1.
夜は嵐との予報通り、午後になると漆黒の雲が重く地上に垂れてくるような空模様となった。企業ははやいうちから帰宅指示を出し、都心の繁華街から人が消えた。暴風雨が首都圏を直撃した時には、大多数の店が、太古より自然の脅威を生き抜いてきた人類の知恵よろしく、原始的だが有効的に、店じまいしてシャッターをおろし、ひっそりと息を殺して嵐をやり過ごそうとしていた。
銀座中央通、ビルの狭間でひっそりと営業している宝石店Liebeの店員は、ガラスの自動扉に叩きつけられる神の怒りのような雨足をみながら、店じまいしようかどうしようか考えていた。
もともと日にひとり、客が来るか来ないかといった店である。
どうしてそれで、こんな銀座の一等地で商売が成り立っているかというと、そこはそれ、まあ、曰くのある特殊な店だからである。
家庭のある店長はそうそうに帰宅しており、今、ビル内にいるのは住みこみの水城陵と、オーナーだけだ。
よし、シャッターを閉じて店じまいにしよう、と水城が決断した時、自動扉が開き、横殴りの風雨の塊が中に飛び込んできた。
毛足の長い緋色の絨毯にぼたぼたと水滴を滴らせながら、男がこうもり傘を払って水気を切り、さらに絨毯に染みをつくるのに、水城はいささかげんなりした。
「そのままお待ちを。タオルをすぐにお持ちします」
「急いでいるんです。
なんでも望みのかなうという商品を扱われているというのは本当ですか」
嘘をつけない水城が黙ると、男は「いくらでもかまいません」と叫んだ。水をぽたぽたと滴らせながら、ずぶぬれの手で水城の肩をつかんだ。
「従弟をコンクールで勝たせたいんです。あの子には才能があるんです。だれだって一度でも聞けば分かります。でも、今のままでは駄目だ。
いい子なんです、お願いします」
水城が絶句していると、足元にタオルの塊が現れた。「はい」とちいさな手で差し出したのは、オーナーの架奏香紀である。外見では、五歳くらいの幼児だ。
男はタオルを受け取りながら、「息子さんですか」と聞いた。
奇妙な事だが、そう言われることは多い。どうみたって親子には見えないはずだ。香紀は銀の髪に緑の瞳。日本人にすら見えないのに。
水城は肩についた水滴を払った。
「申し訳ありません。そのような商品は当店では取り扱っておりません。
常識的に考えていただければ、よくご理解していただけると思います」
「香紀作ってもいいよ。宝石が行きたがっているの」
香紀が小さな手に持ってきたのは、金庫の奥にしまってあった、紅玉であった。鳩血色。3ctの極上品だ。
香紀、向こうへ行っていなさい、と小声でたしなめると、「お願いします、おいくらですか」と男が勢いこんで言った。タオルで濡れた髪をぬぐうと、凹凸のはっきりした顔が露わになる。まだ若い。くっきりとした二重の、甘い眼をしていた。
香紀が片手を広げた。
「五百万円」と水城がいうと、香紀が首を振った。「まさか五十万円?」
だとすると裸石のままでも、著しく原価割れだ。香紀がむうっと顔をしかめ、「ちがうよ、五千万円、あたりまえでしょう」じたばたと絨毯を踏んで言った。
五千万円? 水城はひるんだが、男も血の気の失せた顔で、沈黙した。
これで諦めてもらえるならば丁度よい、と水城が安堵した時、男はブラックカードを取り出した。
「急いでいます。コンクールは三日後。おそくとも明後日の晩までには届けてください」
「分かった。大丈夫だよ」
香紀が胸を張って答えるのに、水城は暗澹たる気持ちになった。




