第11話 霜焼けは治らない
「うわっ、これはまた……ずいぶん派手にやったね」
白衣を羽織った男がルーチェの左腕を見て、ぎょっとした声を上げた。茶縁の眼鏡の奥で、下瞼がひくついている。
「あっはは、つい……」
だが当の本人はといえば、ぱっくりと裂けた傷口から血を垂れ流しているくせして、ばつが悪そうな笑みを浮かべて頬を掻くだけ。その見るからに痛々しい光景とは対照的な様子に、男はため息をこぼした。
「君ねぇ……。“つい”で済ませられる傷じゃないでしょ、これ。今日はどこで誰と殴り合ってきたの」
「殴り合ってない。斬り合ってきた」
「はいはい、そういうのいいから」
王国軍、陸軍医務局。
召集を受けたわけでもないのに、わざわざ苦手な軍本部、それも所属している魔道戦術軍ではなく陸軍の施設にルーチェが足を運ぶ理由はただ一つ。
この男、ズーネル・アールツナイ少佐に会うためだった。
シャツにジーンズといったラフな格好。留められているのを見たことがない、白衣の前ボタン。胸ポケットから覗く、銀製のライターと葉巻。ふっと漂う、消毒用ではないアルコールとニコチンの香り。医者にあるまじき不摂政とだらしなさを体現したような人間だ。
だが、彼にかかればどんな傷でも綺麗に塞がることを、ルーチェはよく知っている。
「街でちょっと暴れてる連中がいて。懲らしめてきたの」
「そういうのは警備隊の仕事じゃなかった?」
「魔法が使える奴らだったから」
「ああ、なるほど。通りで君もこんな傷を負うわけだ」
納得したように頷き、ズーネルは慣れた手つきでガーゼに消毒液を垂らす。つんとした香りが鼻先を掠めた次の瞬間、ガーゼを傷口に押し当てられ、冷たさと同時に刺すような痛みが走った。ルーチェが思わずぎゅっと目を瞑ると、瞼の向こうからくすくすと笑い声が聞こえてくる。
その笑い声が途切れたかと思うと、今度は少し真面目な声が降ってきた。
「……君に倒れられたら困る人はたくさんいるんだからね。もう少し体を大事にしなさい」
ズーネルはそう言いながら、ルーチェの傷口に薬を塗る。その優しい手つきから、ルーチェの身を案じていることが伝わってきて、ルーチェは罪悪感から少し視線を逸らした。
「……わかってるよ」
「信用ならないなぁ。今月でここ来たの何回目?」
「片手で数えられはする……と思う」
「十分多いからね」
呆れを孕んだ声音と共に、包帯が螺旋状にくるくると巻かれていく。緩すぎず、きつすぎない、絶妙な締め具合だ。丁寧に結んだ包帯の端を鋏で切りながら、ズーネルはふっと苦く笑った。
「ま、それだけ無茶できるってのもある意味、軍人に向いてるってことなのかもしれないけど」
「……」
——軍人に向いている。
それは昔からよく言われてきた言葉で、ルーチェ自身半ば当然のように受け止めてきた言葉でもあった。
だが、一人だけ、真逆のことを言ってきた奴がいた。
『お前、軍人向いてないだろ』
あれは確か、高校一年の夏。クラスメイトのレフリート・アイスヴェイルに教科書を凍らされ、窓に叩きつけられた日のことだった。
レフリートという存在に、単なる同級生以上の感情はなかった。あの日までは、特に言葉を交わしたことすらなかったはずだ。それなのに何故か一方的に恨まれ、嫌がらせを受けていたせいで、否応なく意識せざるを得なかった。
気配や敵意を隠すのは上手い男だった。だが、標的に選んだ相手が悪い。生まれながらの軍人で、「天才魔道士」と名高いルーチェには、たびたび飛んでくる氷の粒の主が誰かなど、すぐにわかった。
読書中。花壇の水やり中。教室の掃き掃除中。フィラと談笑している時。人に見られない一瞬を狙った、姑息で、説明のつかない攻撃の数々。
だからこそ、最初は信じられなかった。人当たりが良く、誰にでも優しい、爽やかで真面目な好青年。そんな彼が、なぜ自分を執拗に狙うのか。軍への怨恨かとも考えたが、それにしては攻撃の内容があまりにも幼稚で、悪質な悪戯にしか見えない。
そこで授業で偶然隣の席になったのを機に、話しかけてみた——結果がこれだ。
教科書だけでなく、クラスの空気そのものが凍りついた、氷点下の教室。
氷漬けになった教科書がボロボロと崩れ、窓ガラスの破片に混じって床へ散らばっていく光景を、ルーチェは呆然と見つめていた。
だが、ルーチェの視界に映っていたのは凍てついたページでもなく、割れ落ちるガラスでもなく、脳裏に霜焼けのように焼き付いた、レフの笑みだった。
『体への負担が大きいから、魔法はくだらないことには使わない方がいいよ』
ルーチェなりに彼を気遣ったつもりの、その発言の何が着火点になったのかはわからない。
ただ、次の瞬間、手元を吹雪が掠め、左耳のすぐそばで、ばりん、と不穏な音が鳴り響いた。教科書が置かれていた机の上には、白い霜だけが広がっていた。
顔を上げるとそこにあったのは、いつもの柔らかな笑みとは似ても似つかない、挑発的で、暴力的で、憎悪に満ちていて……なのに、心の底から満ち足りたような、レフの笑顔だった。
本来なら、一クラスメイトにすぎない彼がどんな処分を受けようか受けまいがどうでも良かったはずだ。
ただ、その表情の意味を知りたくなってしまった。
だから職員室に呼ばれた時、ルーチェが真っ先に口にしていたのは、状況説明でもなければ彼を責め立てる言葉でもなく、謝罪だった。
「私が先に挑発したのが悪いんです。ごめんなさい」
教師は明らかに納得していなかったが、当の被害者の言葉を否定するわけにもいかなかったのだろう。結局「以後気をつけるように」という当たり障りのない忠告の言葉で、その場は締めくくられた。
「……なんで庇った」
放課後、夕焼け色に染まった教室に、レフの抑揚の欠けた声が落ちた。揺れるカーテンの向こうで紅の街がぼんやりと浮かび上がり、長く伸びた机と椅子の影が床に網目を刻んでいる。
「別に庇ったつもりはないけど」
西日の熱を頬に受けながら、ルーチェは淡々と返す。
「私の言葉に触発されてああなったんでしょ。なら事実じゃん」
わずかに開いた窓から生ぬるい風が吹き込み、髪を掬った。
返事はない。代わりに、隠す気もない嫌悪を孕んだ沈黙と視線が、背中にじくりと刺さる。
「それにあんた、多分トラブルに巻き込まれたりしたらまずい身分でしょ。……目立つようなことするのはやめなよ」
そう告げると、さっきまで平坦だった声色に、困惑と警戒が混じった。
「は……? なんで……」
振り返れば、目も口もぽかんと開けた彼がいて、こいつもこんな間の抜けた顔ができるのか、と思わず笑ってしまいそうになるのを堪える。
驚くのも無理はない。諜報員の身元が割れるなど御法度だ。
彼の父である情報局長は『アイスヴェイル』の姓を公では名乗っていないし、姿すら世間には公開していない。息子の存在さえ当時は秘匿されていた。
かと言って、ルーチェがその鉄壁の韜晦を見破ったわけではない。ルーチェは肩をすくめ、種明かしをする。
「最近、軍と情報局の連携強化が進んでるでしょ? その一環で、少し前に情報局長と会ったの。それで……なんとなく面影があるなって思っただけ」
「……俺が親父に似てると?」
「そっくり。……あ、でも目の色はあんまり似てないかな」
「は? それこそ一緒だろ」
クスッと笑い、ルーチェは机から跳ねるように降りた。カツン、と靴底が床を叩く音だけが、二人きりの教室に響き渡る。
「それに、“天才魔導士”の私が“一般学生”の魔法を避けられなかったなんて知れ渡られても困るしね」
「当たってねぇだろ」
「あんたがわざと逸らしたからでしょ?」
レフは何も言わない。ただ、相変わらず感情の読めない灰色の瞳で、じっとこちらを見据えるばかりだ。否定しないあたり、図星だろう。
あれほど素早く魔法を撃てる人間は、軍の中でもそうそういない。不意打ちかつ至近距離だったとはいえ、ルーチェは反応すらできなかった。
「もし私自身を狙われてたら、ただじゃ済まなかっただろうね……もっと鍛錬積まないと」
背伸びをするルーチェから目を逸らし、レフは室内を怪訝そうに見回す。
「つか、なんでこんなとこ連れてきたんだ」
職員室での事情聴取が終わった後、ルーチェは帰ろうとするレフの制服の裾を掴み、半ば強引にこの教室へ連れ込んだのだった。
レフは不機嫌ながらに、抵抗することも逃げ出すこともなく部屋に居座っていた。負い目からなのか、庇った理由を聞きたかったからなのか、その真意は掴めない。だが、ルーチェにとっては好都合だ。
ルーチェはレフの問いには答えず、無言で彼の方へ歩み寄った。
薄灰色の目が怪しむように細められるが、後退りはしない。
「左手、見せて」
「あ?」
出し出された手の端には霜焼けができていた。
突発的に高威力の魔法を撃った代償だ。色白の肌に、赤紫色が痛々しく浮いている。
ルーチェはその手を、両手でぎゅっと包んだ。
「は……? な、にしてんだよ、お前……」
レフが一瞬目を見開く。だが彼の戸惑いはすぐ、手のひらへ伝わる熱に向いた。
「……熱魔法か」
「さすが。あんまりやると火傷しちゃうから調整いるけどね」
「お前は斬撃魔法を使うって聞いてたが」
「一番得意なのはそれ。でも基本、どの魔法でも使えるよ」
そう答えると、レフは一瞬目を見開き、なぜか露骨に嫌そうに顔を歪めた。
首を傾げるルーチェを無視し、彼は別の疑問を投げかける。
「なんでわざわざ俺の手の治療なんてすんだよ」
「……」
ルーチェは口を噤んだ。
沈黙だけが教室を満たす。レフは急かすわけでも答えを諦めるわけでもなく、じっとこちらを見つめている。
ややあって、観念したように小さく息を吐くと、ルーチェは口を開いた。
「……だって、痛いのは嫌じゃん」
零れた本音は、想像以上に幼く響いた。言葉を放ってすぐ、手のひらと同じくらいの熱が頬に集まり、顔を伏せる。
軍人にあるまじき発言だ。嘲笑が返ってくるのを覚悟して身を固めるが、返事はすぐには来なかった。
代わりに、レフが戸惑う気配だけがじわりと伝わってくる。
やがて降ってきた言葉は、嘲笑などより何倍も鋭く、ルーチェに刺さった。
「……お前、軍人向いてないだろ」
「……」
そんなことを言われたのは初めてだった。
昔から「天才」と称され、期待されてきた。その重さには慣れていた——というより、それが「重い」という意識もなかった。物心ついた頃から背負ってきたそれは、もはや自分の一部になっていた。
自分は軍人に向いている。ずっとそう信じ、疑ったことはなかった。だから何の躊躇いもなく、軍人になることを選んだ。
レフの一言は、そんなルーチェの選択を一刀両断にしたようでありながら、なぜか怒りも悲しみも湧かない。むしろ、どこかでほっとしている自分がいた。背中に乗っていた重みが、自分の一部ではなく、自分が選んで担っていただけのものだと気づいたような、そんな感覚。
だが、解放された分だけ、ぽっかり穴が空いたような空虚さが残る。
痛みを味わいたくない。人に痛みを与えたくない。
それは今まで誰にも明かしてこなかったし、自分自身でも目を逸らし続けていた本心だった。
魔導士としてのルーチェは、軍人に向いている。だけど一人の少女としてのルーチェは、きっと軍人に向いてはいない。
その時、ルーチェの手を振り払うようにレフが鋭く左手を振るった。
本能が脊髄を揺さぶり、ルーチェは反射的に右手を振り上げる。指先から放たれた斬撃が、レフの氷魔法を打ち砕いた。
「ちょっと、何するの!? せっかく治したのに!」
「うっせぇ、余計なお世話なんだよ」
砕けた氷が床に弾け飛び、夕陽がその欠片を一瞬、赤銅色に染める。じわりと溶けゆくそれが、木目に小さな染みを残した。
「やっとお前の得意魔法を見せてくれたな」
赤紫色の手を組み、レフは子供じみた悪戯な笑みを浮かべる。
「また窓ガラスでも割られたら、今度こそ庇いきれないよ」
「だから、余計なお世話だって言ってんだろ」
吐き捨てるように言いながら、レフはルーチェとの距離を詰めた。顔を覗き込むように身を乗り出され、不穏な光をちらつかせた灰色と視線がかち合う。
「最初は騒ぎになっても、繰り返して日常になれば、そのうち誰も気にしなくなるだろ?」
「は……?」
「お前が痛みを怖がらなくなるための訓練、俺が付き合ってるよ。そうすればお前は魔法を撃つことに抵抗がなくなるし、俺はお前に好き放題魔法を撃てる。Win-Winだろ?」
馬鹿なのか。
にやりと口角を持ち上げる彼に対し、ルーチェが思ったことはその一言に尽きた。校内で魔法を乱射しようなど、正気の沙汰ではない。
だが、頭ではそう理解しているはずなのに、まるで喉を掴まれているかのように言葉が詰まった。
目の前で揺れる彼の瞳が、まるで鏡のように見えた。いつもは分厚い雲に覆われて見えなかったその奥が、今だけは透き通っている。
浅いと思っていたその曇天に、どこまでも引き摺り込まれてしまいそうだった。
——ああ、彼も同じなんだ。
直感的に、そう思った。
彼も自分を偽るのが好きじゃない。だけど、やるしかないと知っている。
彼は諜報員で、私は軍人。互いにそうありたいと願い、そうやってこの国を守りたいと思った気持ちは嘘じゃない。
やってやろうじゃないか。
ルーチェは微かにレフに笑い返した。
彼を叩き潰すためならどんな痛みを伴ってでも、魔法を撃てる気がする。
それだけ、あいつのぎらついた目が嫌いだった。




