第28話 悪役と観測者
指定された場所は、学園の結界を一歩だけ外れた地点だった。
振り返れば、灯りの残る校舎が見える。
生徒たちの生活音は届かないが、確かにそこに“日常”はある。
それでも、この場所は完全に切り離されていた。
結界の内側でも、外側でもない。
守られた世界と、守られない世界の境目。
レオナール・フォン・グラントヴァルは、そこに立っていた。
逃げ場はある。
本気で走れば、結界の内へ戻れる。
だが、そうすれば――
観測者は、学園に近づく。
それだけは、許容できなかった。
「……来い」
小さく呟いた声は、夜風に溶ける。
次の瞬間、
空気が、わずかに“整えられた”。
魔力の放出はない。
威圧もない。
ただ、空間そのものが、
ひとつの意志に従って配置し直されたような感覚。
人影が、そこに立っていた。
年齢は分からない。
性別も曖昧だ。
特徴らしい特徴がない。
だが、それが逆に――異様だった。
記憶に残らないはずなのに、
視線だけは、はっきりとこちらを捉えている。
「来たか」
声は、静かだった。
感情の起伏が感じられない。
敵意も、好意もない。
それが、かえって緊張を生む。
「招いたのは、そちらだろう」
レオナールは、一歩も引かずに答える。
魔力を構えない。
剣にも触れない。
ここで力を見せる意味はない。
「そうだ」
観測者は、あっさりと肯定した。
「お前が応じるかどうかを見たかった」
「……それだけか」
「十分だ」
短い沈黙。
その間に、
互いが互いを測っている。
観測者は、レオナールの立ち方を見る。
呼吸の速度。
魔力の巡り。
レオナールは、相手の“何もしていないこと”を見る。
それだけで分かる。
――勝てない。
直感ではなく、理解として。
「問おう」
観測者が口を開く。
「なぜ英雄ではなく、お前が動いた」
核心だった。
遠回しな前置きもない。
探りもない。
最初から、そこを突いてくる。
「英雄は、必要だからだ」
レオナールは即答する。
「前に立ち、希望を示す存在がなければ、
この世界は簡単に折れる」
「だが、お前は動いた」
「英雄が動けば、壊れた」
観測者の目が、わずかに細まる。
「断言するのだな」
「過去の記録が示している」
結界事故。
暴走。
善意が引き金になる破滅。
「英雄は、間違えない。
だが、万能ではない」
レオナールの声は、低く、しかし揺れない。
「だから、俺が動いた」
観測者は、しばらく黙っていた。
否定しない。
肯定もしない。
「次だ」
再び、問いが投げられる。
「なぜ功績を隠す」
「必要ないからだ」
「それは嘘だ」
観測者は、即座に切り捨てる。
「人は評価を欲する。
称賛は力になる」
レオナールは、首を横に振った。
「称賛は、役割を固定する」
それは、彼自身が一番理解していることだった。
「英雄は、英雄であり続けなければならない。
称えられれば、退けなくなる」
「……だから、お前は退いた?」
「違う」
レオナールは、一瞬だけ目を伏せる。
「最初から、前に立つ気がない」
観測者の視線が、わずかに鋭くなる。
「では、お前は何だ」
この問いを、待っていた。
レオナールは、ゆっくりと顔を上げる。
「悪役だ」
言い切った。
躊躇も、照れもない。
「英雄が進むために、
止まる役割」
「嫌われ、疑われ、
それでも正しい選択を押し通す存在」
夜風が、二人の間を抜ける。
観測者は、初めて明確な感情を見せた。
興味。
「……なるほど」
「お前は世界を守りたいわけではない」
レオナールは、否定しない。
「世界を壊したくないだけだ」
「それで十分だ」
観測者は、そう結論づけた。
「守る者は、理想を語る。
壊さぬ者は、現実を見る」
数歩、距離を詰める。
威圧はない。
だが、空気が重くなる。
「お前は、英雄ではない」
レオナールは、黙って頷く。
「だが、必要な悪役だ」
その言葉は、評価でも、許可でもない。
ただの認識だった。
「共に戦うことはない」
観測者は続ける。
「信頼もしない。
だが、排除もしない」
「……干渉もしない、とは言わないんだな」
レオナールが言うと、
観測者は小さく笑った。
「状況次第だ」
それで十分だった。
味方でもない。
敵でもない。
最も厄介な距離。
観測者は、踵を返す。
「次に世界が歪む時」
背を向けたまま、言葉を残す。
「お前は、今日と同じ選択ができるか?」
答えは、求められていない。
だから、レオナールは何も言わない。
観測者の姿が、空気に溶けるように消える。
残ったのは、夜と、学園の灯りだけだ。
レオナールは、しばらくその場に立っていた。
孤独は、消えない。
だが――
理解された孤独は、重さが違う。
「……できるさ」
誰にも聞かれない声で、そう呟く。
英雄が光の中で戦い続ける限り、
悪役は影の中で、選び続ける。
それが、
レオナール・フォン・グラントヴァルの役割だった。
そして、この夜を境に、
世界は彼を“無視できなくなった”。




