第39話 引き返せない判断
異変は、音を立てずに進行していた。
結界監視点の数値は、相変わらず安定を示している。
波形は平坦で、警告域からも遠い。
だが――
内側が、違った。
レオナール・フォン・グラントヴァルは、同じ地点に立ちながら、
前回よりもはっきりとそれを感じ取っていた。
空気の重さが、均一ではない。
流れが、逃げ場を探していない。
内圧が、閉じたまま増えている。
「……臨界、目前か」
呟きは、誰に向けるでもない。
ここで一度でも噴き出せば、
歪みは連鎖する。
結界。
地脈。
学園。
どれか一つが壊れるのではない。
全部が、少しずつ壊れる。
英雄を呼べばいい。
それは、最初に切り捨てた選択肢だ。
勇者の力は、正面突破のためのものだ。
ここで使えば、蓄積された内圧に一気に刺激を与える。
結果は、爆発的解放。
街道どころか、
学園の結界まで巻き込む。
学園に全通達する。
それも、切った。
封鎖。
再構築。
魔力集中。
対処としては正しい。
だが、動きすぎる。
世界は、今この場所に、
過剰な注目を集めることに耐えられない。
一時封印。
時間稼ぎ。
意味がない。
溜め込まれたものは、いずれ同じ形で噴き出す。
選択肢は、すでに残っていなかった。
残っているのは――
越えてはいけない線の向こう側だけだ。
「……やるしかない、か」
言葉は、淡々としている。
恐怖はない。
覚悟というほど大仰でもない。
これは、感情の選択ではない。
計算の結果だ。
世界の構造は、
この歪みをどこかに帰属させなければならない。
世界に残せば、壊れる。
外に逃がせば、連鎖する。
なら――
自分に帰属させる。
レオナールは、結界の縁に手を当てた。
魔力を流す。
今までとは、違う流し方だ。
抑えるのではない。
分散でもない。
固定する。
歪みを、世界の一部としてではなく、
自分という“節点”に縫い止める。
理論上は成立する。
だが、実行例はない。
なぜなら――
それをやった者は、
元に戻れないからだ。
「……普通の人間では、なくなる」
一瞬だけ、手が止まる。
エリシアの顔が浮かぶ。
学園の中庭。
他愛のない日常。
言葉を選ばなかったこと。
沈黙を選んだこと。
もし、今ここで引き返せば、
あの距離は、まだ修復できるかもしれない。
だが――
その可能性を選ぶには、
世界を賭ける必要がある。
「……選ばない」
それだけで、迷いは終わった。
レオナールは、魔力の流れを一段深くした。
世界の“感触”が、変わる。
結界が、抵抗する。
歪みが、暴れる。
だが、それらはすべて、
彼の内側へと引き込まれていく。
「……っ」
膝が、わずかに震える。
痛みが走る。
内臓を掴まれるような圧迫。
それでも、声は出さない。
ここで意識を失えば、
構造が崩れる。
歪みを、
自分の魔力回路へ固定する。
世界の一部としてではなく、
レオナール・フォン・グラントヴァルという存在の一部として。
時間の感覚が、曖昧になる。
どれほど経ったのかは分からない。
だが、ある瞬間――
空気が、軽くなった。
結界の内圧が、消えている。
異変は、止まった。
完全に消えたわけではない。
ただ、世界から切り離された。
その代わりに。
レオナールの内側に、
重さが残った。
ゆっくりと、手を離す。
立っている。
倒れていない。
呼吸は荒いが、
制御はできている。
だが――
はっきりと分かる。
前とは違う。
魔力の流れが、
自分を経由する前提で組み替えられている。
歪みは、もう外にない。
逃がせない。
自分が生きている限り、
ここに固定される。
「……なるほど」
苦笑にもならない。
成功だ。
計算通り。
だが、
後戻りはできない。
学園へ戻る道すがら、
誰ともすれ違わない。
誰も、異変が止まった理由を知らない。
教員たちは、
「自然収束」と記録するだろう。
英雄は、
別の場所で世界を守っている。
それでいい。
レオナールは、自分の状態を確認する。
魔力を流すたび、
身体の奥で、微かな軋みが返ってくる。
それは痛みではない。
警告だ。
これ以上、無茶はできない。
そして――
もう、同じ場所には戻れない。
「……世界を救った、わけじゃないな」
独り言は、静かだった。
「世界の……一部になっただけだ」
それが、
悪役の役割だ。
誰にも知られず、
誰にも感謝されず。
だが、
確実に機能する歯車。
レオナール・フォン・グラントヴァルは、
影の中で歩き続ける。
もう、引き返せない。
それを理解したうえで。




