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ブルー・ワシントンの夜の弾き語り  作者: はまゆう


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プロローグ ーーアマッド・アーバリー

第零話 夜明けを走る男


——ブルー・ワシントンの夜の語り


(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、数小節のブルースを奏でる。そして、語り始める。)


---


こんばんは、みんな。俺だ。


今夜は、いつもとちょっと違う話をする。


(ピアノで低い音を一つ。)


2020年2月23日。ジョージア州ブランズウィック。


まだ覚えてるか?もう何年も前のことのように感じるかもしれない。でもな、俺の頭の中では、つい昨日のことのように鮮明なんだ。


アマッド・アーバリー。


彼はその朝、走っていた。


25歳。健康な若者だった。ただ走るのが好きだった。それだけだ。それだけのことが、この国では——いや、世界中で、なぜか許されないことがある。


彼の背中を追う者たちがいた。


グレゴリー・マクマイケルとその息子、トラヴィス。ピックアップトラックに乗って、彼を追いかけた。理由は何だったのか?「疑い」だ。「違和感」だ。この国の深いところに沈殿した何かだ。


アマッドは彼らを知らなかった。


彼が知っていたのは、自分の呼吸と、自分のペースと、その朝の空気だけだった。


(ピアノが止む。静寂。)


トラックが彼の横に並んだ。彼は足を緩めた。振り返った。何か言おうとしたのかもしれない。「何か用ですか」って。あるいは、ただ立ち止まっただけかもしれない。


俺たちは知らない。


知る術がない。


なぜなら、その瞬間に——


(彼は鍵盤を一つ叩く。低く、鋭く。)


銃声が響いた。


一発目。彼は倒れた。まだ動いていた。地面に片膝をつき、起き上がろうとしていた。


二発目。


彼の心臓は、その朝、最後の鼓動を刻んだ。


ランニングシューズは、まだ新しいものだった。イヤホンは、走る前に選んだプレイリストを、最後まで再生することなく途切れた。


誰のものでもなかった夜明けが、彼の最後のものになった。


(長い沈黙。ピアノの低い音が響き続ける。)


---


なぜ、彼は走ってはいけなかったのか?


この国に生きてきた黒人なら、もうわかってるよな。わかってるはずだ。


立ち止まれば理由を問われる。走れば逃走と見なされる。ゆっくり歩けば挙動不審と記録される。笑えば図々しいと嗤われる。黙れば何か隠しているとされる。


「普通」であることが、許されない。


アマッドはただ走っていた。健康のために。気持ちいいから。朝の空気を肺いっぱいに吸いたかっただけだ。


それが、なぜ、死の理由になる?


(彼は自分の指を見つめる。)


俺は音楽を作ってきた。何十年も。メロディーを重ね、リズムを刻み、コードを探してきた。この国が黒人に教えてきたことを、音符に変えてきた。


でもな、この問いだけは、音楽にできない。あまりに深く、あまりに重く、あまりに——


言葉を失う。


---


別の日。別の街。別の名前。


(彼は一つひとつ指を折りながら、名前を刻むように。)


タマー・ライス。12歳。公園で友達と遊んでいた。持っていたのは玩具のエアライフル。それだけだ。


エリック・ガーナー。43歳。路上でタバコを買った。「息ができない」——それが彼の最期の言葉だった。


マイケル・ブラウン。18歳。サンドラ・ブランド。28歳。フィランド・カスティール。31歳。ジョージ・フロイド。46歳。


(彼は鍵盤から手を離す。)


理由は、尾灯が切れていたから。タバコを買っていたから。ただそこにいたから。


彼らの最期の言葉は、いつもあまりに短い。


「どうして私を追いかけるんですか」

「私は何もしていません」

「息が——」

「ママ——」


俺はこれらの名前を覚えている。曲を書くとき、いつも彼らの名前を頭に浮かべる。音符のひとつひとつに、彼らの声を重ねる。


なぜなら、音楽とは記憶だからだ。メロディーは風のように消える。でも、記憶は——記憶は魂に刻まれる。


(ピアノ。低い、低いブルースのフレーズ。)


---


ある夜、スタジオでひとりになった。


エンジニアは帰った。照明は落とされた。残っているのは、ミキサーの小さなランプだけ。赤い光。それはまるで、この国の傷口のように、じっとりとそこにあった。


俺はピアノの前に座った。指を鍵盤に置いた。


でも、音は出さなかった。


出せなかった。


何度も何度も、アマッドの朝を思い出していた。彼のランニングシューズの音。彼のイヤホンから流れていた曲。彼の心臓の鼓動。それらすべてが、銃声で途切れた。


(彼は鍵盤に指を置く。動かさない。)


そして——指を動かした。


Cのコード。静かに、優しく、しかし深く。


(そのコードを鳴らす。)


音が鳴った。


それは、アマッドの鼓動だった。タマーの息遣いだった。エリックの最後の言葉だった。ジョージの「ママ」だった。


俺は鍵盤を叩いた。何小節か、何分間か、わからない。ただ、音が溢れた。涙のように。血のように。夜明け前の灰色のように。


それが、この曲の始まりだった。


(ピアノ。その時のフレーズを一節奏でる。)


---


音楽は答えを出さない。


それはわかってる。どんなに美しいメロディーも、アマッドを生き返らせない。どんなに力強いリズムも、裁判官の心を変えない。どんなに魂を込めた歌も、銃弾を止められない。


でもな——音楽は問い続けるんだ。


なぜ、彼は走ってはいけなかったのか。なぜ、彼の肌の色が、彼の運命を決めたのか。なぜ、私たちはまだ、この夜明けを待ち続けているのか。


その問いを、音符に変える。コードに変える。ビートに変える。そして、それを届ける。


誰かに。どこかに。いつかに。


(ピアノが静かに流れる。)


---


俺はある日、ブランズウィックを訪れた。


アマッドが走った道を、俺も走ってみた。彼と同じように、朝の空気を吸い込みながら。彼と同じように、舗道を蹴りながら。彼と同じように、心臓を鼓動させながら。


道端には、今も花が置かれていた。何週間も前のものもある。枯れているものもあった。でも、そのすべてが、誰かの手によってそこに置かれたものだった。


俺は立ち止まった。しゃがみ込み、枯れた花びらに触れた。


そこに、小さなメモが挟まれていた。子供の字で、こう書かれていた。


「ごめんね。走りたかったよね。」


(彼はそこで一呼吸置く。)


その字を見た瞬間、俺の中で何かが——何かが崩れた。いや、崩れたんじゃない。解けたんだ。長年、硬直していた何かが、音を立てて溶け出した。


涙が出た。何年ぶりかわからない。スタジオで、ステージで、何度も感情の波を越えてきた。でも、この小さなメモの前で、俺はただの一人の男だった。アマッドと同じように、走ることが好きな、ただの男だった。


(彼は軽く自分の目尻を拭う仕草をする。)


俺はそのメモを握りしめ、立ち上がった。空を見上げた。雲が流れていた。朝の光が、雲の切れ間から差し込んでいた。


誰のものでもない夜明けが、また始まろうとしていた。


俺は息を吸った。深く。アマッドのように。


そして、歩き出した。走らずに。ゆっくりと。この道が、いつか——いつか本当に、誰のものでもない朝になることを願いながら。


(ピアノ。優しいアルペジオ。)


---


あれから幾年。


俺はあの曲を完成させた。タイトルは「Run」。ただそれだけ。


シングルはチャートのトップになった。ラジオで流れた。ストリーミングで何億回も再生された。賞も取った。


でもな、それは何の意味もないんだ。アマッドの命には代えられない。タマーの笑顔には代えられない。エリックの「息ができない」という声には代えられない。


(彼は客席を見渡す。)


しかし、ある日、手紙が届いた。


若い黒人の男からだった。彼はこう書いていた。


「あなたの曲を聴いて、初めて外を走りました。ずっと怖くてできなかったんです。でも、あなたの音楽が『走っていいんだよ』と言ってくれた気がしました。誰にも止められない、と言ってくれている気がしました。」


(彼は少し間を置く。)


俺はその手紙を何度も読んだ。そして、思ったんだ。


音楽は答えを出さない。でも、音楽は勇気をくれる。走る勇気を。立ち上がる勇気を。生きる勇気を。


それで十分なのか?わからない。


それで十分じゃないことも、わかってる。


それでも——


(彼の声が強くなる。)


それでも、俺は歌い続ける。アマッドの鼓動を。タマーの息遣いを。エリックの声を。ジョージの「ママ」を。


この国が、本当の夜明けを迎えるその日まで。


(ピアノ。力強いコード。)


---


走れ。


誰のものでもない朝を、自分のものにするために。

誰にも止められない足で、自分の道を刻むために。

息が続く限り、鼓動が続く限り、朝が続く限り。


(彼は客席の一人ひとりを見つめる。)


走れ、アマッド。

もう誰も、君を止められない。

君の足音は、今もこの街の舗道に響いている。

俺の音楽の中に。

俺たちの記憶の中に。

そして、これから走り出すすべての者の背中に。


(ピアノ。最後のコード。長く、長く伸びる。静かに消える。)


---


アマッド・アーバリーのために。

1994年7月23日 - 2020年2月23日。

彼は走っていた。ただ、それだけだった。


(拍手。温かい、しかし深い敬意を込めた拍手。彼は軽く会釈する。その目はまだ少し赤い。次の曲へと指を動かす前に、もうひと呼吸。そして——ピアノの音が再び始まる。)

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