第21話 止める者、進む者
結界区画の空気が、目に見えて変質していく。
風はない。
だが、魔力が流れる音だけが、低く唸っていた。
地面に刻まれた古い術式が、ところどころ淡く光り、
次の瞬間には、意味を失ったように沈黙する。
不安定だ。
誰の目にも、それは明らかだった。
教員たちは、結界の外縁で対応を協議している。
「封鎖を優先する」
「だが、内部の歪みは拡大している」
「触れれば悪化する可能性がある」
慎重な判断。
正しい判断。
だが、その正しさが、
事態の進行速度に追いついていなかった。
勇者は、結界の内側に立っていた。
魔力の流れを肌で感じる。
前回の事故とは違う。
荒れてはいない。
だが、静かすぎる。
まるで、何かを待っているようだ。
「……今度は、俺がやる」
小さく呟き、足を踏み出す。
判断は冷静だった。
突発的な行動ではない。
魔力の干渉を最小限に抑え、
結界の中心へ向かう最短経路を選ぶ。
周囲の魔法具を止め、
余計な刺激を与えない。
英雄として、
今できる最善の動き。
だからこそ、
誰も止められなかった。
結界の裏側。
誰の視線も届かない場所で、
主人公は同じ空間を見ていた。
同じ結界。
同じ歪み。
だが、見ているものは違う。
「……やはり、来たか」
勇者の魔力が触れた瞬間、
歪みの位相が変わる。
表面上は安定している。
だが、内部では、別の歪みが目を覚ましていた。
勇者が悪いわけではない。
むしろ、正しい。
この世界が想定している
「英雄の動き」そのものだ。
だからこそ、
世界はそれを前提に崩れる。
「英雄は、世界を救う存在だ」
主人公は、かつて何度もその言葉を聞いた。
「だが、世界は英雄一人分で済むほど、単純じゃない」
彼は、結界の裏へ回り込む。
正面から触れれば、勇者の行動と衝突する。
なら、支点をずらす。
見えない部分を削り、
破裂点を別の場所へ逃がす。
それは、正攻法ではない。
発覚すれば、
敵対行為と見なされる。
それでも――
やらなければ、壊れる。
一方、エリシアは、結界の外で異変を感じ取っていた。
勇者の魔力。
安定している。
だが、その奥。
別の流れが、重なっている。
「……二つ?」
思わず、足が止まる。
一つは、勇者のもの。
もう一つは――分からない。
だが、どこかで感じたことがある。
冷静で、
鋭くて、
抑制された魔力。
「また……」
胸の奥が、ざわつく。
前回と同じだ。
誰かが、裏で支えている。
エリシアは、唇を噛む。
前は、何もできなかった。
沈黙して、見ているだけだった。
だが、今回は違う。
勇者は、結界の核心部に近づいていた。
術式の中心。
歪みが凝縮されている場所。
ここを抑えれば、
表面上の異変は収まる。
そう判断して、手を伸ばす。
その瞬間――
結界が、悲鳴を上げた。
魔力が弾かれ、
空間が歪む。
「……っ」
勇者は、即座に後退する。
判断は速い。
だが、遅れた。
主人公の介入と、
勇者の制御が、干渉した。
どちらも正しい。
だが、同時に行われてはいけなかった。
結界全体が、不安定になる。
魔力の圧が跳ね返り、
周囲の術式が連鎖的に崩れ始める。
「まずい……!」
勇者が叫ぶ。
このままでは、
前回よりも大きな破裂が起きる。
エリシアは、迷わなかった。
走り出す。
結界の縁。
勇者の背中が見える位置。
「待って!」
声が、響いた。
勇者が振り返る。
「エリシア、下がれ!」
「違う!」
彼女は、首を振る。
「進めば、救えると思ってるなら……今は、止まって」
その言葉に、勇者は凍りついた。
止まること。
それは、彼が最も選びたくない選択だった。
だが――
彼女の目は、揺れていない。
「お願いじゃない」
エリシアは、はっきりと言う。
「判断して。
今は、進まない方がいい」
数秒。
長い沈黙。
その間に、主人公は全力で結界を調整していた。
限界だ。
これ以上は、世界が耐えない。
勇者が、一歩下がる。
完全な撤退ではない。
だが、踏み込みを止めた。
その瞬間、
主人公の処理が噛み合った。
歪みが、逃げる。
結界が、耐える。
爆発は起きない。
代わりに、
深い疲労と、重い沈黙だけが残った。
世界は、救われた。
だが、誰の手柄でもない。
勇者は、結界を見つめながら、確信する。
――やはり、誰かがいる。
自分だけでは、足りなかった。
だが、誰かが補った。
それは、偶然ではない。
エリシアは、胸に手を当てる。
怖かった。
だが、言えた。
止める言葉を、
初めて、選んだ。
主人公は、影の中で息を吐く。
世界は、生き残った。
だが、やり方は――
完全に悪役のそれだ。
英雄の前進を止め、
裏から世界を書き換える。
これ以上、
表に戻る道はない。
それでも、引けない。
正義は、一つではなかった。
そして――
同時に動いた正義は、
必ず世界を歪ませる。
それを理解した者だけが、
次の選択を迫られる。




