけれど、ボクの知らないところで話をしたのかもしれない。
当時、ボクが中学生だったから知らないだけなのか、それとも……ボクが身代わりになることになったから、立場が逆転しただけなのか。
兄さんは、フランスに行って、ニューヨークで働き、そして今はラスベガスで生活をしている。
どうやって生計を立てているのか、ボクにはよくわからないけれど……幸せに暮らしているのであれば、嬉しいと思う。
今こうなってしまったのは、少なからずボクにも責任があるのだろう。
だから。これからはボクが代わりに……。
「……に、しても」
ぼんやりと兄さんのことを思い出して、改めてメールを見るとぽつりとひとりごちた。
今、ラスベガスは朝の七時くらいだと思う。こんな時間に起きるなんて、早起きだなあ。いつもはボクが寝ている時間にメールがくるのに。
メールを開くと写真が添付されていた。眠らない街、と言われるラスベガスのネオン輝くストリップロードで黒人の男性と肩を組んでいる。
文章には、ボクの質問、『今はラスベガスでは何しているの?』の返事だ。
といっても、『ラスベガスはすっげーよ! 今日はカジノで二百ドル勝ったよ!』と、訳の分からないことしか書かれていない。楽しんでいることは十二分に伝わってくるけれども。
……二百ドルねえ。
どうせならもっと勝てばいいのに。
ボクが聞いた『何しているの?』は『何して遊んでいるの?』ではないんだけどな。どんなことをして生活をしているのか聞きたかったんだけど。
しかもボクがメールしたのは数日前。ラスベガスでこんな風に遊んでいるならもう少し早めに返事が欲しい。父と母に聞かれたときにボクが答えられないと心配するんだから。
「楽しそうだなあ……」
これが学年トップの将来医者になったかもしれないボクの兄だなんて、思いも寄らない。
家を出て言ってから一度も顔を合わせてない兄さんは、ボクの記憶にある兄さんよりも生き生きして見える。
よく焼けた肌に、少したくましくなった体。送られてくる写真はいつも口をめいいっぱいに開けていて、これ以上ないほどに楽しそうだ。
……小学校や中学校の頃のボクは、こんなのだったかもしれない。
それを兄さんは、今のボクのような気持ちで見つめていたのかもしれない。
「いいなあ、ラスベガス」
どんな感じだろう。
写真やテレビでしか見たことがない。カジノとエンターテイメントの街、という印象しかない。けれどグランドキャニオンもある。死ぬまでに一度は見てみたいな。兄さんはもう……見たんだろうか。
いつのまにか、簡単に飛び出してしまった兄さん。一度羽ばたいた兄さんは、もう、どこにだって自由に、簡単に、行くことができる。
「智郎、まだやっているのか?」
コンコン、というノックとともに、父さんの声が聞こえてあわててPCを閉じた。
別に見られたからと言ってどうってことはないのだろうけれど、兄さんとやりとりをしていることを、なんだか見られたくない気がして。
「うん、どうしたの?」
腰を上げてドアを開けると、もう寝る準備を整えた父さんが少し気を使ったような顔でボクを見る。勉強を邪魔したとか思っているのかもしれない。
「あまり、無理するなよ?」
そんなこと、口で言ったところで……本当は勉強してほしいと思っていることくらいはわかっている。兄さんのように勉強しなくてもトップをとれるのであれば勉強なんてこっちから願い下げだ。
だけどボクは、兄さんじゃないから。
「大丈夫だよ。本読んでいただけ」
だけどボクは、気を使わせないように机の上に置いてあった小説を指さして言った。
勉強してほしかったり、してほしくなかったり。なんてややこしいんだろ。どっちにも対応できるように、ボクの机には常に勉強道具と小説やマンガを準備させていた。
「じゃあ、早めに寝ろよ?」
「うん、わかった」
おやすみ、と小さく付け足してドアを静かに閉める。
ああ、本当にややこしい。口先だけの言葉に、本音に、その本音の先にある本音。いくつもの感情が見え隠れしてめんどくさいったらない。もっと単純になればいいのに。
はあーっとため息を吐き出しながら再びイスに腰を下ろした。
兄さんへの、メールの返信は明日にしよう。
「蓮、怒ってるかな……」
またぼんやりしていると、いつの間にかそんな独り言がこぼれた。
……無駄なことを言ってしまったのかもしれない。
言わないほうがよかったのかもしれない。でも、放っておけなかったんだ。
今日のお昼、蓮は屋上に来なかった。小毬も来なかったから、一緒にどこか、違う場所で食べたんだろう。
珍しくボクと楓と蒼太だけの屋上。それは、いつもよりも広く重く感じた。蒼太はずっと笑っていたけれど。
蓮が、蒼太のことを好きなんじゃないかと思ったのは、出会ってすぐだ。
高校に入ってすぐ。クラスわけが発表されで教室に行くと、蒼太がいた。気さくに話しかけてくれて友だちになった。そうなれば当然蓮も。
ボクは高校から仲よくなった。だけど、蒼太と蓮は中学からだ。だから、関係に微妙な違いがあるのは仕方ないと思っていた。だけど、明確にどこが、とかなにが、とかは言えないけれど……違うように感じただけ。
蓮とボクは、正直言えば、蒼太がいなければ友達にならなかったと思う。でも、話してみればとても楽だった。蓮は、お世辞とか、気を使うことをしないから、その言葉をそのまま受け止めればいい。
だから、蒼太に対してなにかを隠しているのも、ボクにはとてもわかりやすかった。みんなは気づいていないのが、ボクにはわからないくらい。
いつのまにかそれは確信に変わった。
蓮は、蒼太が、誰よりも大事なんだって、こと。
蓮が女の子とよく付き合うのも、蒼太への思いをごまかすためだろう。それくらい必死に隠している蓮に、ボクはなにかを言う気はなかった。知らないふりをすることが、一番だと思っていた。
恋愛とかってボクにはよくわからないけど、相手が蒼太ってことは……とても、苦しいだろう。そのくらいはわかる。
蓮が蒼太を好きだったところで、ボクが蓮を嫌いになるわけじゃない。蓮への気持ちが変わるなんてことはない。大事な友達だ。
なにより、口にしてしまえば……あの場所が壊れるとわかっていた。
だけど。
「やっぱり、言わないほうが、よかったのかな」
机にべったりとくっついて、小さな声でつぶやく。
蒼太にかわいい彼女ができた。
蓮と小毬が付き合った。
何かが壊れ始めたように感じてしまったから。
そもそもなんで、蓮は小毬と付き合ったんだろう。小毬が蒼太を好きってことは、みんなわかっていることだ。多分、蒼太だってわかっているはず。
そんな小毬と、どういう経緯で蓮は付き合うことになったのか。小毬だって、なんで蓮と付き合ったんだ。蒼太が小毬を、誰より大事にしていることだってみんな知っているのに。
どれだけ幼なじみと言われたって、相思相愛だというのは、明らかだ。
……気づいていないのは多分、本人くらいだ。
蒼太に彼女が出来てから……どんどん屋上がくすんでいく。
蒼太も、多分苦しんでいる。小毬も。みんな笑っているけれど、苦しんでいる。それが何よりも、蓮自身を傷つける。
どうして小毬が蓮とつき合ったのか、何のために蓮は、よりによって小毬を選んだのか。そこまではわからない。
ただ、彼らは一番選んじゃいけない道を選んだ。ボクにはそう、見えた。
だから、早めに止めたかった。
蓮たちのため、その気持ちに嘘はないけれど……それ以上に、ボクの大好きな場所を守るために。
このままだと……屋上で笑っている時間が、偽物になってしまう。ボクの、空が失われてしまう。
「結局みんな自分勝手なんだ」
自嘲気味な笑みが溢れた。
気分転換に、と机の引き出しから、スケッチブックを取り出して開く。
何冊目なのかわからない、スケッチブック。いつから、スケッチブックを買い始め、そしてことあるごとに描き始めたのか、自分でもよく覚えていない。
パラパラとめくり、一本のサインペンを手にして、いつものようにペンを走らせた。
黒色のサインペンで、何かを描く。
明確に何かを描こうとしているわけではないけれど、ボクはいつも、何かを描いた。
動物だったり、友達の笑顔だったり、空だったり、抽象的なものだったり。勉強の息抜きに、絵を描いて、そして誰にも見られることなく机の中にしまう。
誰の目にも触れないボクの絵は、とても惨めだ。
だけど、とても自由だった。