第17話 壊れなかった理由
医務室には、消毒薬の匂いが残っていた。
慌ただしさは去り、
負傷者の治療はひと段落している。
大事には至らなかった。
その言葉が、何度も繰り返された。
確かに、命は守られた。
だが、誰もが同じ疑問を抱えていた。
――なぜ、あの状況で収まったのか。
勇者は、ベッドの端に腰掛けていた。
自分の手を、もう一度見つめる。
あの瞬間、確かに制御は失われていた。
止めた記憶はない。
止められた感触もない。
それなのに、暴走は収束した。
教師の説明は簡潔だった。
結界が耐えた。
偶然、負荷が分散した。
理屈としては、理解できる。
だが、納得はできない。
勇者は、訓練場を思い返す。
魔力の流れ。
歪み方。
最後の、あの不自然な減衰。
教科書通りではなかった。
――俺は、止められなかった。
それが、事実だ。
なのに、世界は壊れなかった。
医務室の外、回廊を歩く足音が聞こえる。
振り向くと、そこにいた。
「……エリシア」
名前を呼ぶと、彼女は一瞬だけ立ち止まった。
「体は、大丈夫?」
声は静かだ。
心配していないわけではない。
だが、踏み込みすぎない距離。
「ああ。問題ない」
短い会話。
それだけで、十分だった。
エリシアは、視線を落とす。
「……ごめん」
何に対する謝罪なのか、
彼女自身にも分かっていない。
止められなかったこと。
言えなかったこと。
選ばなかったこと。
勇者は、首を振った。
「違う。悪いのは、俺だ」
その言葉に、彼女は顔を上げる。
否定したい。
でも、否定できない。
自分が沈黙したことも、
彼が踏み込んだことも、
どちらも、確かに選択だった。
それでも――
世界は壊れなかった。
「……誰かが、助けた」
エリシアは、思わずそう呟いていた。
勇者は、はっとする。
「……今、何て?」
「私、何もできなかったのに……」
彼女は、言葉を探す。
「それでも、最悪にはならなかった。
偶然にしては、出来すぎてる」
勇者は、何も言えなかった。
だが、その感覚は、彼の中にもあった。
その頃、別の場所では、
結界の記録が解析されていた。
魔力の残滓。
流れの変化。
一瞬だけ、強制的に書き換えられた痕跡。
「これは……」
教員の一人が、眉をひそめる。
「自然現象ではないな」
誰かが、手を入れている。
だが、その誰かが分からない。
魔力の性質が、学園の誰とも一致しない。
「外部か?」
「いや……それにしては近すぎる」
答えは出ない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの場には、
“見えない誰か”がいた。
その事実は、
静かに共有された。
影の中で、主人公は状況を見ていた。
予想より早い。
気づかれるのが。
だが、後悔はない。
あのままなら、
もっと多くが壊れていた。
――次は、やり方を変える必要がある。
より慎重に。
より深く。
誰にも見えないまま、
世界の綻びを縫い続ける。
それが、自分の役割だ。
夕暮れ、勇者は一人で空を見上げていた。
雲が、ゆっくりと流れていく。
別の場所で、エリシアも同じ空を見ている。
二人は、まだ並べない。
だが、同じ疑問を抱き始めていた。
なぜ、壊れなかったのか。
それは、偶然ではない。
世界は、
誰かの意思によって、
かろうじて踏みとどまっている。
そのことだけが、
確かだった。




