2.
倉科樹希が仕事で神経をすり減らして帰宅すると、すさんだ心を和らげるようなバッハのメヌエット無伴奏曲が聞こえてきた。防音の練習室があるのに使っていないのも珍しいし、選曲も珍しい。
居間に顔を出すと、一昨日訪れた宝石店の店員がソファーに座り、楽音がバイオリンを演奏するのを聴いていた。
ひとみしりの著しい楽音だから、見ず知らずの人物とふたりきりでいるのも、演奏を聴かせているのも、珍しいを通り越して奇跡である。だが、演奏を妨げる野暮はせずに弾き終えるのを待った。
「素晴らしいですね。お恥ずかしながらバイオリンを生で聴くのは初めてなんです」綺麗な顔の店員がしろいほおを上気させ、目に涙を浮かべると、楽音は弓をゆるめながら真っ赤になって身体をくにゃくにゃと曲げ、照れた。「それにすごいコレクションなんですね。わたしはあまり教養がないのでよく分からないのですが、高価なものなのでしょう」
倉科家の居間では湿度温度のコントロールできる専用のケースに、ずらりとバイオリンが並んでいる。ストラディバリウスにアマティ、ガルネリ、名のあるものになれば一本で数億円にもなる。
「祖父のコレクションです。成金の悪趣味な見せびらかしですよ。いや、だったというべきかな、楽音が生まれてくるまでは。楽音は天才なんです」
「そうですね、よく分かりました」
店員が素直にうなずくのにほっとして、樹希は楽音に言い聞かせて部屋に戻らせた。
「お茶の一杯も出さずに済みません、なにせ男のふたり暮らしですから。昼間ならば通いの家政婦もいるのですけれど。ビールでよろしいでしょうか」
「仕事中ですから、お構いなく。
ご注文の品、お届けにまいりました。ご確認をお願いします」
店員は小さな袋を開き、仰々しい仕草で小箱を取り出し、中におさめられたペンダントトップを見せる。たしかにおとつい見たルビーがとりついている。
五千万円。都心でもマンションが楽々買える。
狂気ともいえる価格だが、今の樹希は、藁にもすがりたいのだ。望みがかなうなら、五千万円でもまだ釣りがくる。
「これは先ほどの従弟さまのためなんですよね」
「お気づきですよね、楽音は生まれつき唖のうえ、先天性自閉症です。
ただ楽器の才能はあって、祖父は大喜びしたのですよ。ようやく成金じゃなくなったって、自分の血筋が高貴なものになったように錯覚したんでしょうか。1/32のバイオリンも弓もクレモナの一番の職人に特注で作らせました」
居間のいちばん目立つ場所に飾られた小さな楽器を、樹希はちらりとみて話を続けた。
「でも、楽音はダメなんです。学校にも通えない。人前でも弾けない。観客がいなくても、怖がって舞台に立つこともできない。さきほどはビックリしましたよ、初対面の人の前で弾いたのは初めてです。
でもチャンスが来たんです。楽音の演奏に惚れこんだ音楽プロデューサーが根気よく楽音につきあってくれて、人当たりの良いスタッフも用意し、なんとかコンクールの本選までこぎつけました。明日、1位になればテレビでも報道され、名も売れ、大々的にコンサートも開けます。
明日、なんとか明日のコンクールがしのげれば、楽音の人生が変わります」
樹希の話を聞いているのかいないのか、店員は固く強張った顔で、ペンダントの納められた小箱を見ていた。
「もういちど、ご確認をお願いします。本当にこちらの商品でよろしいのですね。もしちがうのであれば、このまま商品は持ち帰り、代金は全額返金いたします。
たしかに、当店の商品でオーナーが作成した物は、強い運命を引き寄せます。でもそれはひずみとなる。外した時にはその反動がすべて振りかかってきます。
本当によろしいのでしょうか」
「ええ、構いません」
樹希が受け取りに署名をすると、店員はすべてを見透かしたようなひとみで樹希を見たが、無言で帰っていった。
嫌な眼だ。
不快感を一掃するため、樹希はバーカウンターでシュナップスをいっきにあおった。
視界の端で、薄茶色の塊が揺れた。楽音の頭だ。廊下からおずおずと樹希の様子をうかがっている。
「怒っていないよ、入っておいで。お前にプレゼントがある」
じっとはしていられない楽音をあやしながら椅子に座らせ、小箱を開いた。
楽音が大きく眼を開いた。ペンダントトップにとりつけられた紅玉を、吸い込まれるように見ている。
「気に入ったのか。良かった。つけてあげよう」
プラチナのチェーンに通して、細い楽音の首にかけてやるといつになく楽音はじっとしていた。白い肌に、赤い血の塊が映えている。この姿を見れば、あの店員だって文句は無いはずだ。目の前でつけてやればよかった、どうせ楽音に話を聞かせたところで、理解はできないのだから。だが後の祭りだし、それにあの不快な店員にもう関わることもないだろう。たかだか宝石店の店員の分際で、どうせ樹希が誰かも知らないのだろう。
楽音はしばらく胸元の紅玉をいじり、舐めたり齧ったりしていたが、飽きたのか、樹希の飲んでいるシュナップスを欲しがった。
「強いぞ、大丈夫か」
小さなシュナップスグラスに鼻を突っ込んで、おどろいて椅子から落ちかける楽音を、樹希は支えた。
楽音は怒られると思ったか、身を固くして怯えていたが、樹希が声を立てて笑うとほっとした顔になった。
「そうだな、未成年だが、すこしくらいなら飲んでもいいか。明日の為にも熟睡した方がいいだろう」
樹希がオレンジを絞り、テキーラをほんの少し混ぜただけのテキーラサンライズを作ると、楽音は背を丸め、猫のように舌で音を立てながら飲んだ。昨日までなら苛々としかり飛ばしていたが、あとすこしの辛抱と思えば腹も立たない。元々、こういう事態になるまでは、樹希は引き立て役であった楽音を可愛がっていた。
コップを空にした楽音がぐらぐら揺れるのを、樹希はささえて部屋に運んだ。
ベッドに横たえるとすでにとろんとしており、眼をほとんど開けていられないようだ。
楽音の部屋には、プロデューサーが作成した楽音の写真が散らばっている。
濃い化粧をし、女もののドレスを身につけている。雀斑だらけで奇形のような細さの楽音だが、ファンデーションで肌を整え女装させると、女王のような迫力を漂わせる。
化ければ化けるものだ。こんな女ならば悪くない。むしろそそられる。
別人のような素顔を見下ろしていると、楽音は潤んだ瞳をうっすらとひらき、すうっとくちびるを開いた。大きくひらいた胸元で、血の色の宝玉が誘うように揺れた。
柔らかなくちびるを貪ると、楽音は身体を強張らせた。酔いが一気に醒めたのか、大きく眼をひらく。その怯えた顔と、明日までだという刹那感で硬い体を押さえつけ、二度、三度と征服した。