第1話 コーヒーよりもこいつが嫌い
この世は『体裁』に縛られすぎていると思う。
親、兄弟、友人、上司、世間。相手がどうであれ、その目に自分がどう映るかというのは、それほどまでに重要なことなのだろうか。
雨がしとしとと降る昼下がり。
ルーチェは馴染みのカフェの窓から、行き交う傘の群れをぼんやりと眺めていた。
軍本部から徒歩で十分ほどのこの店は、ルーチェにとって数少ない安らぎの場だ。
王国軍最精鋭である第一魔導戦術師団。二十三歳という異例の若さで、その副師団長に任命されて以来、軍本部へ足を運ぶ機会は格段に増えた。
だがそこで彼女を待ち構えているのは会議、報告、査問、儀礼……。どれも聞こえこそ立派だが、軍本来の使命である「国民を守ること」においては、実績など伴っていない。
優先されるのは権威と『体裁』。「民のために」などと声高に言う人間ほど、机の上でしか剣を振らない。
ゆくゆくは父の跡を継ぎ、総司令官に——なんて、かつては純粋に誇りに思っていたはずのその期待にさえ、今のルーチェは己の輪郭を『体裁』に合わせて削り取られているように感じていた。
店内を駆けるジャズの旋律。ランプの灯りに照らされた、木製のテーブルと革張りの椅子。濃厚なチョコレートの香りを漂わせる、大好物のココア。
ここでだけは、立派になるほどに首元を詰めてくる軍服の襟章を、脱ぎ捨てられるような気がしていた。
ココアを口に含む。舌の上でほどける甘さに、肩の力が抜けていく——はずだった。
目の前に、この男さえいなければ。
「……まさか、またあんたと会うことになるとはね」
「まったくだ」
悪態をつく彼もまた、ルーチェにとっては『体裁』の象徴だった。
レフリート・アイスヴェイルことレフ。王国情報局特務課の主席諜報員にして、現情報局長の息子。
高校時代の同級生。
政略結婚の相手。
そして、ルーチェがこの世で一番嫌いな人間。
高校を卒業して以来、顔を合わせることのなかった宿敵と向き合うこと十五分。
今のところ二人の間に、まともな会話は一つもない。
「……雨だな」
銀髪の隙間から覗く灰色の瞳が、窓の外、その瞳と同じ色をした空をぼんやりと見つめている。
「……そうだね」
「なんだよ、その返事」
不意にその切先がこちらを向く。白い指先がとんとんとん、と苛立たしげにテーブルを叩き、ジャズのテンポを狂わせる。
「もっと話す気はねぇのか? これから夫婦になるってのに」
『夫婦』。その一言に対する不快感が拭いきれない。よく口に出せるものだ、とさえ思う。
「そっちこそ、もう少しマシな話題を振る気はないの?」
「マシな話題、ねぇ……」
レフはカフェラテを一口啜り、皮肉るように口元を歪めた。
「なら、お互いの趣味の話でもするか。例えば——魔術とか」
「喧嘩売ってんの?」
互いへの嫌悪感がガスのように充満したこの空気では、言葉の応酬一つで、あっという間に火花が散る。
高校時代、顔を突き合わせるたびに喧嘩していた二人。粉々にした窓ガラスや、亀裂を入れた壁の数は数え切れない。
振り返れば、そんな因縁の始まりは「どちらがより魔術の腕に優れているか」なんていう、実に単純で子供っぽい張り合いだった気がする。
「ここでその話をする気? このカフェ、間違いなく吹き飛ぶよ」
「はっ、それは困るな」
再び沈黙が落ちる。
今日のこの逢瀬も、世間への演出に過ぎない。
とはいえ、ここまで会話が弾まないとなると、先が思いやられるのも事実だった。
何より、この険悪な空気感では、却って不仲説が広まってしまいそうな気さえしてくる。
「……結婚することになったこと、あんたはどう思ってんの」
ふと、気になったことを口にしてみると、目の前の男はあからさまに顔を顰めた。
「正直、嬉しくはねーな。……特に、相手がお前だってなると」
レフの声が、カフェラテの中に落ちていく。
牛乳で濁ったその水面には、何も映らない。
長い睫毛の間から覗く瞳も、どこか濁って見えた。
「けどまぁ、国のためって言われちゃあな……。今更、拒否する気もねぇよ」
コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、レフはちらと視線を上げる。
「……お前は?」
「私もだいたい同じ」
マグカップの持ち手に指先を絡めながら、ルーチェは答えた。
雨が少しだけ、強くなっている。
窓ガラスに叩きつけられた雨粒が、つーっと滑り落ち、中途半端なところでその動きを止めた。ぐにゃりと潰れた水滴の中には、歪んだ自分の顔が映っている。
「まぁ、上手くやっていくしかないね」
「ああ……国のためだしな」
レフが自分に言い聞かせるように繰り返す「国のため」という言葉が、却ってこの結婚の空虚さを浮き彫りにしていく。
これは「国のため」なんかじゃない。「体裁のため」だ。
ルーチェが属する王国軍と、レフが属する王国情報局。どちらも、長きにわたり国と国民を守ってきた歴史ある機関だ。
軍を動かすためには情報が必要だし、情報を活かすためには軍事力が要る。
同じ使命を掲げており、互いに必要としているにも関わらず、表立って戦う『光』と裏で暗躍する『影』といった立ち位置からか、この二つの組織はあまり良い関係を築けていない。
言葉を選ばずに言えば、仲が悪い。
その溝を埋めるために選ばれたのが、ルーチェたちである。
軍トップの娘と、情報局トップの息子。しかもどちらも若くして、それぞれの組織でエース級の活躍を見せている。
二つの機関を繋ぐ橋脚としては、これ以上ないほどにぴったりな配役だ。
……ただしその実態は、まさに組織間の軋轢を体現したような泥沼なわけだが。
幹部になってから増えた、形式ばかりの業務。そのどれよりも、国民を守るという大義からは離れたこの任務に、屈辱さえ感じる。
そして何より皮肉なのは、二つの組織の架け橋となるはずの二人が、誰よりも互いのことを憎み合っていることだ。
「けど、あんま期待すんなよ。お前との関係が簡単じゃねぇのは、身に染みて分かってるからな」
「そんなの、私だってわかってる。表向きをうまく取り繕えればそれで十分でしょ」
「ああ、そうだな」
そう言って、レフは手元のカフェラテをぐいっと飲み干す。コーヒーカップではなく、まるでジョッキでも煽るような飲み方だ。
カフェインで酔えるのなら、ルーチェも苦手なブラックコーヒーを頼んだかもしれない。
「幸い、“外面を取り繕うのが得意”ってのは、俺とお前の数少ない共通点の一つだ」
レフは口の端についた泡を親指で拭い、薄く笑った。
視線をちらりと腕時計へ落とすと、彼は静かに立ち上がる。穏やかなジャズの音色に、椅子の軋む音だけが微かに混じった。
「じゃ、今日はこれで。……あとで連絡するよ、婚約者さん?」
皮肉の込もった言い回しに、ルーチェはにっこりと笑って返す。
「はいはーい、旦那様」
とその瞬間、レフの背中がぴたりと止まる。振り返った彼の顔には、隠す気などさらさらない——むしろ見せつけるような、あからさまな不快感が浮かんでいた。
「……『旦那様』はやめろ。まだ婚約段階だ」
氷のような視線だけを残し、レフは踵を返す。
その姿を見送りながら、ルーチェはココアを一口飲んだ。チョコレートの香りが鼻を抜け、喉元に微かな苦味が残る。
——やっぱり、冷めている。




