第73話 観測対象
会議室の結界が、三重に重ねられる。
投影された波形は、従来のどれとも違っていた。
「処理ではない」
分析担当の声が低く落ちる。
「構造干渉。外部からの強制収束ではなく、内部流動の再配列」
沈めた形跡はない。
破壊の痕もない。
だが、歪みは消えている。
「対象、存在分類を更新」
静かな決定。
「観測対象α。
災害未満、管理外」
レオナール・フォン・グラントヴァルは、もう生徒ではない。
危険因子でもない。
“変質体”。
森の縁で、黒装束の女が短く報告を終える。
「進行している」
通信の向こうに沈黙がある。
「適合が加速。使用回数で侵食が進む」
返答は簡潔だ。
「利用価値は上昇」
合理的評価。
彼女は通信を切る。
視線の先には、木立の奥で立ち尽くすレオナール。
「……聞こえる」
彼が言う。
風ではない。
声だ。
微細な歪みが、囁いている。
不安定な揺らぎが、言葉未満の感情を持つ。
怖い。
重い。
戻りたい。
歪みは異物ではない。
流れを乱された構造だ。
レオナールには、それが分かる。
人の気配は、逆に鈍い。
鼓動や息遣いよりも、歪みの震えの方が鮮明だ。
境界が薄れている。
近くで小さな歪みが生まれる。
無意識に、足が向く。
触れようとした瞬間。
「止めなさい」
女の声が鋭く落ちる。
レオナールの手が止まる。
「今は必要ない」
触れれば一回。
侵食が進む。
歪みが、彼に語りかける。
触れてほしい。
整えてほしい。
誘惑に近い。
「……うるさいな」
歪みが返す。
拒絶ではない。
ただの反応。
女が冷静に観察する。
「会話しているの?」
「声がある」
短い答え。
彼はもう、沈める者ではない。
歪みに近づきすぎている。
学園の結界が、遠方で再展開される。
監視が強化される。
レオナールの存在が、座標として固定される。
「観測対象α、追跡継続」
報告が上がる。
女が、わずかに視線を細める。
「使いすぎれば、あなたは戻れなくなる」
忠告ではない。
事実だ。
レオナールは、遠くの揺らぎを見つめる。
「それでも止める」
声は、静かだ。
歪みが、微かに震える。
彼はもう人間ではない。
だが。
まだ人間側に立っていた。




