第41話 隠せなくなる違和感
朝の空気は澄んでいた。
結界の数値は安定し、監視盤の灯りも静かだ。
誰もが「問題は終わった」と信じて、いつも通りの一日を始めている。
それが、学園の正しさだった。
――世界が平穏であるなら、平穏として扱う。
疑い続けることは、余計な摩耗を生む。
だが、平穏の中でだけ、確実に軋む歯車があった。
レオナール・フォン・グラントヴァルは、朝の訓練場に立っていた。
基礎動作。
呼吸と体幹。
魔力を伴わない反復。
以前なら、ここで身体の調子を整え、思考を研ぎ澄ませられた。
今日は違う。
一歩踏み出した瞬間、視界がわずかに揺れた。
揺れは短い。
だが、確実に「抜ける」感覚がある。
息を吸う。
吐く。
呼吸が、いつもより深く必要になる。
「……」
レオナールは、その場で動きを止めない。
止めれば「見える」からだ。
動作を続けながら、意識だけを内側へ落とす。
固定された重みが、胸の奥で沈黙している。
そこに触れれば、反動が返ってくる。
触れないようにしながら、動く。
それが今の自分のやり方だった。
訓練場の端で見守っていた生徒の一人が、小さく眉をひそめた。
「今、ちょっと……」
「気のせいじゃない?」
声は低く、すぐにかき消える。
レオナールは聞こえないふりをして、最後まで動きを終えた。
倒れてはいない。
息も整っている。
外から見れば、何も起きていない。
――だが、“見られた”という事実だけが残った。
午前の授業は結界理論だった。
板書を追い、ノートを取り、質問に答える。
すべて普段通りにこなせる。
だが、言葉が一拍遅れる。
教師の問いに反応するまでに、ほんの僅かな間が生まれる。
その間を埋めるために、レオナールは意識的に口数を増やした。
「その式は……第二項の扱いが違います。
結界の安定性を前提にすると、ここが――」
論理は正しい。
破綻もない。
だが、饒舌さが、以前の彼らしくなかった。
教師は何も言わずに頷く。
周囲も、納得してしまう。
納得できる言葉を出してしまえば、疑問は薄れる。
その代わり、レオナールの内側では、別の消耗が増えていく。
嘘ではない。
だが、真実を隠すための言葉だ。
昼休み、廊下でエリシアとすれ違った。
彼女は、一瞬だけ足を止める。
「レオナール」
呼び止められた瞬間、胸の奥が微かに軋んだ。
「……何だ」
「さっきの授業、答え方が変わった気がした」
責める声ではない。
指摘というより、観測に近い。
レオナールは視線を逸らさず、淡々と返す。
「疲れてるだけだ」
言葉は短い。
だが、それだけでは足りないと直感して、続けてしまう。
「昨日から少し寝不足でな。
魔力の循環が重い時は、説明を整理して口に出した方が楽なんだ」
もっともらしい。
理屈として成立している。
エリシアの表情が揺れる。
納得しそうになって、納得しきれない。
「……そう」
彼女は引く。
だが、引きながらも目が離れない。
エリシアの中で、点が線になり始めている。
反応が遅い。
慎重すぎる。
沈黙が増えた。
そして、説明が妙に整いすぎている。
それは「隠している」というより、
「抱えている」に近い。
問い詰めればいいわけじゃない。
でも、放っておける段階でもない。
彼女のその感覚が、言葉にされないまま場に残った。
午後の実習で、軽い魔法を使う機会があった。
基礎術式。
小さな光を生むだけのもの。
レオナールは、魔力を流す。
発動は成功する。
だが、発動の瞬間に胸の奥が強く反応した。
視界が一瞬だけ白くなる。
ほんの刹那。
それでも、周囲の何人かが気づく程度には、動きが止まった。
「……今の」
「大丈夫か?」
隣の生徒が声をかけてくる。
レオナールは即座に、いつも通りの顔を作った。
「問題ない。
魔力が跳ねただけだ」
嘘ではない。
魔力は跳ねた。
跳ねた原因が、自分の中に固定されたものだという事実だけが、削られている。
「最近、跳ねやすいのか?」
「調整している。すぐ戻る」
言葉が滑らかに出る。
整っている。
それが余計に、会話を終わらせた。
だが終わったのは会話だけで、視線は終わらない。
少し離れた場所で、教員が生徒と視線を交わした。
何かをメモする仕草。
誰も踏み込まない。
踏み込む理由がない。
――まだ“疑問”止まりだからだ。
だが、疑問は消えない。
積み上がっていく。
放課後、勇者が廊下を通り過ぎた。
「今日も順調だな」
屈託のない声。
彼は、変わらない。
前だけを見て、迷いなく進む。
その背中は正しい。
だが、正しいからこそ、こちらの変化に気づかない。
レオナールは頷くだけで、話を終えた。
余計な言葉を出せば、また削れる。
嘘を重ねれば、余白が消える。
夜。
一人になった部屋で、レオナールは静かに息を吐いた。
今日、何度“誤魔化した”かを数えるのはやめた。
数えたところで減らない。
異変は消えていない。
むしろ、外に滲み始めている。
このまま隠し続けるには、
言葉では足りない。
嘘の精度を上げれば上げるほど、
自分の消耗が増える。
それは、矛盾ではない。
構造だ。
「……限界が近い」
小さく呟く。
引くつもりはない。
役割を降りる気もない。
だが、次に必要なのは、
「うまく隠す」ではなく、
「何を選ぶか」だ。
これ以上隠すには、
嘘ではなく、
選択が必要になる。
そのことだけが、はっきりしていた。




