3.
楽屋は人がいっぱいで殺気だっていた。楽屋ではまだ音出しが許可されているので、必死になってさらっている奏者もいる。
倉科楽音は濃い紅で唇の輪郭をはっきりと描き、眦でアイラインを大きくはね上げた自分の顔を鏡でまじまじと見ていた。裾を引くゴールドのロングドレス、大きく開いた胸元では紅玉が輝いている。
まるで別人だ。
これは自分じゃない。
自分じゃないから、ものすごく、気が楽だし緊張もしないし怖くもない。
地味な黒スーツのマネージャーがやってきた。
しゃがんで楽音をみあげて、人懐っこく笑う。
「楽音ちゃん、綺麗ね。それに今日はすごく落ちついている。
演奏は完璧なのだもの、心配はなにもないわ……あら、ネックレスは駄目よ、楽器に傷がつくじゃない。音の響きも変わるもの。預かっててあげる」
楽音は胸元をおさえて首を振った。
「楽音ちゃん、いい子だから。そうねえ、じゃあ、楽器を構えてみましょうか、構えられる?」
マネージャーは笑顔のまま、穏やかにつづけた。楽音はまたいやいやと首を振った。マネージャーはケースからバイオリンを取り出して肩当てをはめて、楽音に持たせた。構えようとすると命より大事な楽器の裏板が傷つきそうになり、あわてて楽音はバイオリンをおろした。
「ほらね」
保母の資格を持つマネージャーが手のひらを差し出したので、楽音は素直にネックレスを外して渡した。
「綺麗ね。ルビー? まさか本物じゃないわよね――あら、従兄の樹希さんがくれたの、良かったわね、気に入っているのね。さすがIT企業の社長さんね。
でも変ね、樹希さんなら演奏時にネックレスなんてつけられないこと、知っているはずなのに――あらいやだ、話しているうちに始まっちゃった。
ちゃんと預かっててあげるから、心配しないで、落ち着いて、落ち着くのよ、大丈夫よね、まあ、私の方が緊張してきてどうしましょう」
自分よりもうろたえているマネージャーに、楽音は吹き出した。弓を張り、丹念に松脂を塗って立ち上がる。
なんだか今日はとても気持ちがいい。
気持ちがワクワクしている。
なんであんなに舞台が怖かったのだろう。
無性に、演奏を聞いてもらいたい。たくさんの人。もっともっとたくさんの人。もっともっともっとたくさんの拍手。
樹希もきっと褒めてくれる。
昨日は、昔の樹希のように、すごく優しかった。
昔の樹希とはちがうこともたくさんされて、吃驚したけれど、すこし恥ずかしかったけれど、なんだかふわふわして甘く蕩けそうだった。
早く。
早く、弾かなきゃ。
きっと樹希は褒めてくれる。
もっとずっと優しくしてくれる。