13濁色には気付けない
「……小毬、美紅!」
蒼太の声が響いて美紅ちゃんと共に振り返った。
ジュースを両手に持った蒼太が「ん?」と首を傾げたけれど、美紅ちゃんは何も言わずに蒼太に駆け寄っていく。
私……今なにを言った?
蒼太の姿で一気に自分のしたことに自分で驚いた。
なに、バカなことを。
美紅ちゃんに、あんなすぐばれるような嘘をついて……。それをもしも……美紅ちゃんが蒼太に言ったら……。それこそ、そばにいられなくなってしまうかもしれないのに。
ただ、そう言ってみたかっただけ。
そうであればいいのに……そう思っただけ。なのにどうしてあんな嘘を口にしてしまったんだろう。
「はい」
どうしよう……。そう思った時に、蒼太からオレンジジュースを手渡された。
私が好きなオレンジジュース。手元のジュースを見つめて受け取りながら蒼太を見上げると、蒼太はいつものように笑うだけ。
それこそ、さっきの会話なんか忘れてしまったかのように。聞き間違いだったのかも知れないとさえ思える笑顔に、手が小刻みに震える。
「ありがとう……」
どうしよう、ちゃんと言わないと。
冗談だよって、ただの友達だよって……美紅ちゃんに言わなくちゃ。でも、いつ言えばいいだろう。
蒼太がどこかに行った隙に……美紅ちゃんとふたりきりになったら、ちゃんと正直に言って、謝らないと……。蒼太には、バレたくない。
ジュースを両手で落とさないようにしっかりと手にして、シートを片付けるふたりを見つめていた。
ふたりきりになったら言ってしまうかもしれないと、落ち着かなくてなにも出来なくて、ただふたりの背中に視線を送るだけ。
けれど、美紅ちゃんはそんな話は気にするようなことでもなかったのか、蒼太に話しているような雰囲気はなかった。いつも通り笑って、話をしているだけ。その様子をただ無言で見つめて自分のうるさい鼓動を感じていた。
美紅ちゃんを利用して蒼太のそばにいようなんて最低だ。
分かっているのに。だからこそ早いうちにどうにかしなくちゃいけないのに、言ってしまった言葉をどうやって違うんだと言えばいいのかわからない。
今なお一番気にしているのが、蒼太にばれたらどうしようばかりで、嘘をついたことよりも、それによって蒼太にどう思われるかばかりが気になってる。
狡い。弱い。
自分の醜い感情に捕らわれたまま、遊園地は明かりを消して営業を終わらせた。
「じゃあな」
何を話したのか、分からないまま帰路について気がつけば私の家の前で蒼太が別れを口にする。顔を上げて戸惑いながらカバンを受け取って小毬ちゃんに声を掛けた。
「あ、うん……じゃあね、小毬ちゃん」
「……うん」
美紅ちゃんは私に手を振ってそのまま蒼太と共に背を向けて帰って行く。今日お昼を食べてからなにを話したのか全く思い出せない。
心なし、美紅ちゃんの表情も、態度も、暗い気がする。
私が後ろめたいから、そんなふうに思うだけ?
「あ、小毬」
「え?」
蒼太が思い出したように振り返って私の名前を叫んだ。その瞬間に、びくり、と体が跳ね上がる。
「今日はゆっくり休めよ? ご飯食べてからずっとしんどそうだし。今日はありがとな」
ズキンズキンと傷む。胸が、頭が。
ヒビ割れて、ガラガラと何かが音を出して崩れていくような音が、全身を駆け巡る。
「……だ、だいじょう、ぶ」
私の返事に、蒼太は少しだけ眉を下げて笑って……そのまま美紅ちゃんと手を繋いで帰って行った。
どうか、美紅ちゃんが何も言わないでいてくれますように。
そう最後にもう一度願ってから、家の中に入った。
なんて自分勝手な願いだろうか、と苦笑も一緒に。
両親はやっぱりどこかに出かけたみたいで家には鍵が掛かっていた。この気分の時に両親が出かけていてよかったかもしれないと、ほっとして何も言わずに暗い家の中に入ってそのまま電気も付けずに自分の部屋に向かった。
「今度会ったら……ちゃんと言わないと」
辛うじて自分に聞こえる声で呟いてベッドに腰掛ける。
どうやって切り出せばいいのか……今はまだ分からないけれどだけどこのままにしておくわけにもいかない。そんなこと分かってる。
本当に、自分のしたことが信じられない……。
そばにいることができなくなったわけじゃないのに。まだ、一緒にいるのに。それこそ千晴ちゃんとだっていつまで付き合うか分からないんだから……何焦ってるんだろう。
蒼太が言った台詞で、動揺してしまったんだ。冷静に考えてみれば、今日明日で、すぐに離れるわけないっていうのに。
「本当は……わかってるよ」
いつか離れないといけないかもしれないことくらいは分かっている。
このまま一緒にいることができたらそれが一番いいけど。だけど何があるか分からないもの。男と女の幼なじみが、どれだけ脆弱なものかくらいは……わかっているんだ。
今まで蒼太が付き合った彼女やその友達に、何度も言われたことがある。一緒にいるのがおかしいということも、理解している。
見て見ぬふりし続けて、一緒に過ごしてきたのは、蒼太が私を呼んでくれていたから。
だけどもし、もう、私の名前を呼んでくれなかったら……。
もう、私に手を差し伸べてくれなかったら……。
相手が千晴ちゃんだからって、今までと変わらず一緒にいることができるほど……私たちは子供じゃない。相手のことを大事にするようになるなんて当たり前のこと。その相手が、蒼太が前から口にしていた彼女なのだからなおさら。
今まで蒼太から誰かが好きだと聞いたことはなかった。
そう、千晴ちゃんが初めてだった。
とはいえ、話したことのない相手で、一方的な感情。そこにほんの少しの不安は抱いたけれど、それだけのこと。だけど彼女は間違いなく蒼太の気を惹いて、初めて私に他の女の子がかわいいと、大好きだと口にした。
だから、怖いんだ。
始まり自体が、変化だったんだから。
ぶわりと、音を出して不安と言う名の黒い何かが私を襲う。
怖くて、慌てて部屋の灯りを付けた。部屋の中が明るかったら少しは晴れるかも。ほんの少しでもいいから、何かに縋りたい。こんな気持ちでいたら狂ってしまうかもしれない。
どんどん自分が醜くて汚いものに落ちていきそう……。
そんな自分が怖い。そしてそんな自分に、蒼太が愛想を尽かすかも知れないことが何より怖い。
今まだ、そんなこと考えたくない。
ぎゅっと自分の体を抱きしめると、カサっとポケットが音を出して、美紅ちゃんから受け取った手紙を思い出した。
二年ほど続けてる文通。
文通と言えるほど内容がある訳じゃないけれど、美紅ちゃんが、少しでも……そう思って私から手紙を書いたのが始まり。それまでだって蒼太の妹なのだから仲よくはしていたけれど。
いつも書かれていることは学校のことや蒼太のこと。
始めた頃は私に対する疑問や悩みの方が多かった気がするけれど、最近は楽しかったことを書いて教えて貰っている気がする。前よりもよく笑ってくれるようにもなったし、自分の意見も言ってくれるようになった。私がそう思うくらいなら、蒼太はもっと感じているだろう。
その笑顔に、ほんの少しでも私が役立っていると思うのは……厚かましいのかな。
少しだけ折れてしまった美紅ちゃんからの手紙を丁寧に伸ばしてから中の紙を取り出した。
「……え?」
まだ漢字の少ない手書きの手紙。
その中に綴られた言葉と美紅ちゃんの思いに、するっと手から手紙が零れるように落ちた。
「……わ、たし……」
私は、なんてことをしたんだろう。
・
朝の電車は相変わらず混み合っていた。毎日の事でそんなことで今更気分が滅入ったりはしないけれど……落ち込んでいる今の私には、追い打ちをかけられているような気になってしまう。
「どうした?」
ぼけーっとしたままの私に、いつものように駅で会った蒼太が覗き込んで気遣う。それに申し訳なく思うのは、私があんなことを言ってしまったから。
……昨日一日だってずっと家にいて、なにもできないまま。このままじゃダメなのに。
わかっているのに、心のなかで嫉妬にかられた私が囁いてくる。
今まで、週に何回かは遅刻していたのに、最近では全く遅刻しない蒼太に対する不満。私と一緒に登校するためじゃない。千晴ちゃんに会うために蒼太は毎朝、同じ電車に乗っている。
「ううん、大丈夫」
眠いだけ、と最後に呟いた途端に、電車が急カーブにさしかかって体がぐらりと傾いた。
「——わっ」
がしっと思わずそばにあった蒼太の腕を掴んでから体勢を整えて足を踏ん張ると、蒼太がくすくすと笑みを零して私を見つめる。
「ほんっと、お前ここでいっつも転けそうになるよなあ。最初から掴んでりゃいいのに」
「……毎日転けないように訓練しているの」
ほんのり自分の頬に熱が帯びるのを感じて、顔を逸らしながら呟く。
もうすぐ千晴ちゃんが乗ってくる。そしたらきっと蒼太は千晴ちゃんの所に行くだろう。そうじゃないとおかしい。
——だから。
掴んだままの蒼太の服をぎゅっと強く握って目を閉じた。
——だから今だけ。もう少しだけ。
「小毬?」
俯く私に蒼太の声が微かに聞こえたけれど、同時に電車は動きを止めてドアを開けた。順番に降りていく人たち。そして乗ってくる、千晴ちゃん。
同じ車両ではなく、隣の車両に乗るのは、彼女なりに気を使っているってことなのかもしれない。
よく考えれば、不思議な女の子だと、思った。
蒼太と一緒にいるところは電車でしか見たことがないから、ふたりがどんな感じで過ごしているのかは知らないけれど……、本当に蒼太が好きなのかな。そもそもどこを好きになったんだろう。
見ているだけで、蒼太のどこを。
なんて、ね。
そんなことを考えてしまうなんて。悪あがきもいいところだ。
「彼女、来たよ」
ほら、と顔を上げた私に、蒼太は明らかに心配そうな顔を作った。
「でも」
「なにいってんの? 彼女大事にしなきゃこんな奇跡二度とないよ?」
それでも渋る蒼太の顔を見ないように、背中を押して彼女のいつも乗ってくる隣の車両に向かわせた。
「また後でね」
返事は聞こえなかった。けれど蒼太はそのまま千晴ちゃんの所に自分の足で向かって、そして笑いかける。私に向ける笑顔と同じように。
きゅっと唇を噛んで目の前の吊革に手を伸ばす。
少し揺れるだけで、ぐらりとバランスを崩して倒れそうになった。つり革を持っているのに。
「……あの」
聞き覚えのない女の子の声に自分が呼ばれているのか分からず、ワンテンポ遅れてから振り返ると、そこには千晴ちゃんと同じ制服を着た女の子が私を真っ直ぐに見つめていた。
肩まである髪の毛をふわりと巻いている。癖じゃないことは綺麗なカタチを見れば直ぐに分かる。小さい瞳は私に話があるのだと、大事な話なのだと、そう告げていた。
私はこの表情を、知っている。