第70話 境界の向こう
音が、ない。
風も、鼓動も、呼吸も。
それでも、レオナールは立っていた。
足元は地面ではない。
空でもない。
どこでもない場所。
時間の感覚が、剥がれている。
「……死んだか」
声は響かない。
だが、思考はある。
痛みはない。
重さもない。
代わりに、胸の奥の“それ”が、はっきりと形を持っている。
固定歪み。
これまで沈め、抱え、均衡で保ってきた構造。
それが今、彼の前に現れている。
黒くもなく、醜くもない。
ただ、複雑で、重層で、静かな“構造体”。
「……お前か」
敵ではない。
排除すべき異物でもない。
それは、流れだった。
循環の一部。
世界が持つ、もう一つの相。
声がする。
女ではない。
学園でもない。
もっと根源に近い、無機質な響き。
――歪みは、異物ではない。
言葉ではない。
だが意味は伝わる。
――循環。
――調整。
――均衡。
レオナールは理解する。
自分は選ばれたのではない。
適合したのだ。
受け皿になったのではない。
“近づいた”のだ。
構造体が、ゆっくりと彼へ寄る。
吸収ではない。
融合でもない。
境界が、薄れていく。
胸の奥のひび割れが、音もなく崩れる。
最後の一回は、使い切った。
受け皿は壊れた。
だが。
壊れたからこそ、隔たりが消える。
声が、再び響く。
――戻るか。
――溶けるか。
戻れば、元の形ではない。
溶ければ、個は消える。
レオナールは、構造体に触れる。
冷たくも、熱くもない。
「俺は止める」
それだけは、変わらない。
溶けはしない。
だが、元にも戻らない。
境界を、越える。
構造体が、彼の輪郭に重なる。
視界が白く弾ける。
現実。
黒装束の女が、横たわる身体の前に立っている。
脈はない。
呼吸もない。
だが、空気が揺れる。
歪みの残滓が、静かに引いていく。
学園は異常静穏を観測している。
災害級の余波が、完全に消えている。
ありえない現象。
女が、わずかに目を細める。
「……戻るの?」
身体の指先が、微かに動く。
鼓動はまだない。
だが。
何かが、変わっている。
彼はまだ、
戻るとは決めていなかった。
だが。
もう、元の人間でもなかった。




