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第1話 先輩(山手線からの転属組) 編

《物語の時代》

 少し昔 ~ 少し未来


《主な舞台》

 武蔵野線


《登場電車》

 オレ(先輩)… 武蔵野線 205系(山手線からの転属編成)


 挿絵(By みてみん)


 ボク(後輩)… 武蔵野線 205系(武蔵野線のオリジナル編成・通称 メルヘン)


 挿絵(By みてみん)



(一)


 もしあなたが、何か用があって武蔵野線を利用することがあるなら、ステンレスの車体に、オレンジと茶色の帯を巻いた電車がやってくることでしょう。その電車は、どこにでも走っているようなただの通勤電車です。ただ、少しばかり年季が入っており、人間に例えればいわばベテランです。そんな電車のお話に、ほんの少しだけお付き合いいただければ幸いです。

 私がその電車と出会ったのは、もうかれこれ30年以上も昔のことです。といっても、より正確に言えば、それは山手線に投入されることになった新型車両の完成イメージが、鉄道ファン向けの雑誌に掲載されていただけのことでしかありませんでした。

 しかし、その姿、特に銀色のステンレスの車体は、当時の国鉄の通勤電車としては画期的なもので、まだ子供だった私に、例えば「はやく乗ってみたいな」とか「これからの電車はみんなこうなるのだろう」といったように、いろいろな妄想をかきたてさせるには充分なものでした。

 私は、自分の地元の路線でも、そんな電車が活躍するようになる時代を思い浮かべました。その光景はとても都会的でかっこよく、未来の明るい世界を表しているかのようでした。

 そして、それから何年も経ち、私も充分に大人になったころ、私が育った街にも、実際にそんな電車が走るようになりました。


□□□


 ああ、電車なんて不便なものだなあ。

 だって、電車として生まれてきたら、一生、電車しかできないんだぜ。電車としてやれなくなったら、それは終わりということなんだ。

 オレだって、昔は山手線でバリバリやっていたんだ。山手線だよ、山手線!日本一の山手線だよ!オレたちみたいな通勤電車の中では、エリート中のエリートなんだ。

 オレだって、山手線を走り始めたころはちやほやされたものだったよ。ステンレスの車体に一段下降窓、それに台車はボルスタレス。軽量化されて線路やバラストには優しいし、それになんて言ったってエコね。消費電力が少なくて地球にも優しいしね。

 みんな忘れちゃったかもしれないけど、というか、最近の若い人たちはそもそも知らないのかもしれないけど、当時の国鉄の通勤電車としては画期的なことだったんだ。もっと後に出てきて、最近あちこちの路線で幅を利かせている E231系 や E233系 なんて、みんなオレたちのマネをしているだけじゃないか。


 それに、電車の世界は厳しいよ。

 結局、ちやほやしてもらえるのは最初に出てきたときだけ。どんなに頑張ったって、しばらくすればまた新しい車両が出てきて、はいさようなら。

 オレたちだって、後輩の E231系500番台 が出てきたせいで、山手線から卒業させられることになった時は、


 「ありがとう!」

 「さようなら!」


 なんて、日頃、山手線に乗ることがない人までみんな手を振ってくれたよ。でもその時だけ。結局、世間の人たちは、ボロくなった電車よりも、若くて新しくてピッカピカな電車の方が好きなんだ。


 山手線を追い出された後、オレと仲間たちは、みんな散り散りになったよ。

 最盛期には、山手線だけで11両×60編成=660両という大所帯だったけど、主な路線だけで、京葉線、南武線、埼京線、横浜線、武蔵野線といったように、あちこちへ転属になっていった。

 しかも、山手線のときは11両編成だったけど、そのまま受け入れてくれる路線なんてないんだ。他の路線は、もっと短いからね。各編成に1両ずつ連結されていた6扉車は主に埼京線へ、その他の中間車は、さらに細かく分割したうえで、八高線・川越線、鶴見線、南武支線、仙石線といった路線に別れていったよ。

 オレだって、山手線から武蔵野線に移ってくるとき、6扉車1両と、中間車2両を切り離して8両になったんだ。



【参考】山手線で活躍していたころのオレの編成

 1号車 クハ204

 2号車 モハ204

 3号車 モハ205

 4号車 サハ205

 5号車 モハ204

 6号車 モハ205

 7号車 サハ205

 8号車 モハ204

 9号車 モハ205

 10号車 サハ204 (6扉車)

 11号車 クハ205


【参考】武蔵野線に転属になってからのオレの編成

 1号車 クハ205

 2号車 モハ205 5000番台 (VVVFインバータ制御 改造済み)

 3号車 モハ204 5000番台 (VVVFインバータ制御 改造済み)

 4号車 サハ205

 5号車 サハ205

 6号車 モハ205 5000番台 (VVVFインバータ制御 改造済み)

 7号車 モハ204 5000番台 (VVVFインバータ制御 改造済み)

 8号車 クハ204


[注釈]

 ク … 運転台付(先頭車)

 モ … 電動車

 サ … 付随車

 ハ … 普通車



 武蔵野線に来た時は、しばらく落ち込んだよ。

 だって、ラインカラーなんてオレンジと茶色の組み合わせだよ。それに合わせて、車体の帯の色も変更になっちまった。ラインカラーというのは、山手線のウグイス色や、京浜東北線のスカイブルー、中央線のオレンジ、そして、総武線のイエロー、といったように、伝統時に一色で決めるのが一流の証なんだ。それが二色以上の組み合わせになると、格が落ちちゃうんだよなあ。


 それに、武蔵野線って府中本町から西船橋までの路線だよ。しかも、都心を通って一直線に進むわけじゃなくて、埼玉県を通って半円を描くように随分と遠回りをしていくんだ。最初から最後まで通して乗る人なんて、いたとしても物好きな鉄オタの人たちぐらいさ

 そもそも、始発駅の府中本町なんて長閑なものでさ、新宿とか渋谷とか都会の喧騒の中でやってきたオレにしてみれば、完全に都落ちだよ。

 その府中本町を発車してからも酷いものさ。ちょっと北上して埼玉県に突入すると、その南部を西から東へ横断するんだ。みんな知ってる? 埼玉って関東平野のど真ん中でしょ。しかも障害物が少ないんだ。だから、特に冬の空気が澄んでいる日は、西の方の遠くに富士山が見えたり、北東の方には小さく筑波山が見えたりしちゃうんだ。そんなだから、寒さが厳しい季節は、北風をもろに受けてそれが身に沁みるんだよ。山手線育ちのオレには、それがとても堪えるんだ。


 駅名標に『浦和』の文字を見たときは、正直泣けたね。

 山手線でやっていたころは、都心で隣の線路を走っていた京浜東北線の方向幕に、『南浦和』という文字を見るたびに心のなかで馬鹿にしていたよ。「浦和って埼玉の中心なんだろ。オレは、日本の中心を走る山手線でバリバリやっているんだぜ」ってさ。でも、今度は自分がその立場さ。

 しかも、『西浦和』も『武蔵浦和』も、『南浦和』、『東浦和』も、みんな『浦和』の中心から外れているんだ。そう、オレたち武蔵野線は『浦和』の中心部さえ通らないんだ。

 それは『浦和』だけじゃなくて、『東所沢』でも『北朝霞』でも『東川口』でも『南越谷』でも、みんな同じ。それもそのはずで、そもそも武蔵野線は、人のために計画された路線ではなくて、貨物列車のために計画された路線だからね。


 オレたちが生まれるよりももっと昔、都心の路線の輸送能力は限界に達していた。そのころは、旅客のみならず、貨物輸送もまだ鉄道が主役だった。

 貨物なんて、迂回できるルートがあるなら、列車によってはわざわざ都心を通す必要はない。そのため、郊外をぐるっと迂回するような、つまり今の武蔵野線が計画された。

 そんなだから、わざわざ市街地の中心部を通して旅客の利便を優先するよりも、むしろ建設費を抑えるために、あえて市街地をさけるようなルートになった。

 その後、時代の流れとともに、より一層、沿線の市街地化が進み、さらに貨物輸送の主役は、鉄道からトラックに移っていた。

 その結果、もとはと言えば貨物列車を迂回させるために計画された武蔵野線でも、今ではオレたちのような通勤電車が幅を利かせ、貨物列車の方がおまけみたいな感じになっちゃっているけど。

 でも、例えば、新座や越谷には貨物用の駅があってコンテナがたくさん積まれているし、例えば、西国分寺や新秋津のように上りと下りとで相対式のホームになっているいくつかの駅では、その間にあえて中線があって、しかもその有効長はオレたち通勤電車の長さよりもかなり長くとられているんだ。その中線は、貨車を何両も連ねた貨物列車が、オレたち通勤電車を待避するのに使うことがあるからね。

 もっとも、武蔵野線は本当は鶴見から線路が延びていて、その鶴見から府中本町までは今でも貨物線なんだ。貨物線だからね、オレたちみたいな通勤電車にはご縁がないのさ。考えようによっては、そっちの貨物線の区間こそ武蔵野線らしいのかもしれないな。


 埼玉県を横断したあとは江戸川を渡って千葉県に入り、その西の端っこの方を南下して終点の西船橋に到着する。でも、実はそれで終わりじゃなくて、武蔵野線のほとんどの列車は、西船橋から京葉線に乗り入れていくんだ。列車によって、東京行きか、南船橋もしくは海浜幕張行き、のどちらかに分かれていく、ちょうどアルファベットのYの字のようにね。


 その京葉線に乗り入れてからも、肩身の狭い思いをするんだ。

 京葉線は10両だけど、武蔵野線から乗り入れていくオレたちは8両でしょ。よく確認しないで、ホームの端っこの方で待っている人もいて、そういう人たちはオレたちがホームに到着すると、慌てて走ってくるんだ。オレたちが悪いわけじゃないんだけどな。

 それに、京葉線って沿岸部の埋め立て地を走るから橋梁も多いし、強風の時はよく運休になるんだ。もちろん、オレたちの乗り入れも中止になって、お客さんに迷惑をかけることになってしまう。これだって、オレたちのせいというわけじゃないんだけどな。


挿絵(By みてみん)


 例えば東京行きの場合、終点の東京駅では地下の京葉線のホームに到着するんだけど、折り返しを待つ間、京葉線の E233系 と隣に並ぶんだ。京葉線って、臨海公園や夢の国へ遊びにいく家族連れが多いでしょ。小さい子がこういうんだ。


 「ママー、あっちの赤い電車が京葉線だよお」

 「そうね、あっちの赤い電車に乗りましょうね」


 たしかに、赤い帯の電車が京葉線だけどな。葛西臨海公園や舞浜なら、オレに乗ったって停車するんだよ。先に発車する方に乗ればいいんだよ。

 でも、こんなのはまだいい方さ。ある時なんて、


 「ママー、あっちの赤い電車の方が新しいよお」

 「そうね、あっちの新しい電車に乗りましょうね」


 新しくなくて・・悪かったな。


 そんな感じで一日の仕事を終え車両基地に戻ると、それはそれで肩身の狭い思いをするんだ。オレたちの寝床は、京葉線の新習志野と海浜幕張の間にある京葉線用の車両基地だからね。京葉線のE233系たちにデカイ顔をされ、武蔵野線のオレたちは小さくなっていなければならないんだ。オレたち武蔵野線の電車には自前の車両基地なんてなくて、京葉線の車両基地に居候させてもらっているだけなんだ。


 こんな境遇のオレにしてみれば、夜な夜な車両基地の片隅で、グチの一つも言わなきゃやってられないのさ。


 ああ、電車なんて不便なものだなあ。



---


 (2)へ続きます。



 以下、年表です。(この章に関する部分のみ)


 1973年(昭和48年) (武蔵野線)府中本町-新松戸 間が開業

 1976年(昭和51年) (武蔵野線)鶴見-府中本町 間が開業《貨物線》

 1978年(昭和53年) (武蔵野線)新松戸-西船橋 間が開業

 1985年(昭和60年) (山手線)205系運行開始

 1982年(昭和62年) (オレ)車両メーカーで落成。同時に山手線に配属。

 2002年(平成14年) (山手線)E231系500番台 運行開始

 2005年(平成17年) (山手線)205系 運行終了

              (オレ)山手線から武蔵野線に転属になる。

                  同時に11両→8両化、電動車のVVVF化改造


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